第22話 黒狼が狩りに出た
それからの日々、屋敷は静かに沸騰していた。
南向きの客間がひとつ、開けられた。リディアの部屋の、すぐ隣だった。指示したのは誰なのか、リディアが訊く前に、ミレイユが胸を張った。
「日当たり最優先! あと、お姉ちゃんの隣! これ譲れない条件ってやつです」
「まだ、来ると決まったわけでは」
「来ます」ミレイユは断言した。「旦那様が『やる』って言ったんでしょ? なら来ます。この屋敷で旦那様の『やる』が空振りしたことは一回もないんで」
部屋には暖炉の薪が積まれ、窓の建付けは大工が三度も確かめた。クラリスは寝具を三組並べて羽毛の嵩を比べ、ノエルは窓辺に置く燭台の高さで小一時間悩んでいた。夜中に目が覚めた時、灯りがすぐ点けられる高さ、というのが彼女の基準だった。理由は誰も訊かなかった。
リディアはといえば、妹の好きなものを書き出す仕事に、三日を費やしていた。
一枚で済むはずだった。芋と豆の煮込み(具は細かく、焦がしバター)。蜂蜜を溶かした温かい乳。干した果物なら杏。花なら白いもの。編み物は見るのが好きで、するのは苦手。怖い話は嫌いだが聞きたがる。眠る前に髪を三つ編みにすると、よく眠れる――気づけば三枚目に入っていた。出せない手紙はあんなに書けなかったのに、これは手が止まらなかった。
三枚の紙を受け取ったレオンハルトはその場で最初から最後まで読んだ。読み終えて、一言だった。
「杏は闘技場の婆の店がいい」
「……覚えて、いらしたのですか」
「うまかったからな」
それだけ言って、彼は紙を丁寧に畳み、胸元に仕舞った。書類の山にではなく、胸元に。リディアはそれを見なかったことにして、帳面にもつけなかった。つけない項目が最近、多すぎる。
「あ、そういえばリディア様」廊下ですれ違いざま、ミレイユがにやりと笑った。「『レオンハルト様』って、いいお名前ですよね」
「? ええ、ご立派なお名前だと思いますが」
「くふっ」
「なんですか」
「なーんでも」
ミレイユは肩を震わせて行ってしまった。解せない。この屋敷の住人は時々、リディアの知らない帳簿で笑う。
◇
二十日目の夜、二つの知らせが前後して屋敷に着いた。
先に着いたのは灰鷹館からの返書だった。
執務室の暖炉の前で、セバスティアンがそれを読み上げた。文面は儀礼の見本のようだった。辺境伯閣下のご厚情には家門を挙げて感謝する。しかしながら婚礼の儀も定まらぬうちの長期滞在は双方の家名に不要の憶測を招きかねない。加えて四女エミリアは生来病弱であり、冬の長旅には到底堪えられない。春を待ち、あらためて協議いたしたく――
「病弱」
リディアは自分の声が他人のもののように低くなるのを聞いた。
「……病弱、ですって。誰のせいで。薪を数えて渡して、医者も呼ばずにおいて、あの人が――あの人がそれを断りの口実に使うのですか」
「落ち着かれませ、リディア様」セバスティアンは書状を畳んだ。「これは断り状ではございません。値札でございます。春まで、という。……もっとも、私どもには春まで待つ理由が」
言い終わる前に、扉が開いた。
カイだった。外套に雪をつけたまま、部屋を横切り、暖炉の前に立った。いつもの軽口がなかった。火に手をかざしもせず、彼はレオンハルトを見た。
「先に言っとく。俺は今、猛烈に気分が悪い」
「話せ」
「妹さんは生きてる。飯も、一応は出てる。ただし量は半分に減った。姉貴がいなくなってからだ。侍女はいない。部屋の薪も減らされた。ここまではまあ、想像の通りだ」
カイは一度、言葉を切った。
「ここからが本題だ。当主が夜、妹さんを書斎に呼ぶ。回数は月を追うごとに増えてる。用向きは誰も知らない。『話をするだけ』らしい。手は出てない。……今のところはだ。それでも妹さんは夜中、自分の部屋に内側から鍵をかける。それだけじゃ足りないらしくて、家具を動かす音がするそうだ。毎晩な」
部屋の中で、暖炉の薪がひとつ、爆ぜた。
「使用人は全員、見て見ぬふりだ。誰も庇わない。誰も、何も見てない。……ただ、一人だけ、銀貨三枚で歌った掃除女がいる。廊下で当主が妹さんに言うのを聞いたとさ」
カイの灰色の目が一瞬だけ、リディアを見た。言うべきかどうか、その一瞬で測ったのが分かった。そして彼は言うほうを選んだ。
「『リディアがいなくなったのなら、お前が代わりだ』」
リディアは立ち上がっていた。
椅子が背後で音を立てたのにも気づかなかった。膝の上の帳面が落ちた。指先から血の気が引いて、爪の先まで冷えていくのが分かった。灰鷹館の玄関。妹の肩に置かれた手。粘つく目。考えすぎであってほしかった答え合わせが最悪の形で、そこにあった。
「私の、せいです」
「違う」
即答だった。レオンハルトは執務机の前から動いていなかった。声も張っていなかった。ただ、部屋の空気が変わっていた。暖炉が燃えているのに、室温が下がったように感じられた。
「お前のせいではない。お前がいた間、妹は守られていた。お前はずっと、それをやってきた。……ここからは俺の仕事だ」
レオンハルトはペンを置いた。それだけの動作が剣を抜く音に聞こえた。
「セバスティアン。返書は要らん。直接行く」
「はい。旦那様」
「装備と馬ソリの手配は三日で整えろ。護衛は六騎。街と屋敷はカイ、お前が預かれ」
「……はぁ!? 俺も行くに決まってんだろ、ここまで調べたの誰だと」
「お前が留守番なら、俺は安心して留守にできる。逆は無理だ」
カイは口を開け、閉じ、盛大に舌打ちをした。
「…………分かったよ、クソ」
「リディア」
名を呼ばれて、リディアの背筋が伸びた。藍色の目がまっすぐこちらを見ていた。
「お前も来い」
「――はい」
迷いはなかった。怖くないと言えば嘘になる。あの家の空気をあの目をもう一度浴びに行くのだ。それでも、返事より先に頷いていた。
「婚礼準備は花嫁の願いという体裁だ。願い主が玄関に立てば、向こうは断る口実を失う。それに」レオンハルトはわずかに目を伏せた。「怯えた妹を連れて帰る道中、十日ある。要るのは俺の顔ではなくて、姉の顔だ」
◇
三日後の朝、一行は門前に整列した。
馬ソリが二台、護衛の騎馬が六騎。先頭の鹿毛には頬に古傷のある熊のような大男――リディアを王都から送り届けた、あの騎士がいた。目が合うと、大男はにっと笑った。
「今度は迎えに行く旅ですかい。そっちのほうが性に合ってまさあ」
見送りには屋敷の全員が出た。料理長は保存の利く焼き菓子をソリに積み、ミレイユは「妹さんの分の手袋!」と包みを押しつけ、クラリスは無言で懐炉を三つ、ノエルは「お屋敷のことはお任せください。……私とカイくんで、留守番ですねぇ」と言ってカイを硬直させた。
ガスパルは小さな麻の包みをリディアに握らせた。
「咳に効く根だ。煎じ方は袋に書いた」
「……ありがとうございます。これはあの、温室の」
「安心しな、ただの薬草だ。毒のほうじゃねえ」庭師は笑って、それからほんの少しだけ声を落とした。「植え替えにゃあ、いい時期だ」
ソリが滑り出す。門をくぐる瞬間、リディアは振り返って、白い屋敷を見た。二か月前、怯えながらくぐった門だった。今は帰ってくる場所として、そこにあった。
行く手には十日の雪道と、その果てに、十八年を過ごした冷たい石の館がある。
黒狼が狩りに出た。




