第16話 夜番の攻防
夜番を巡って、短い攻防があった。
「交代で付きます。リディア様は明け方の番を」とクラリスが言い、「いえ、私が通しで付きます」とリディアが言い、睨み合いにもならない静かな押し問答が三往復した後、決着をつけたのはクラリスの方だった。
「……湯は熱めです」
「存じています。ご本人は温度に無頓着ですから、こちらで調整します」
「解熱の薬草はそのままでは飲みません」
「飲まない理由も、対処も、あなたから教わりました」
クラリスはリディアの顔をじっと見た。それから何かを測り終えたように、小さく頷いた。
「――白湯の替えは戸口に。夜半に一度、私が覗きます」
それは陣地の明け渡しではなく、副官の配置だった。扉が閉まる間際、クラリスの声がいつもの端正さのまま、わずかに低くなった。
「リディア様。……お願いします」
言葉の中身の割に、深い声だった。リディアは寝台の脇に椅子を据え、火の加減を確かめ、長い夜の陣に着いた。
熱は夜半にかけて、坂を上るように上がった。
浅い呼吸。汗。時折、傷に障るのか、眉間の皺が深くなる。リディアは布を絞っては額のものと替え、汗を拭き、上掛けの位置を直した。手順は体が覚えている。何百夜、妹にしてきたことだ。違うのは腕の太さと、肩幅と――布を替えるたびに、自分の心臓が立てる音の大きさだけだった。
扉が音もなく開いたのはそんな頃だった。
「……起きてる?」
カイだった。煤は落としてあったが頬の切り傷はそのままで、寝間着代わりの粗末なシャツ姿だった。手招きすると、少年は音のない歩き方で入ってきて、寝台の足元の床に、直接あぐらをかいた。
「眠れないのですか」
「腹が減った」
「……待っていてください」
厨房の残り火で温めた鍋を持って戻ると、カイは同じ姿勢のまま、レオンハルトの顔をじっと見ていた。リディアは椀によそって、床の少年に手渡した。
「約束の、煮込みです。三日目のうちに戻りましたから、約束はあなたの勝ちです」
「……ん。約束な」
カイは椀を受け取り、一口すすって、長いこと黙った。それから、ぽつりと言った。
「うめえ」
「お世辞なら結構です」
「レオンの真似すんな」
少年は笑おうとして、失敗した。匙を持つ手の甲に、まだ赤い擦り傷が走っていた。リディアは何も訊かず、火に薪を一本足した。訊かなくても、話は勝手に始まった。腹の減った子供に温かいものを食べさせると、口がほどける。それも、何百夜の経験のうちだった。
「……骨鎧ってのはさ、深場のやつでさ。装甲が骨でできてて、矢が通らねえの。普通は外に出てこねえんだ、絶対。それが十二、群れの先頭切って出てきた」
「…………」
「盾列が保たねえって隊長が言って、退き際の算段始めて――そしたらあいつ、単騎で突っ込んだ。穴んなりかけた右翼に、一人で栓しやがった。十二のうち九つ、あいつが斬った。俺と隊長ので三つ。……で、九つ目の時に、横から来た十の爪があれ」
カイの顎が寝台の上の左脇腹を示した。
「俺がもう半歩速けりゃ、なかった一発だ」
「……あなたのせいでは」
「分かってる。分かってて言ってんの、こういうのは」
少年は椀の底の豆を匙でかき集め、乱暴に口に放り込んだ。
「あいつ、いっつもああだ。人数数えて、足りない場所探して、自分で埋めに行く。自分の番だけ、いっつも後回し。……なあ、アンタ。死んだら殺す、って言い回しあるだろ。あれさ、俺、あいつにだけは本気で言ってんだ」
理屈になっていない言葉ほど、まっすぐ届くことがある。リディアは椀に二杯目をよそってやった。
それから、ずっと喉に痞えていたものを訊いた。
「カイ。……あの剣はなぜ無傷なのですか」
部屋の隅の黒鞘を目で示す。カイは振り向きもしなかった。何を訊かれたか、見なくても分かっている顔だった。
「ん……。ああ、あれな」
二杯目の椀を膝に置いて、少年は言った。
「あれはレオンも抜いたことねえんだ。一回も。先代も、抜かなかった。本当の危機にしか応えない剣、なんだとさ」
「……本当の危機」
「アッシュフォードの家伝でさ。詳しくは俺も知らね。セバスさんなら知ってんのかもだけど、あの人、あの剣の話になると、急に茶ぁ淹れ始めるから」
本当の危機にしか、応えない。
リディアは黒い鞘を見た。今日、あの男は単騎で群れに栓をして、肋骨まで爪を受けた。それは本当の危機ではなかったというのか。ではこの剣が鞘を離れる日、この街には今日を「かすり傷」と呼ばせる何が来るというのか。……考えて、やめた。棘のような「十五年前」が胸のどこかで、また疼いた気がした。
「――ごちそーさん」
カイは椀を重ねて立ち上がり、戸口で一度だけ振り返った。
「アンタ、寝ろよ。適当に」
「あなたもです。……カイ」
「あ?」
「戻ってきてくれて、ありがとうございます。あなたも、あの方も」
少年は虚を突かれた顔をした。それから、照れ隠しの舌打ちとも笑いともつかない音を立てて、闇に消えた。足音は最後まで聞こえなかった。
◇
夜半過ぎ、病人が薄く目を開けた。
覚醒と呼べるものではなかった。熱の底から一瞬だけ浮かび上がった、朦朧の目だった。リディアは支度していた薬湯の杯を取った。解熱の煎じ薬。医務室の、あの新しい薬草だ。
「お薬です。飲めますか」
男の目が杯に焦点を合わせた。そして、掠れた声が言った。
「……いらん」
「熱が下がります。飲んでください」
「薬は……足りん時に、効かなくなる。取っておけ。……俺に効く薬は――勿体ない」
リディアの手が止まった。
自分に効く薬は勿体ない。クラリスの講義で聞いた時は変わった理屈だと思っただけだった。本人の口から、熱に灼けた声で聞くと、それは理屈ですらなかった。この男の中には天秤がひとつしかないのだ。皿の片方に自分を載せ、もう片方に自分以外の全部を載せる、壊れた天秤が。そしてその壊れ方をリディアは知っていた。毎晩、妹の皿に自分のパンを載せ替えていた小さな手をリディアは覚えていた。
「……そうですか」
リディアは杯を置いた。争わなかった。争い方なら、他に知っている。
戸口の白湯の隣から、冷ましてあったスープの器を取る。焦がしバターの匂いのする、あの煮込みの上澄み。そこへ薬湯を匙で三杯、静かに混ぜた。クラリス直伝、アッシュフォード邸の正式な処方である。
「ではお薬はやめにします。……スープです。少しだけでも」
匙を口元へ運ぶ。病人は疑いもしなかった。疑う力も残っていなかったのだろう、差し出された分を飲み下して、また熱の底へ沈んでいった。リディアは器を置き、こっそりと、誰にともなく頭を下げた。騙しました。でも、これで熱は下がります。恨むなら、あなたの家風を恨んでください。
◇
明け方が一番ひどかった。
熱は上がりきり、病人は浅い眠りの中で、うなされ始めた。言葉は切れ切れで、ほとんどが命令の形をしていた。
「……下がれ。そこは俺が」
「……盾、上げろ……」
「…………数を」
布を絞るリディアの手が止まった。
「……数を数えろ。……欠けは。……全員か」
夢の中でまで、この男は数えていた。自分の後ろの人数を。帰る者の数を。荒い息の間に挟まれる言葉のどこにも、自分の傷の話はなかった。夢の中でまで、自分だけが勘定に入っていなかった。
「――全員です」
気づいた時にはリディアは病人の耳元に身を屈めていた。
「全員、戻りました。あなたが数えるべき人は一人も欠けていません。……あなた以外は誰も」
届いたのかどうか、分からなかった。ただ、荒かった呼吸が少しだけ深くなった。眉間の皺が少しだけ緩んだ。リディアは椅子に座り直し、馬鹿げたほど大きな音を立てる自分の心臓と、二人きりで残された。
――ああ、もう。認める。認めますから。
帳簿は夜明け前に破綻した。受けた恩の列と、返すべき対価の列と、立場の但し書きで出来ていたはずの帳面の、どの列にも載らない数字が一晩で積み上がって、桁が溢れた。心配に立場は要らないと、あの庭師は言った。花に水をやるのに許可は要らないと。
要らなかった。本当に、要らなかった。
怖い。この人が死ぬのが怖い。理由も、資格も、対価も、何ひとつ整わないまま、その一行だけが帳簿のどの頁でもない場所に、勝手に書かれていた。
窓の外が白み始めていた。
病人の呼吸はいつの間にか、深く、規則正しくなっていた。額に置いた布の下の熱が引き潮のように下がり始めているのをリディアの掌が確かめた。
峠は越えた。
リディアは椅子の背にもたれ、天井を見上げ、それから自分の目元を手の甲で乱暴に拭った。泣いていない。断じて泣いていない。徹夜で目が乾いただけだ。そう決めて、瞬きをしたら、決めたそばから頬に熱いものが伝った。




