第18話 係のお仕事
それからの数日は攻防の日々だった。
病人は寝ていなかった。正確には寝台にはいた。寝台にいながら、あの手この手で仕事をした。セバスティアンが「ごく軽微な決裁のみ」と称して書類を運び込み、リディアがそれを検閲し、厚みが親指を越えた日は問答無用で没収した。
「これは軽微ではありません。防壁の改修計画です」
「読むだけだ」
「読むだけの方の目が二刻も書類から離れていません。没収します」
「……係の権限に、書類は入っていない」
「先ほど入れました。係ですので」
係ですので、は便利な言葉だった。理由を訊かれたらこれで返す。権限を問われてもこれで返す。夜明け前の、あの帳簿の外の一行を覗き込まれずに済む、新しい鎧の継ぎ目だった。リディアはこの数日、一日に十度はこの言葉を使った。
薬はスープに混ぜ続けた。
公然の、秘密だった。三日目の昼、匙を口に運んだ病人がふと動きを止めて言った。
「……今日は四杯だな」
「……気づいて、いらしたのですか」
「最初からだ」
「なら、なぜ飲むのですか」
レオンハルトは器に目を落とし、少し考え、例によって言葉の渋滞を起こしてから、答えた。
「……作った者に、悪い」
薬は勿体なくて飲めないがスープは作り手に悪いから飲む。理屈の壊れ方がいっそ清々しかった。リディアは壊れた理屈は直さないことにした。この人の天秤は壊れている。壊れているなら、その壊れ方ごと使えばいい。皿の向こうに誰かを置けば、この人はどんな薬でも飲むのだ。
「では明日から、薬草を一種類増やします。血を作る薬です。苦いです」
「…………」
「私が煮込みに混ぜます。係ですので」
「……そうか」
観念のそうか、だった。
五日目には病人は粥に飽きた。
「……芋のやつはまだか」
「煮込みは腹の傷に障ります。あと二日、我慢してください」
「二日か」
「二日です」
「……そうか」
落胆を隠す気もない声だった。王国最強の辺境伯が芋の煮込みを指折り待っている。この光景を王都の社交界が見たら、と考えかけて、リディアはやめた。王都の連中の目など、もう、どうでもよかった。
◇
七日目の朝、レオンハルトは見回りに出ると言い出した。
医者の許しは一応、出ていた。歩く分にはと条件つきで。玄関広間で外套を着る男の左肩に、綻びはなかった。誰かが先回りして繕ったのだ。誰なのかは針目を見なくても分かった。
「城壁の東だけだ。昼には戻る」
「はい」
「馬には乗らん。歩く」
「はい」
言うべきことはそれで終わりのはずだった。リディアは見送りの型どおりに頭を下げかけ――下げる途中で、口が勝手に動いた。
「……無理をしないでください」
言ってから、固まった。
声が違った。係の声ではなかった。業務連絡の平坦さを作り損ねた、ただの、心配の声だった。しかも語尾が少し、震えた。
玄関広間が静まり返った。
レオンハルトも、固まっていた。外套の留め具に手をかけたまま、彼はリディアを見て、それから明後日の方向を見て、またリディアを見て、結局、眉間の皺を三割増しにして言った。
「……ああ」
返事も、業務連絡ではなかった。
二人の間の空気が妙な熱を持って滞留した。その沈黙を破ったのは廊下の柱の陰から聞こえた、押し殺しきれていない声だった。
「……今の聞きました? 聞きましたよね?」
「聞きました。記録します」
「旦那様のお顔、赤くありませんでした?」
「彼は熱がぶり返した可能性があります。医務記録に――」
「――あなたたち!」
リディアが振り向くと、柱の陰から、ミレイユとノエルとクラリスが順番に顔を出した。悪びれる者は一人もいなかった。ミレイユに至っては拍手をしていた。
「いやあ、リディア様。今の、良かったです。今年一番でした」
「な、なにがですか! 今のは係としての、業務連絡です!」
「業務連絡は語尾が震えませんよぉ」
「震えていません!」
「はいはい。……あ、旦那様、まだいらしたんですか。お顔真っ赤ですよ」
「…………行ってくる」
レオンハルトは逃げるように――実際、あれは撤退だった――玄関を出ていった。歩幅がいつもの一倍半あった。病み上がりとは思えない速度だった。
「元気じゃないですか」ミレイユがけらけら笑った。「ほら、リディア様の一言、二十七針より効くんですって」
「……仕事に、戻ります」
リディアは燃える頬のまま、廊下を歩き出した。背中に三人分の笑い声と、厨房から顔を出した料理長の「嬢ちゃん、煮込みは明日かい!」と、どこか遠くの庭から、聞き慣れた鼻歌の節が届いた。今日の節はいつもより、少しだけ上機嫌に聞こえた。
◇
その夜、リディアは医務室の机で帳面を開いた。
真新しい帳面だった。セバスティアンが用意した、当家の医務記録。表紙の裏に、署名欄が設けてある。記録係、の文字の横に、一行分の空白。
リディアはペンを取り、いつもの癖で、家名から書こうとした。リディア・フォン・グレイヴァルド。十八年使ってきた、長い、重い名前。書きかけて、ペンが止まった。
家の名前はここでは薪にもならない。
干し杏の婆の声が耳の奥で笑った。リディアは書きかけの線を見つめ、それから、静かに書き直した。
――記録係 リディア
それだけ。四文字。妹の名前を呼ぶ時と同じ、身ひとつの名前だった。
最初の頁に、リディアは几帳面な字で書き込んでいく。左脇腹裂傷、二十七針。経過、良好。抜糸見込み、五日後。解熱薬、投与済み(経路:スープ)。特記事項――
ペンが少し迷った。それから、リディアは書き足した。
特記事項。本人は自分の傷を数えないため、当記録の数字がすべて正となる。
帳面を閉じ、灯りを消す。窓の外では雪が降り始めていた。今年最初の、遅れてきた根雪だった。魔境の方角も、王都の方角も、同じ白に埋もれていく。その静かな白の下で、リディアの帳簿は今夜からひとつ増えた。貸し借りを数える古い帳簿と――誰かの傷を数える、新しい帳面と。
後者をつける係に、給金は出ない。対価も、利子もつかない。
それでいい、と思えることがたぶん、この屋敷がリディアに施した、一番大きな変化だった。




