第20話 日陰に置きっぱなしの花は
結局、一睡もできないまま、窓の外が白み始めた。
リディアは肩掛けを羽織り、部屋を出た。眠れない夜の行き先はいつからか決まっている。廊下はまだ暗く、屋敷は寝息の中にあった。裏口の扉を押すと、夜明け前の冷気が頬を平手のように打った。
中庭は膝下まで雪に沈んでいた。
その白の中に、踏み固められた小道が一本、庭の奥へ延びている。道の先、庭の隅で、ぼんやりと灯りがともっていた。硝子張りの小屋――先代の頃からあるという育苗の温室で、冬の間、ガスパルはほとんどあそこに住み着いているらしい、とはミレイユの談だった。
小道を辿ると、果たして、硝子の向こうから鼻歌が漏れていた。いつもの、あの節だった。
「……おはようございます」
「おう、嬢ちゃん。早いな」
戸を開けたリディアに、庭師は振り向きもせずに応えた。まるで毎朝そう約束してあったかのような応え方だった。狭い小屋の中は土と緑の匂いで満ちて、外より幾分か暖かい。作業台には素焼きの鉢がずらりと並び、隅の火鉢では薬缶がしゅんしゅんと湯気を立てている。腰にはいつもの酒瓶。
「眠れんのか」
「……いつも、この時間に起きるのです」
「そうかい」ガスパルは鉢のひとつに藁を巻きつけながら、ちらりとも見ずに言った。「いつも通りって顔じゃあ、ないがな」
リディアは答えなかった。答えない、という答えをこの庭師はいつも咎めない。それに甘えて、リディアは戸口の雪を払い、中に入った。
「そこの藁縄、取ってくれ。手が空いてるなら、だが」
「……空いています」
言われるまま、藁縄の束を渡し、請われるまま端を押さえる。庭師の手は速かった。鉢をひとつ包むごとに、緑の匂いがふわりと立つ。単純な作業だった。単純な作業はありがたかった。手を動かしている間は頭の中の帳簿を開かずに済む。
「冬のお庭はお暇なのだと思っていました」
「逆だ。冬が一番忙しい」
「雪の下で、何もかも眠っているのに?」
「眠らせるのが仕事なんだよ。春に咲くもんの世話ってのはな、嬢ちゃん、全部冬のうちに終わってる。春になってから慌てる奴に、咲かせられる花はない」
薬缶がことりと鳴った。
ふと、リディアは気づいた。作業台の端に、ひとつだけ、花をつけている鉢がある。雪の色をした、うつむき加減の小さな花だった。眠っている鉢の列の中で、それだけが起きていた。
「……こんな季節に、咲くのですね」
「そいつは冬にしか咲かん。天邪鬼でな」ガスパルは藁縄を結び終え、顎でその鉢を示した。「根っこを干して挽けば、薬になる。量を間違えりゃ、毒になる。毒にも薬にもなる花だ。挽き方と、量と、使う奴の腕の話よ」
「毒にも、薬にも……」
「使い方はな、俺より口の堅い女に教わった」
「口の堅い……どなたです?」
「詮索すんな。花より枯れた話だ」
庭師は薬缶を持ち上げ、白湯を欠けた椀に注いだ。ひとつをリディアに押しつけ、自分はもうひとつに、酒瓶の中身を一垂らしした。朝から、と思ったが口には出さなかった。出さなくても伝わったらしく、ガスパルは「薬だ」と言い張った。
しばらく、二人とも黙って白湯を啜った。硝子の外で、雪明かりがゆっくりと青から白に変わっていく。
言おうか、と思った。言ってどうなる話でもない。この人は庭師で、あれは侯爵家の話で、口に出したところで、雪がひとひら溶けるわけでもない。リディアは椀の中の白湯を見つめ、口を開きかけ、閉じた。三度、それを繰り返した。
ガスパルは四度目を待たなかった。
「日陰に置きっぱなしの花は咲く前に腐る」
庭師は鉢の列に水差しを傾けながら、庭の話をする声で言った。
「…………何の、話ですか」
「妹さんの話だよ。違ったら酒のせいだ」
リディアの手の中で、椀が小さく揺れた。白湯の面に、波紋がひとつ立って、消えた。
「……どうして」
「屋敷ってのは狭いからな。それに」ガスパルは水差しを置き、初めてまっすぐにリディアを見た。「昨日の嬢ちゃんは鍋の前で、ここにいない誰かの飯を作ってる顔をしてた。ああいう顔は隠れんよ」
隠していたつもりだった。手際は一度も狂わなかったのに。リディアは椀を握り直し、うつむいた。うつむいた先で、雪色の花が同じようにうつむいていた。
「……妹は」
声は思ったより簡単に出た。一度出てしまうと、止まらなかった。
「妹はあの家で、冬を越しています。薪は数えて渡されます。窓は建付けが悪くて、あの子は冬になると咳をします。私がいた頃は私が石を温めて運びました。今は誰も運びません。誰も、運ばないのです。私はここで、温かい部屋で眠って、三度の食事をして――」
「連れてくりゃいい」
あんまり簡単に言うので、リディアは一瞬、言葉の意味が取れなかった。
「……方法がありません。私は嫁いだ身です。あの家は侯爵家です。妹は当主の娘で、私に、あの家から人を連れ出す力なんて」
「嬢ちゃんにはなくても、この屋敷の旦那にはあるだろうよ」
「――それは」
できません、と言いかけて、その先が続かなかった。できない理由なら、いくらでもあった。もう十分すぎるほど良くしてもらっている。部屋も、食事も、医務室の薬草も、街も、係の帳面も。この上、妹まで。そんなものを抱えては帳簿が破裂する。返す当てのない借りをこれ以上――
「……これ以上、あの方に、返せない借りを増やすわけにはいきません」
「出た出た」ガスパルは天井を仰いだ。「嬢ちゃんの帳簿はまったく、豪儀なもんだな。じゃあひとつ訊くがな。嬢ちゃん、旦那に何か『頼んだ』ことはあるか。一度でも」
「…………」
なかった。思い返すまでもなく、一度も、なかった。部屋も食事も軟膏も薬草も、全部、頼む前に与えられた。リディアの帳簿に並んでいるのは借りたつもりのない借りばかりだった。
「だろうな」庭師は椀の中身を飲み干した。「あの旦那はな、頼まれる前にやっちまう男だ。おかげでこの屋敷じゃ、誰もあの男に頼みごとをしない。する暇がねえんだ。……なあ、嬢ちゃん。頼られてばっかりで、一度も頼まれたことのない男ってのはありゃあ、けっこう寂しいもんだぜ」
「……頼まれることに、飢えている、と?」
「俺は花の話しかせん」ガスパルはにやりと笑って、空の椀を置いた。「植え替えってのはな、時期が全部だ。根が凍りきってからじゃ、掘り起こしても戻らん。やるなら、土の凍てつく前――つまり、思い立った朝が吉日ってことよ」
「……もし」椀の白湯はいつの間にか冷めていた。「もし、断られたら」
「そん時は俺が酒を奢ってやる。……ああ、嬢ちゃんはまだ酒はいかんか。なら蜂蜜入りの山羊乳だな。温かいやつ」
どうしてそれを知っているのか、とはもう訊かなかった。この庭師はたぶん、屋敷の全部が見えている。見えていて、何も言わない。言うのは花の話だけ。
リディアは椀を作業台に置き、居住まいを正して、頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「礼はいらん。俺は今朝、花に水をやって、白湯を飲んだだけだ」
温室を出ると、朝日が雪に反射して、目が眩んだ。
息が白い。本館までの小道をリディアは歩き出した。昨夜は一行も進まなかったものが胸の中で、初めて文章の形になっていた。それは手紙の文面ではなかった。口に出して、誰かに、頼む言葉だった。
言うだけなら、損はせん――庭師の算盤は乱暴だったがその勘定なら、リディアの帳簿にも載せられた。




