第19話 眠れない夜の帳簿
雪が根を張った。
フォートセバーンの冬は王都のそれより一月早く、倍の深さで来る。朝、鎧戸を開けると中庭は白一色に均され、ガスパルの花壇は藁と筵の下で眠っていた。屋根から落ちる雪塊が時折、砲声めいた音を立てる。最初の朝こそ寝台から飛び起きたものの、十日もすると、リディアは寝返りひとつ打たなくなった。
人間は慣れる。
そして慣れるということがこの頃のリディアの帳簿を静かに狂わせている元凶だった。
医務記録の帳面はこの十日、ほとんど頁が増えていない。
左脇腹裂傷、抜糸完了。経過、良好。訓練復帰、可――ただし、全力の斬撃は十日後から。医者の言葉をそのまま書き写しながら、リディアは欄外に几帳面な字で書き足した。特記事項、本人は「もう治った」と主張しているが当記録は医者の側に立つ。
増えた頁がないわけではない。
「手の甲。擦り傷、ひとつ」
三日前の朝、訓練場から戻ったレオンハルトは医務室の戸口に立ち、手袋を外してそう申告した。見れば、籠手の縁で擦れたらしい、爪の先ほどの傷である。血も出ていない。
「……これを記録するのですか」
「係だろう」
「係です。係ですがこれは」リディアは帳面と傷とを見比べ、諦めて、ペンを取った。「……右手の甲、擦過傷一。処置、不要。特記事項――」
特記事項。軽微な傷の申告は極めて律儀である一方、重傷は「かすり傷」と申告された前歴がある。爪の先は数えさせ、二十七針は隠す。当係はこの帳尻の合わせ方に強く抗議する。
書き終える前に、戸口の男はもういなかった。廊下の先で、カイの噴き出す声がした。
「律儀だねえ。爪の先まで数えられてやんの」
「係だからな」
「顔がにやけてんぞ、レオン」
「にやけてはいない」
「はいはい。訓練場じゃその顔やめろよ、新入りがまた三人逃げる」
足音が二つ、遠ざかっていく。リディアはペンを置き、自分の口元が緩んでいることに気づいて、慌てて帳面を閉じた。閉じてから、誰も見ていないのを確かめて、もう一度だけ開いた。擦過傷一、の几帳面な文字。給金も対価も出ない係の帳面はそれでも、リディアの持ち物の中で一番新しくて、一番、開く回数が多かった。
――そういう日々、だった。
◇
厨房では煮込みが定番になりつつあった。
芋と豆の煮込み。帰還の夜に約束どおり鍋を仕立てて以来、雪が深くなるほどに注文が増えた。近頃では騎士団の詰所からまで「あれはまだか」と催促が来る、と料理長は肉を叩きながら笑った。
「嬢ちゃん、こりゃもう、うちの冬の献立だよ。作り方、ちゃんと書き残しときな。あんたが休んだ日に暴動が起きる」
「大げさです」
「大げさなもんかい。猫より働ける子の煮込みだ。看板がつくのは当然だろ」
竈の前で、下働きの少年が真顔で頷いた。リディアは苦笑して、鍋に向き直った。
具は細かく刻む。豆は指で潰れるまで煮る。塩の角は酢を匙に半分と香草の軸で取る。仕上げに焦がしバター。……手が勝手に動く。この料理に限って、リディアは目分量を間違えたことがない。頭ではなく、身体が覚えているからだ。
――寝ついた妹が匙を持てるように、具は小さく。
――食欲のない日でも腹が鳴るように、バターは焦がして。
これは看病の食事だった。熱を出して三日、ろくに食べられなかったエミリアのために、厨房係の目を盗んで作った鍋が始まりだった。あの子は毛布にくるまったまま、湯気に鼻をひくつかせて、掠れた声で言ったのだ。いい匂い、と。あの冬、あの一言のために、リディアは何度でも竈の前に立てた。
鍋が煮える。いい匂いだった。
その匂いを今、妹のいない場所で、妹を知らない人々のために立てている。
「……嬢ちゃん? 灰汁、溢れるよ」
「――なんでも、ありません」
リディアは灰汁を掬った。手際は一度も狂わなかった。手際だけはどんな夜も裏切らない。裏切らないことが今日は少しだけ、恨めしかった。
◇
その夜、リディアは眠れなかった。
枕元の卓にはいつもの蜂蜜入りの山羊乳が湯気を立てていた。ミレイユが毎晩運んでくる、就寝の定番。リディアはそれに、口をつけられずにいた。
温かいものが喉を通らない夜がある。
寝台を出て、文机に灯りを寄せる。便箋。インク壺。文箱――相変わらず、一通も入っていない文箱。その横に、下書きの束。出せない手紙はいつの間にか、指二本分の厚さになっていた。一番上の一枚にはこう書いてある。
――いつか、あなたにも、この街を見せてあげたい。
書けた夜は何かが進んだ気がしていた。
今夜はその一枚が責めてくるようだった。
いつか。いつかとはいつだ。あなたが何度目の冬を数えたら、その「いつか」は来るのだ。
リディアは新しい便箋を引き寄せ、ペンを浸した。エミリア。姉さんは――そこで、手が止まった。
元気です、と書こうとした。事実だ。姉さんは元気です。温かい部屋で眠り、三度の食事をとり、雪の朝にも凍えず、昼間は屋敷の人々と笑い、傷を数える係などという妙な役目を拝命し、時々、頬を燃やして廊下を歩いています。何ひとつ、嘘ではない。
だから、書けなかった。
灰鷹館の冬をリディアは知っている。
薪は月の頭に、数えて渡される。北向きの部屋の窓は建付けが悪く、風の強い夜は隙間風が笛の音を立てた。エミリアは冬になると必ず咳をした。医者は呼ばれない。リディアは夜、厨房の火の始末に紛れて石を温め、布でくるんで妹の寝台に忍ばせた。ベルトに気づかれた月はそれもできなかった。そういう夜は二人でひとつの寝台に入り、互いの爪先を膝で挟んで、朝を待った。姉さんの足、冷たい、と言ってエミリアは笑った。あなたのほうが冷たいでしょう、と言い返すと、もっと笑った。笑うと、咳が出た。
今、あの部屋に、石を運ぶ者はいない。
リディアはペンを置いた。
私だけが温かい。
その一行の事実が夜ごと、少しずつ重くなっていく。おかしな話だった。灰鷹館にいた頃はこんなふうに苦しくはなかった。寒さも空腹も、妹と分け合っている限り、帳尻は合っていた。ここへ来て、温かさを知って、安心を覚えて――安心した分だけ、正確にその分だけ、置いてきた妹の寒さがリディアの側に積み上がっていく。
恩なら、返せる。働いて、繕って、鍋を煮て、傷を数えて返せばいい。リディアの帳簿はそういう貸し借りなら得意だった。
けれど、これは貸し借りではなかった。
妹をひとり、あの家に残して、自分だけが救われている。これは負債ではない。負債なら、返済の手立てがある。利子を数えて、期日を切って、粛々と返していけばいい。これは――リディアはその勘定科目の名前をまだ持っていなかった。帳簿のどの頁にも収まらないものが胸の内側で、夜ごと嵩を増していた。
ふと、別れの日のことを思い出した。
灰鷹館の玄関。馬車に乗り込むリディアをエミリアは泣きながら見送った。その肩に、義父の手が置かれていた。形だけは慰めるように。けれどあの琥珀色の目は泣いている娘の横顔に、粘つくように張りついていた。
思い出すたび、指先が冷える。あの目の意味をリディアは深く考えないようにしてきた。考えると、足元が崩れる気がした。考えないようにしている、ということ自体が何かの答えである気がして、それが一番、怖かった。
窓の外で、雪が音を吸っていた。
便箋の上、書きかけの一行がインクの艶を失って乾いていく。エミリア。姉さんは――その先が今夜は一文字も、進まなかった。
毎晩書いてきた手紙が初めて、一行も書けなかった夜だった。
リディアは灯りを消した。冷めた山羊乳の甘い匂いだけが暗がりに残った。




