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第21話 ある、と即答する男

 執務室の扉の前で、リディアは三度、深呼吸をした。


 朝の訓練を終えたレオンハルトが執務室に入るのはいつも鐘の二つ目の頃だ。傷を数える係を拝命して以来、この屋敷の主の一日の巡りは帳面をつけるついでに覚えてしまっていた。廊下の窓から差す雪明かりの中で、リディアは用意してきた口上を頭の中でもう一度並べ直した。


 恐れながら、辺境伯様にお願いの儀がございます。無礼を承知で申し上げます。対価につきましてはいかようにも――


 並べれば並べるほど、言葉は鎧の形に似ていった。継ぎ目のない、隙のない、そして、何ひとつ本当のことを言っていない鎧に。


 リディアは並べた口上を全部捨てた。


 扉を叩く。


「入れ」


 低い声が応じた。押し開けると、執務机の向こうで、レオンハルトが書類から顔を上げたところだった。壁際にはセバスティアンが立ち、決裁の束を捧げ持っている。まずい、出直すべきか、と思った時にはもう、藍色の目がこちらを捉えていた。


「どうした」


「……お仕事中に、申し訳ありません。お願いがあって参りました」


「言え」


 それだけだった。相変わらず、雑談という緩衝材を一切挟まない人だった。けれど今朝に限ってはその素っ気なさがありがたかった。助走の距離が短くて済む。


 リディアは息を吸った。継ぎ目から、冷えた朝の空気が入ってきた。


「妹を――エミリアをこの屋敷へ連れてくる方法はありませんか」


 言えた。


 言ってしまうと、あとは堰が切れたようだった。


「妹は十六です。あの家で、冬を越しています。灰鷹館の冬は薪を数えて渡されます。妹の部屋は北向きで、窓の建付けが悪くて、あの子は毎年冬に咳をします。医者は呼ばれません。私がいた頃は私が世話をしました。でも今は誰もいません。使用人は誰も、あの子のために指一本動かしません。それから――」


 声がそこで一度、止まった。言うべきか、迷った。確かなことは何もない。ただの、考えすぎかもしれない。けれど。


「……それから。別れの日に、義父が妹の肩に手を置いていました。慰めの形をしていました。ですが目が」リディアは自分の指先が冷えていくのを感じた。「目が違いました。あれは娘を見る目ではありませんでした。……考えすぎなら、それでいいのです。考えすぎであってほしいのです。ですが私がいなくなったあの家で、妹に何が起きているのか、私には確かめる術すらなくて」


 気づけば、用意してきた「対価はいかようにも」の一文を言い忘れていた。言い直そうとして、顔を上げた。


「ある」


「……え?」


「方法はある」


 レオンハルトは書類を置いて、そう言った。


 即答だった。リディアが妹の名前を口にしてから、彼が考えた時間は呼吸ひとつ分もなかった。


 その速さが――その、あんまりな速さがリディアの中の何かに、火をつけた。


「そんなに簡単に、言わないでください……!」


 声が跳ねた。敬語の型は保ったまま、中身だけが剥き出しになった。


「相手は侯爵家です。妹はあの家の四女です。当主が手放すはずがありません。外聞も、家格も、王都の目もあります。私は、私はこれを言うために、ひと晩――ひと晩かけて、無理だという理由を百も数えて、それでも言うと決めて、ここに来たんです。それを、それをあなたはたったひと言で……! 期待させて、あとで無理でしたと言われるくらいなら、最初から」


「簡単ではない」


 静かな声がリディアの言葉を断った。


「簡単ではない。だがやる」


 リディアは口を開けたまま、立ち尽くした。


 レオンハルトは椅子から立ち上がった。窓を背にした長身が雪明かりの中で影になる。怖い顔だった。出会った日から変わらない、王都中の令嬢を青ざめさせた、あの怖い顔だった。その怖い顔のまま、彼は言った。


「約束した。妹の件は累が及ばんようにしておく、と」


「……覚えて、いらしたのですか」


「約束だからな」当然のことを訊くな、という顔だった。「だが外から手を回すのには限りがある。あの家の中までは届かん。……連れてくるほうが早い。前から、そう思っていた」


「なら、なぜ――」


 なぜ今まで、と言いかけて、リディアは自分で答えに行き当たった。この人は待っていたのだ。人を待つのだけは異様に上手い、とミレイユは言った。リディアが自分から言い出すのをこの男は雪の積もる速さで待っていた。


「セバスティアン」


「はい、旦那様」


「妹君を預かる。法と外聞の道筋を立てろ。婚礼の慣習に、使えるものがあったはずだ」


「はい。花嫁様の婚礼準備に、お身内が付き添われる慣習がございます」セバスティアンはまるで昨日から答えを袖に入れていたかのように、よどみなく言った。「仔細は本日中に書面に起こしまして」


「カイを呼べ。灰鷹館の中を調べる。妹君の現状と、当主の身辺を」


「畏まりました」


 目の前で、話が音を立てて進んでいく。リディアはついていけずに、二人の顔を交互に見た。堰を切ったのは自分なのに、流れの速さに、足を掬われそうだった。


「あ、あの……!」


「なんだ」


「本当に……本当に、よろしいのですか。侯爵家を敵に回すかもしれないのです。あなたには何の得も」


「お前は」レオンハルトは机の上の書類を無造作に重ねながら言った。「妹の好きなものを書き出しておけ。部屋の支度に要る。それがお前の仕事だ」


 問いには答えなかった。答える気がないのではなく、答える必要を認めていない顔だった。得の勘定なら最初から誰もしていないのだと、その横顔が言っていた。


 リディアの帳簿がまた、音もなく軋んだ。


   ◇


「――あの!」


 廊下に出たレオンハルトをリディアは追いかけた。


 大広間へ続く廊下ではミレイユが手すりを磨き、クラリスが燭台を替え、ノエルが窓辺で――何もしていなかった。三人が三人とも、主人の足音に道を空ける。その真ん中で、リディアはレオンハルトの背中に追いつき、息を整える間も惜しんで、頭を下げた。


「ありがとうございます……レオンハルト様」


 言うべきことは山ほどあった。対価のこと、妹の好物のこと、部屋のこと。けれど口から出たのは礼ひとつだけだった。それも、涙で少し、輪郭の崩れた礼だった。


 レオンハルトの足が止まった。


 振り向かなかった。ただ、止まった。冬の廊下の空気が数拍分、妙に長く感じられた。


「……ああ」


 それだけ言って、彼は歩き出した。心なしか、歩幅がいつもの一倍半だった。遠ざかる大きな背中の、耳のあたりが赤く見えたのはたぶん、雪の照り返しのせいだろう。リディアはそう処理して、帳面につけなかった。


 頭を上げたリディアはそこで初めて、廊下の三人に気がついた。


 ミレイユが口を両手で覆っていた。目だけが限界まで見開かれて、クラリスとノエルの間を高速で往復していた。クラリスは燭台を持ったまま、静かに、深く、一度だけ頷いた。何かを記録する者の頷きだった。ノエルは窓辺で、おっとりと微笑んでいた。微笑んだまま、口の形だけで、何かをミレイユに伝えた。


 ミレイユの口が覆った手の下で、音のない絶叫の形になった。


「……? どうか、しましたか」


「なんでもないでーす」ミレイユの声は裏返っていた。「なんっでもないです。ね? ねえ?」


「ええ。何も」クラリスの声は平坦だった。平坦すぎた。


「ふふ」ノエルは笑っただけだった。


 解せないものを感じつつ、リディアは会釈して、廊下を戻った。妹の好物を書き出すという、大事な仕事があった。芋と豆の煮込み。具は細かく。焦がしバター。それから、甘いもの。あの子は昔から、蜂蜜を溶かした温かい乳が――


 自分が今しがた、この屋敷の主を何と呼んだのか。


 リディアだけが気づいていなかった。


   ◇


 その日の昼には早馬が三騎、雪の街道を南西へ発った。


 二騎はカイと、彼が選んだ古馴染みの騎士。行き先は王都、役目は灰鷹館の内情を探ること。もう一騎は使者で、セバスティアンが半日で起こした書状を携えていた。婚礼準備のため、花嫁の身内たる妹君の一時滞在を正式に申し入れる――署名はフォートセバーン辺境伯、レオンハルト・アッシュフォード。封蝋には黒狼の紋。


「行儀のいい文面でございますよ」封をしながら、セバスティアンは言った。「行儀のいい文面ほど、断りにくいものはございません」


 出立の門まで、リディアはカイを見送りに出た。カイは鐙に足をかけながら、いつもの調子で片眉を上げた。


「妹の顔、覚えとくもんある?」


「……髪は淡い金で、目は菫色です。私と同じ。私より小柄で、私より、ずっと優しい顔をしています」


「アンタより優しい顔ねえ。そりゃ大変だ、雪に埋もれてても見つかるな」


 軽口の形をしていたが目は笑っていなかった。間合いを測る時の、あの目だった。カイは手綱を取り、それから、ふと思い出したように言った。


「安心しなよ。見るだけだ。見るのは得意なんだ」


 二騎は雪煙を上げて、街道の白の中に消えた。


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