第15話 血と包帯の夜
広間の空気が一拍、割れた。
怪我人多数、まではこの屋敷は揺れなかった。出撃のたびに備えてきた事態だからだ。だが「閣下も」のひと言は違った。盆を持ったメイドの手が止まり、廊下の足音がもつれ、誰かの持っていた燭台の火が揺れた。当代の六年、一度も破られたことのない神話に、ひびの入る音がした。
「湯を沸かしてください。大鍋で二つ」
自分の声が広間に通るのをリディアはどこか他人事のように聞いた。
「一つは傷を洗う湯、一つは器具と布を煮る湯です。混ぜてはいけません。布は煮沸したものだけを使います。医務室の新しい薬草を全部、寝室ではなく――階段を上げるのは体に障ります、一階の客間に寝台を。灯りをあるだけ。それから蜂蜜と塩、湯冷ましを」
言い終えてから、広間中の目がこちらを向いていることに気づいた。
一瞬の静止のあと、最初に動いたのはセバスティアンだった。
「――お聞きの通りに。湯はミレイユ、寝台はノエル、医務室はクラリス。動きなさい」
屋敷が再び回り始めた。今度はリディアの段取りを軸にして。
手は震えていなかった。
当然だ、とリディアは思った。この手は十年、そういうふうに躾けてきた。エミリアが熱を出すたび、血を吐くような咳をするたび、医者は来ないと知りながら、この手だけは震えないように躾けてきた。震える手は湯をこぼす。こぼれた湯は拭く時間を奪う。時間は病人の体力で払われる。だから震えない。手だけは。
心臓の方は躾けそこねたままだったけれど。
◇
本隊は日没と同時に戻った。
門をくぐった隊列は出て行った時と同じ数には見えなかった。実際に欠けたのではなく、形が違うのだ。騎馬の列の間に荷馬車が挟まり、荷台には毛布に包まれた男たちが載っていた。歩ける者が歩けない者の馬を引き、盾は割れたまま背負われ、松明の火が煤と血と土の色を順番に照らした。
その列の最後に、彼はいた。
馬上に、いた。自力で手綱を握り、背を伸ばして。一瞬、リディアは早馬の報せが誤りだったのかと思った。だが馬が篝火の輪に入った時、見えた。左の脇腹から腿にかけて、甲冑の黒より暗い色が濡れて広がっていた。鞍の革が、鐙の金具が、同じ色に光っていた。
並走してきたカイが先に飛び降りた。煤だらけで、頬に浅い切り傷があり、いつもの軽さがどこにもなかった。差し出された手をレオンハルトは無視して、自分で降りた。降りて、立った。立てるのだ、この男は。その立ち方がどれほどの無理の上に組み上げられているか、傍目には分からないほど正確に。
「――担架の連中が先だ」
最初の指示がそれだった。
「腹をやられたのが二人いる。医者はそっちへ。全員の処置が終わるまで、俺は後でいい」
「旦那様」セバスティアンが進み出た。「医者は街から三人呼んでおります。手は足りております」
「なら、いい」
レオンハルトは頷き、歩き出した。玄関までの二十歩を彼は歩き切るつもりらしかった。リディアはその進路に、まっすぐ立った。
「お怪我を拝見します」
「かすり傷だ」
即答だった。眉間の皺も、声の低さも、平時と寸分違わなかった。この男は嘘が下手なはずだった。お世辞も言えず、社交も出来ず、説明はいつも短く終わる。その男の「かすり傷だ」は恐ろしいほど滑らかだった。ああ、とリディアは悟った。この嘘だけは言い慣れているのだ。
「そうですか」リディアは退かなかった。「かすり傷は鞍に血溜まりを作りません」
レオンハルトの足が止まった。
「歩けるうちに客間へ。寝台と湯の支度は出来ています。……歩けなくなってから運ばれるのと、ご自分で歩かれるのと、どちらが部下の皆さんの手間になるかは閣下が一番よくご存じのはずです」
我ながら、ずるい言い方だった。この男は自分のためには一歩も曲がらない。だから、部下の手間を秤に載せた。レオンハルトはリディアを長いこと見下ろした。篝火の逆光で、その表情は読めなかった。
「……手際がいいことだ」
やがて低くそう言って、彼は客間の方角へ進路を変えた。
その背中がわずかに揺れたのをリディアと、カイと、セバスティアンの三人が同時に見た。三人が同時に踏み出し、しかし誰の手も届く前に、レオンハルトは廊下の柱に手をついて、自力で立て直した。立て直して、何事もなかったように歩いた。客間の敷居をまたぎ、寝台の縁に腰を下ろし――そこで初めて、糸が切れた。
「旦那様!?」
「触るな。……倒れてない。座った」
「それを世間では倒れかけたと申します」
セバスティアンの声をリディアは背中で聞いた。手はもう、動き始めていた。
◇
処置は一刻に及んだ。
街の医者は白髪の老人で、腕は確かだった。甲冑と下衣を剥がした時、老医は口の中で短く罵り、リディアは何も言わなかった。言う代わりに、洗う湯を替え、針の通る糸を湯から上げ、老医の手元に灯りを寄せた。
左脇腹の裂傷。深い。肋骨に沿って、骨が止めた。肩の打撲。背中に三条の爪痕。古い傷の上に新しい傷が重なって、この男の体は傷の年表になっていた。十六から六年分の、誰にも読まれたことのない年表だった。
「……嬢ちゃん、手伝いは慣れてるね」老医が針を動かしながら言った。「弟子にした覚えはないが」
「妹の体が弱かったもので」
「そうかい。……いい支度だった。湯を分けたのも、布を煮たのも。おかげで縫うことだけ考えられる」
当の病人は麻酔代わりの酒を断り、縫われる間、一度も呻かなかった。ただ天井を見ていた。時折、目だけが動いて、部屋の隅の椅子を確かめた。そこには彼の装具一式が運び込まれていた。割れた胸甲。裂けた革帯。そして、二本の剣。
リディアも、それを見た。
実戦の剣は鞘ごと泥と血にまみれていた。柄糸は黒く汚れ、鍔には刃こぼれの粉が噛み、拭っても取れない色が革に染みていた。三日間の戦場がそのまま形になったような有様だった。
その隣に、黒鞘が立てかけてあった。
無傷だった。
泥の一跳ねも、血の一滴も、浴びていなかった。同じ腰に、同じ三日間、同じ戦場に差されていたはずの剣がまるで今しがた飾り棚から下ろされたばかりのように、静かに、艶やかに、そこにあった。
――あなたは働かなかったの。
場違いな考えだと分かっていながら、リディアは一瞬、その黒い鞘に、灰鷹館の自分を重ねた。誰よりも近くにいて、何もさせてもらえない。その居心地をリディアは知っている気がした。
「――縫い終わり。あとは熱との相談だ」
老医が糸を切り、腰を伸ばした。
「血を失いすぎとる。今夜は熱が上がるよ。峠というほどのもんじゃないが二日は寝かせること。……寝てるタチの顔じゃないがね、こりゃ」
「寝かせます」
リディアが言うと、寝台の上から、掠れた低い声がした。
「……明日、報告書を」
「寝かせます」
二度目は老医と、戸口のセバスティアンと、リディアの三人の声が綺麗に揃った。




