第24話 北棟の再会
朝が来るのをこれほど長く待った夜は生まれて初めてだった。
鐘の一つ目が鳴る前に、リディアは身支度を終えていた。客間の暖炉はまだ赤かったが当たる気にはなれなかった。この家で自分だけが温まることにはもう慣れられそうにない。慣れずに済む朝がようやく来たのだった。
迎えに現れたのは侍女頭のマルタだった。
「お支度が整い次第、広間へお越しくださいませ。エミリア様は追って――」
「妹の部屋へ、案内してください」
マルタの薄い唇が途中で止まった。
「……は?」
「引き渡しの前に、健康の検分をいたします。昨日、当主様の承諾をいただいた通りに。検分は妹が寝起きした部屋で行います。寝具、暖房、窓――生活の場も含めて検めるのが作法ですので」
係ですので、と言いかけて、さすがに呑み込んだ。マルタの顔から血の気が引いていくのをリディアは黙って見ていた。この侍女頭は知っているのだ。あの部屋が検分に耐える部屋ではないことを。誰よりもよく、知っているのだ。そうしたのは自分なのだから。
「部屋はその、まだ片づいて――」
「片づいていない部屋を検めるのです」
リディアは帳面を小脇に抱え直した。旅装の中で一番嵩張らず、一番重い持ち物だった。
◇
北棟の廊下は朝の光の中でも寒かった。
昨夜、足音を殺して歩いた廊下をリディアは今朝、足音を立てて歩いた。突き当たりの扉の前で、マルタが叩こうと手を上げる。リディアはそれを制して、前に出た。
叩かない。その理由なら、昨夜、聞いたばかりだった。朝でも、同じことだ。
代わりに、声で言った。
「エミリア。姉さんです」
内側で、小さな音がした。
鍵の外れる音。それから、重いものを引き摺る音――家具を扉の前からどける音だった。報告で聞いて知っていた音をリディアは初めて、耳で聞いた。知っているのと聞くのとでは胸に刺さる深さが違った。マルタが目を逸らすのが視界の端に見えた。
扉が細く開いた。
菫色の目が隙間からこちらを見上げた。淡い金の髪は寝乱れたまま、白い頬は記憶より削げて、目の下には薄い影があった。胸元に、一枚の紙が皺になるほど強く抱きしめられていた。
「……お姉様」
「ええ」
「お姉様……本当に、お姉様……? 私、まだ、夢を……」
「夢なら」リディアは自分の声が湿るのを止められなかった。「夢なら、姉さんはもっと、ましな顔で出てきます」
扉が開き切るのと、細い身体が飛び込んでくるのが同時だった。
リディアは妹を抱き止めた。抱き止めて、息が詰まった。軽い。二か月半前より、腕の中の妹は確かに軽くなっていた。肩の骨が外套越しに当たった。淡い金の髪からは冷えた部屋の匂いがした。日の当たらない布と、灰の匂い。かつての自分の匂いだった。
「ごめんなさい、お姉様、私、ごめんなさい……」
「……何を謝るのです」
「分からないけど……分からないけど、ずっと、誰かに謝りたかったの……」
エミリアはリディアの外套に顔を埋めて泣いた。押し殺した、声の出し方を忘れたような泣き方だった。昨夜、扉越しに聞いた嗚咽と、同じだった。マルタが廊下の先へ下がっていく足音を聞きながら、母がそうしてくれたように、リディアは妹の背中をゆっくりと叩き続けた。
◇
検分は窓辺の光で行った。
「手を見せて」
差し出された手を取って、リディアは指を止めた。妹の手は荒れていた。指の節にあかぎれが走り、爪の脇が切れて、洗い物の水で膨れた痕があった。昔は白くて柔らかい手だった。この手を守るために、リディアはずっと、自分の手を荒らしてきたのだった。
「……私がいなくなってから、水仕事を?」
「あの、少しだけ……自分のことは自分でしないと、いけなかったから……でも私、お姉様みたいに上手にできなくて、お皿を二枚も割って、ごめんなさい……」
「謝らない」
声が尖りそうになるのをリディアは奥歯で噛み殺した。怒りの宛先は目の前の妹ではない。帳面を開き、ペンを走らせる。右手指、あかぎれ三箇所、亀裂一。左手同二箇所。処置、要。軟膏は――医務室にある。ある場所をリディアは知っている。
背中に耳を当てて、息を吸わせた。浅い呼吸の奥で、冬毎の、あの掠れた音がした。咳嗽、継続中。悪化の兆候はなし。ただし部屋の環境は――リディアは顔を上げ、部屋を見回して、順に書きつけた。
暖炉の薪、残り三本。窓、北向き、建付け不良、隙間風あり。寝具、一組、綿薄し。室温、廊下と同じ。
打たれた痕はなかった。首も、腕も、どこにも。帳面のその欄に「なし」と書き込む時、リディアはペンを持つ手から力が抜けそうになった。なし。この一語のために、十日、雪道を来たのだった。
「お姉様、あの……それ、何を書いているの?」
「傷を数えています」リディアは帳面に目を落としたまま答えた。「姉さんはいま、傷を数える係なのです。向こうの屋敷で、正式に拝命しました」
「傷を数える、係……?」
「ええ。数えた数は記録に残ります。……あなたの十年分も、今、残しました」
エミリアは意味が分からない顔をしていた。それでよかった。この帳面の数字が誰に向けた刃なのかは妹が知らなくていいことだった。
◇
玄関広間には家の者が揃っていた。
オスヴァルトは階段の下に立っていた。完璧な所作、完璧な装い。その横にハインツ、壁際にマルタ。アルノルトの姿はなく、ファビアンは柱にもたれて、笑顔の見本のような顔で成り行きを眺めていた。
エミリアは広間に入った瞬間から、リディアの半歩後ろに隠れた。掴まれた袖が小さく震えていた。
「……行くのか」
オスヴァルトが言った。声は静かだった。静かなことが恐ろしかった。
「身体に気をつけることだ。北の地はお前のような病弱な娘には辛かろう。……戻る場所はここにしかないのだからな。忘れるな」
「……ごめんなさい……」
エミリアが消え入る声で言った。
リディアの胸の奥で、何かが音を立てて灼けた。謝っている。連れ出される側の妹が閉じ込めていた側の男に、謝っている。十年かけて、この家が妹に教え込んだ返事がそれだった。
言い返そうと息を吸った、その時だった。
大きな影が音もなく、姉妹と当主の間に割って入った。
レオンハルトだった。彼は何も言わなかった。オスヴァルトを睨みもしなかった。ただ、外套の裾でエミリアの視界から当主を遮る位置に立ち、いつもの怖い顔で、いつもの短い言葉を置いた。
「済んだな。行くぞ」
「……婚礼までだ、辺境伯殿」オスヴァルトの声が背中を追ってきた。「約定は忘れぬことだ」
「ああ」レオンハルトは振り向きもしなかった。「俺は約束は忘れん。……そちらも、そうであることだ」
扉が背後で閉まった。




