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第23話 灰鷹館、再び

 王都の雪は静かだった。


 十日の道中、リディアはそのことばかり考えていた。同じ雪なのに、フォートセバーンの雪は騒がしい。雪かきの怒鳴り声、屋根から落ちる雪塊、子供の歓声、ソリの鈴。王都の雪は音もなく降り、音もなく積もり、貴族の馬車の轍だけを黒く残す。行儀のいい雪だった。行儀のいい文面と、同じくらいに。


 灰鷹館は記憶の通りにそこにあった。


 灰色の石積み。尖った屋根。門柱の上で翼を広げる、灰色の鷹の紋章。二か月前まで、十八年間、リディアの世界のすべてだった建物。門をくぐる時、リディアの背中は勝手に丸まろうとした。頭を低く、目を伏せて、廊下の端を歩く――十八年かけて骨に刻まれた習い性が敷居ひとつで蘇ろうとする。


 リディアは背筋を伸ばした。


 伏せかけた目を上げた。今の自分の背後には六騎の護衛と、二台のソリと、雪より白い息を吐く黒鹿毛と、その鞍上の、王都中が恐れる男がいる。


 玄関で出迎えたのは家令のハインツだった。細い目がリディアを認めて、値踏みの角度に細められる。


「これは……リディア様。ご壮健そうで、何よりでございます」


 声の底に、聞き慣れた嘲りが薄く敷かれていた。二か月前までのリディアなら、聞こえないふりをしただけの嘲りだった。


 だがハインツの目がリディアの背後に動いた。


 馬を降りたレオンハルトが無言でそこに立っていた。ただ立って、ハインツを見ただけだった。家令の細い目が限界まで開かれ、皺深い喉が上下し、腰が三段階に分けて折れた。


「よ、ようこそ……ようこそお越しくださいました、辺境伯閣下……!」


 魔物より恐ろしい男、笑わぬ黒狼、名前だけで令嬢が青ざめる辺境の蛮人――王都に流れる悪評の全部が玄関広間の空気を一瞬で凍らせていた。使用人たちは壁際に張りつき、誰一人、顔を上げられない。あれほどリディアを軽んじてきた者たちが、である。


 悪評が味方をする日もあるのだと、リディアは初めて知った。


   ◇


 応接間に通されて、四半刻、待たされた。


 わざとだ、とリディアには分かった。この家の作法だった。格下の客は待たせて迎える。苛立てば無作法を咎め、恐縮すれば居丈高に出る、灰鷹館の初手。


 当のレオンハルトは長椅子に腰を下ろしたまま、微動だにしなかった。急かさず、苛立たず、暖炉の火も見ずに、ただ待っていた。人を待つのだけは異様に上手いんです、というミレイユの声が耳の奥で蘇って、リディアはこんな時だというのに、笑いを噛み殺すことになった。この人の得意技をこの家は知らない。


 扉が開いた。


「これは辺境伯殿。遠路はるばる――辺境というのはよほど、お暇と見える」


 オスヴァルト・フォン・グレイヴァルドは記憶のままの男だった。黒に近い焦げ茶の髪。完璧な所作。そして、所作の完璧さから一人だけ取り残されたような、冷たい琥珀色の目。その目が一瞬、リディアの上を滑った。撫でるような、値踏みするような、粘つく滑り方だった。肌が外套の下で粟立った。


「書面で申し上げたはずだが」侯爵は向かいに腰を下ろし、脚を組んだ。「この件は春にあらためて協議すると。雪の中をわざわざ……辺境の作法では断りの文面は届かぬ距離で読むものかな」


「春では遅い」


「ほう。婚礼の日取りも定まらぬのに、支度だけが急がれる。順序というものを――」


「妹を」


 リディアは自分の声が応接間に落ちるのを聞いた。


 膝の上で重ねた手は冷えていた。それでも声は出た。この部屋で、この男の前で、目を伏せずに声を出すのは十八年間で初めてだった。


「妹のエミリアを婚礼の支度に付き添わせたく、お願いに参りました。花嫁の身内が嫁ぎ先に滞在する慣習は由緒ある家門の作法と伺っています。グレイヴァルド家の格式に、適う話かと」


 オスヴァルトの目が初めてまっすぐにリディアを見た。


「……口の利き方を覚えたか」侯爵の声は変わらず整っていた。整ったまま、底が冷えた。「誰の屋根の下で十八年育ったか、忘れたようだな。寛大にも置いてやった恩をそういう形で返すのか。……それにしても」


 琥珀色の目がすっと細くなった。


「本当に、似てきたな。あの女に」


 応接間の空気が粘度を持った。リディアの喉の奥で、何かが凍りつく。母の顔をした自分を見るこの目をリディアは知っていた。知っていて、十八年、名前をつけずにきた。


「グレイヴァルド侯」


 レオンハルトの声がその粘つきを断ち割った。


「俺は忙しい。単刀直入に言う。エミリア嬢を婚礼準備のため当家で預かる。書状の通りだ。認めろ」


「……エミリアは病弱だ。冬の旅には」


「妹君の食事はなぜこの二か月で半分になった」


「――は?」


「北向きの部屋の薪はなぜ減らされた。医者はなぜ十年間一度も呼ばれていない。そして妹君はなぜ夜ごと自室に内側から鍵をかけ、家具で扉を塞ぐ」


 オスヴァルトの顔から、表情が抜け落ちた。


「……当家の内情を探ったのか。辺境の蛮人が貴族の館に鼠を放つとは」


「否定はしないのだな」


「言いがかりだ! 使用人の与太話をかき集めて、何を――」


「なら、都合がいい」レオンハルトは初めて身を乗り出した。「言いがかりかどうか、王宮に検分させればいい。俺は辺境伯だ。国境守護職には貴族家門の異状を王宮へ直に上げる権限がある。妹君の処遇、十年分。それから――当主が夜ごと、十六の娘を書斎に呼び出す理由。全部、書面にして上げる。説明は王宮でしてもらえ」


「なっ……」


「断ってもいい。婚礼の慣習という、どの家門も通す作法をグレイヴァルド侯爵家だけが拒んだ――その事実ごと、報告に載せるだけだ。外聞を重んじる貴家のことだ。王宮と社交界がその断り方をどう読むかは俺よりよほどご存じだろう」


 沈黙が長かった。


 リディアは目の前で檻が閉じていくのを見ていた。拒めば、拒んだ事実が執着の証明になる。認めれば、妹は手の届かぬ場所へ行く。オスヴァルトの指が肘掛けの上で二度、三度と丸まり、伸び、また丸まった。整った顔の下で、何かが軋む音が聞こえるようだった。


「……蛮人風情が」搾り出された声は低かった。「政を齧ったか」


「齧ってはいない。魔物と同じだ」レオンハルトは背もたれに身を戻した。「急所を知っているだけだ」


 オスヴァルトは長く、細く、息を吐いた。そして吐き終えた時には完璧な所作の貴族に戻っていた。それがリディアには一番恐ろしかった。


「……一時預かりだ。婚礼まで。それ以上ではない」


「構わん」


「引き渡しは明朝とする。支度がある。今夜は客間を使われよ。……ただし」琥珀の目がちらりとリディアを刺した。「引き渡しまで、あれは当家の娘だ。会うのは明朝の作法に従ってもらう」


 最後の最後に、爪を一本残す。この男らしい、小さな意地だった。リディアは膝の上で拳を握った。握った拳が震える前に、低い声が言った。


「いいだろう。ただし、明朝、引き渡しの前に妹君の健康を検める。長旅の前の、当然の作法だ」


「……好きにされよ」


「傷があれば、数える」レオンハルトは立ち上がりながら、事もなげに言い足した。「当家には傷を数える係がいる。数えた数は正の記録として残る。……どこに提出する記録になるかは数の中身次第だ」


 オスヴァルトの頬が一度だけ、引き攣った。


   ◇


 夕刻、客間へ下がる廊下で、リディアは兄とすれ違った。


「――やあ。これは驚いた」


 ファビアンだった。柔和な笑みも、明るい茶髪も、記憶のままだった。次男は芝居がかった仕草で足を止め、リディアを上から下まで眺めた。


「見違えたよ。うちの料理女が……ああ、失礼。未来の辺境伯夫人がずいぶんいい毛皮を着ている」


 笑顔のまま刺す、いつもの刃だった。昔のリディアなら、聞こえないふりをして、心のどこかを削られていた。


「お久しぶりです、ファビアンお兄様」


 リディアは足を止めず、会釈だけを置いて、すれ違った。


 削られなかった。それだけのことが廊下を三歩進んでから、じわりと骨身に染みた。背後で兄が何か言いかけて、やめる気配がした。振り返らなかったので、どんな顔をしていたのかは知らない。知る必要も、もうなかった。


   ◇


 あてがわれた客間は南向きだった。


 暖炉には薪が惜しみなく焚かれ、寝具は羽毛で、卓には湯気の立つ茶まで置かれていた。十八年住んだ家で、リディアは初めて「客」だった。この家の暖かさは客のためのもので、娘のためのものではなかったのだと、部屋の温度が証明していた。


 夜半、リディアは肩掛けを羽織り、部屋を抜け出した。


 北棟への廊下は覚えている通りに冷えていた。壁の燭台は半分しか灯されておらず、窓の隙間から、笛の音のような風が鳴った。この廊下の寒さの中で、妹は今夜も眠っている。あの扉の向こうで、鍵をかけて、家具を寄せて。


 突き当たりの扉の前で、リディアは立ち止まった。


 ノックはしない、と決めてきた。夜中に扉を叩く音があの子にとって何を意味するようになったのか、聞いたばかりだった。怯えさせるために来たのではない。


 リディアは懐から一枚の紙を取り出した。


 旅の鞄の底に、下書きの束ごと持ってきた。その一番上の一枚。いつか、あなたにも、この街を見せてあげたい――何十枚目かで、初めて最後まで書けた、あの一枚だった。その余白に、リディアは今夜、客間の卓で一行を書き足してきた。


 ――「いつか」は明日です。姉さんが迎えに来ました。


 扉の下の隙間に、紙を差し入れる。


 半分まで差し入れたところで、指を止めた。灯りの落ちた扉の向こうは静まり返っている。眠っているだろうか。眠れているだろうか。それとも、廊下に立つ気配に、息を殺しているだろうか。


 紙から、指を離した。


 白い紙が扉の下で、しばらく動かなかった。


 やがて――それは内側から、そっと引かれて消えた。


 衣擦れの音もしなかった。ただ、扉一枚の向こうで、紙の擦れるかすかな音がして、それから、糸のような、押し殺した嗚咽が聞こえた。


 リディアは扉に手のひらを当てた。木は冷たかった。冷たい木の向こうの体温に届くように、声を出さずに、唇だけを動かした。


 おやすみなさい、エミリア。


 明日は迎えに来た姉の顔をちゃんとしてみせるから。


 十八年、この家の廊下では音を立てずに歩いてきた。その足音を殺す技術で、リディアは客間へ戻った。窓の外では王都の行儀のいい雪が音もなく降り続いていた。あの静かな雪の下を明日、妹を連れて帰る。雪かきの怒鳴り声と、屋根から落ちる雪塊と、ソリの鈴の鳴る、騒がしくて温かい、あの魔境の街へ。


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