第17話 泣いていません
「……泣くな」
低い声がした。
リディアは跳ねるように顔を上げた。寝台の上で、猛禽の目が開いていた。熱の膜の取れた、いつもの、あの目だった。それがまっすぐ、リディアの頬を見ていた。
「泣いていません!」
手の甲で頬を拭いながら言った。拭いた時点で自白なのだが口はもう言ってしまっていた。
「そうか」
レオンハルトはそれ以上追及せず、天井を見て、自分の体の状態を確かめるように、ゆっくりと息を吸った。脇腹の痛みに、眉間の皺がわずかに動いた。
「……ここは一階の客間か」
「はい。階段は体に障りますので」
「そうか。……部下は」
「全員、戻っています。腹部を負傷された二人も、夜のうちに峠を越えたと。……夜中に、同じことをお訊きになりました。覚えていらっしゃらないでしょうけれど」
「そうか」
三度目のそうかは他の二度より、息が深かった。目に見えて、体から力が抜けた。数え終えた者の顔だった。そして次の瞬間、この男は寝台に肘をついて起き上がろうとした。
「何をなさっているのですか」
「報告書を書く。それと、防壁の東の――」
「寝てください」
「傷は塞がった」
「塞いだのは糸です。あなたの体ではありません」
リディアは病人の肩を掌ひとつで押し戻した。健康なこの男が相手なら、リディアが全体重をかけてもびくともしないだろう。その男が掌ひとつで枕に戻った。それがどれだけ血を失ったかの動かぬ証拠だった。
その、あまりの軽さに――何かが切れた。
「……昨夜、医師が何針縫ったか、ご存じですか」
「……いや」
「二十七針です。肋骨に沿って、指の入る深さでした。骨が一本受け止めていなければ、腹の中まで達していました。あなたはそれをかすり傷だと仰った」
「騒ぐほどの傷では――」
「どうして!」
声が出た。
自分でも聞いたことのない声だった。灰鷹館の氷の声でもなく、鎧の皮肉でもなく、ただの、剥き出しの大声だった。
「どうして、そんな無茶をするんですか!」
敬語のまま、リディアは怒鳴っていた。敬語の型だけ残して、中身が全部、噴き出していた。
「単騎で突っ込んだと聞きました。十二のうち九つを一人で斬ったと。退き際の算段を捨てて、穴に自分で栓をしたと! 挙句、鞍が血溜まりになるまで馬上で背を伸ばして、担架の部下が先だと言って、薬は勿体ないと言って――あなたはあなたの扱いだけがどうしてそうなんですか!」
言い切って、肩で息をした。
レオンハルトは目を見開いてリディアを見ていた。魔物の群れにも動じない男が初めて虚を突かれた顔をしていた。長い沈黙のあと、彼は視線を天井へ戻し、少し考え、それからいつもの淡々とした声で、答えた。
「俺が行けば、他の者が死なずに済む」
それだけ、だった。
開き直りでも、照れ隠しでもなかった。雪は白い、と言うのと同じ声だった。この男の中で、それは議論の余地のある方針ではなく、ただの事実なのだ。俺が行けば、他の者が死なずに済む。だから行く。骨鎧の爪も、二十七針も、その事実の前では勘定に入らない。
リディアは怒りの行き場を見失って、立ち尽くした。
そして、見失った怒りの底で、理解してしまった。
王都の噂を思い出す。非情で冷酷。笑わない。魔物より恐ろしい男。名前だけで令嬢が青ざめる、恐怖の象徴。――違う。全部、逆さまだ。この人は恐ろしいのではない。恐ろしい場所に、いつも一番先に立つだけだ。皆が下がる半歩をこの人だけがいつも前に出る。その背中しか見えないから、遠くからは恐ろしい何かに見えるだけだ。
恐怖の象徴などではなかった。
ここにいるのは誰かを守るために傷つくことを呼吸のように当たり前だと思っている、一人の、途方もなく不器用な人間だった。
「……なぜ、お前が怒る」
沈黙の後に、レオンハルトが言った。
嫌味ではなかった。本当に、分からないのだ。その顔には純粋な困惑だけがあった。部下は諦め顔で従い、セバスティアンは小言を言い、カイは悪態をつく。だが真正面から怒鳴られたことはこの件で、たぶん一度もなかったのだろう。
なぜ、と問われて、リディアの喉は詰まった。
答えなら、夜明け前に、帳簿の外の頁に書かれてしまっていた。けれどそれを声にすることはまだ、できなかった。できないので、リディアは残っていた理屈をありったけ積み上げた。
「……徹夜で、布を絞った者の権利です」
「…………」
「それだけではありません。あなたは昨夜、うなされながら、ずっと数を数えていました。欠けは全員か、と。……あなたの勘定にはいつも、あなたが入っていない。あなたが数えない分は誰かが数えるしかないでしょう。クラリスは棚卸しを三度して、ミレイユは毛布を叩きすぎて、ノエルは平気なふりをして、カイは――死んだら殺すと、本気で言っていました。この屋敷は昨日、丸ごと一日、あなたを数えていたのです。あなたひとりがあなたを数えないせいで!」
「…………」
「ですから」
リディアは背筋を伸ばした。伸ばして、宣言した。灰鷹館で身につけた、退路を断つ時の姿勢だった。
「今後、あなたの傷を数える係は私がやります。かすり傷と仰るたびに、針の数を数えて差し上げます。薬が勿体ないと仰るたびに、スープに混ぜます。……昨夜も混ぜました。よく効いたでしょう」
「……道理で、妙な味が」
「文句は家風に仰ってください。施しに利子はつかない家だそうですから、看病にも、遠慮は要らないはずです」
無茶苦茶な理屈だという自覚はあった。あったがリディアの鎧はもう、理屈の正しさで戦うことを半分諦めていた。
レオンハルトは長いこと、リディアを見ていた。
やがて彼は目を閉じ、枕に頭を沈めて、低く言った。
「……好きにしろ」
「言われなくても、そうします」
「そうか」
四度目のそうかはため息と区別がつかなかった。ただ、その眉間の皺があの煮込みの夜と同じ角度に緩んでいるのをリディアは見た。見て、急に自分の言葉の全部が恥ずかしくなり、布を絞り直すふりをして、病人に背を向けた。
扉が控えめに叩かれたのはその時だった。
「お目覚めでございますか」
セバスティアンが盆を捧げて入ってきた。粥と、白湯と、それから折り畳んだ書類の束。
「回復のご様子、何よりでございます。……なお旦那様、廊下まで大変よく通るお声で、事の次第はあらかた伺いました」
「……セバスティアン」
「二十七針。単騎。血溜まり。結構でございます。本日より当家の医務記録にはリディア様の署名欄を設けます」
老執事は涼しい顔で盆を置き、リディアに向かって、深々と一礼した。
「係のご就任、心よりお祝い申し上げます。――先代の代から、ずっと空席でございました」




