第25話 十日間の旅路
ソリが動き出しても、エミリアはしばらく、毛布の中で固まっていた。
鉄柵の門を抜け、灰色の鷹の紋章が頭上を過ぎ、滑り木の音が雪の音に変わる。灰鷹館が視界から消える角を曲がる時、エミリアは一度だけ振り返り――それから、自分で、前に向き直った。
「……お姉様。私、本当に、行っていいの……?」
「行っていいの、ではありません」リディアは毛布の中で、妹の手を探し当てた。「姉さんが迎えに来たのです。あなたは連れて行かれるのです。観念なさい」
「……ふ、ふふ」
小さな、本当に小さな音だったがそれは確かに、笑い声だった。二か月半ぶりに聞く、妹の笑い声だった。
「お姉様、それ、悪者の台詞……」
「ええ。姉さんは今日、あなたを攫っていく悪い魔女です。行き先は魔境です。諦めなさい」
「魔境……」エミリアの声がまた少し、震えを取り戻した。「あの、お姉様。魔境って、その、怖いところ、ですか……? さっきの、あの背の高い方も、あの、こわ……」
言いかけて、エミリアは慌てて口を押さえた。ソリの外、少し離れて併走する黒鹿毛の上のレオンハルトを怯えた目でちらりと見て、毛布に半分潜った。
リディアは答えを急がなかった。あの怖い顔の説明を雪道の十日で全部してしまうのはもったいない気がした。妹はこれから、自分の目で見ればいい。怖い屋敷ではなく、騒がしい屋敷を。怖い街ではなく、息のできる街を。
「大丈夫」
だから今はそれだけ言って、握った手に力をこめた。
「十日あります。着くまでに、ゆっくり話してあげる」
妹の手は冷たかった。けれど毛布の中で、握り返す力は確かにあった。温める時間はたっぷりあった。
◇
最初の夜の宿場で、エミリアは湯気の立つ皿を前に、固まった。
鶏と根菜の煮込み、黒麦のパン、焼いた腸詰め。旅の宿の、飾り気のない、気前のいい夕食だった。護衛の騎士たちが遠慮なく匙を鳴らす中、エミリアだけが手を膝に置いたまま、皿をじっと見つめていた。
「……エミリア?」
「あの……これ、私も、食べていいの……?」
リディアは匙を持つ手が止まった。
「私の分も、あるの……? 間違いじゃ、なくて……? だって、こんなに温かいの、私……」
声は途中で萎んで、消えた。エミリアは俯いて、膝の上で指を握り込んだ。もったいない、という言葉の形に、唇が動くのが見えた。
二か月半前の自分がそこに座っていた。
アッシュフォード邸の最初の夕食で、湯気の立つ皿を前に、これは何かの試験だろうかと勘繰った自分が。優しさの請求書を待ち構えていた自分が。リディアは匙を置き、口を開きかけた。大丈夫、これはあなたの分――食べていいのだと、説明しようとした。
その前に、向かいの席から、大きな手が伸びてきた。
「嬢ちゃん、すまんが頼まれてくれ」
頬に古傷のある熊のような騎士が自分の皿から腸詰めを一本、エミリアの皿に転がした。
「宿の親父が張り切りすぎた。俺はもう三本食った。残すと親父がしょげる。親父がしょげると明日の朝飯が不味くなる。朝飯が不味いと護衛の士気に関わる。……つまり嬢ちゃんが食ってくれんと、この旅は失敗だ」
「え、あ、あの……そ、そんな大事が……?」
「大事だとも。頼まれてくれるか」
エミリアは皿と大男を三往復見比べて、おそるおそる、匙を取った。一口。目が丸くなる。二口目は少し速かった。三口目はもっと速く、それから急に恥ずかしくなったらしく、真っ赤になって速度を落とした。
「……おいしい、です……」
「そうか。そりゃよかった」
大男はそれだけ言って、自分の飯に戻った。恩に着せる素振りは欠片もなかった。
食べる理由をあげたのだ。リディアは気づいた。施しではなく、頼みごとの形にして。この街の人間はどうしてこう、揃いも揃って、同じ手口なのだろう。
◇
旅の夜には決まりごとが二つできた。
一つは薬缶だった。ガスパルの麻袋の根をリディアは宿の火を借りて毎晩煎じた。土色の、苦い煎じ薬である。エミリアは最初の一口で涙目になった。
「お、お姉様……これ、おいしくない……」
「薬ですから」
「おいしくないの、すごく……」
「効きますから。文句は庭師に言いなさい」
文句を言いながら、妹は毎晩飲み干した。三日目には咳の音が浅くなり、五日目の夜は一度も咳き込まずに眠った。
もう一つの決まりごとは三つ編みだった。
眠る前に髪を編むと、エミリアはよく眠る。子供の頃からそうだった。灰鷹館の寒い部屋で、毛布にくるまった妹の髪をリディアは何百夜も編んできた。宿の寝台に並んで座り、淡い金の髪に指を通すと、指が勝手に昔の速さを思い出した。
「……お姉様の三つ編み、久しぶり」
「自分では編まなかったのですか」
「編んだけど……自分で編むと、眠れないの。不思議ね」
不思議でも何でもない、と思ったが言わなかった。編み目の効能ではないのだ。編む指の持ち主の問題なのだ。それを言葉にすると、この二か月半の妹の夜を全部言い当ててしまうから、リディアは黙って手を動かした。
そして、リディアは数えていた。
係の癖だった。帳面にはつけなかったが頭の中の欄外に、毎晩、書き込まれていくものがあった。
一日目の夜。エミリアは扉に鍵をかけ、夜中に三度、起きて確かめた。
三日目の夜。鍵をかけ、確かめたのは一度。
五日目の夜。鍵はかけた。確かめなかった。
八日目の夜。エミリアは鍵をかけ忘れて眠った。朝、リディアが指摘すると、妹は自分でも驚いた顔をして、それから、少しだけ泣いた。理由は訊かなかった。訊かなくても、帳面の数字が全部語っていた。傷を数える係の帳面に、初めて、減っていく数字が載った。
◇
レオンハルトは十日間、見事なまでに近寄らなかった。
ソリには決して同乗せず、宿では姉妹から一番遠い席に座り、話しかけることも、目を合わせることすらしなかった。エミリアの怯えはそれでも消えなかった。黒鹿毛の上の大きな影が視界に入るたび、妹はリディアの袖をそっと掴んだ。
「……あの方、私のこと、怒っていらっしゃるの……? 一度も、お話しにならないわ……」
「怒っていません。あれは地顔です」
「でも、あんなに眉間に皺が……」
「あそこには筆が飼われているのです」
「ふで……?」
説明はしなかった。屋敷に着けば分かることだった。
だが四日目の夜、宿の女将が姉妹の部屋に、湯気の立つ杯を二つ運んできた。
「お連れの旦那様から。妹さんにって」
蜂蜜を溶かした、温かい山羊の乳だった。
エミリアは杯を両手で包んで、途方に暮れた顔をした。
「……どうして……私、これが好きだって、誰にも言っていないのに……どうして、あの怖い方が……」
リディアには分かった。三日かけて書いた三枚の紙。その場で最初から最後まで読んで、畳んで、胸元に仕舞った男。あの三枚は書類の山に埋もれてなどいなかった。雪道の十日の間も、あの外套の内側で、一枚ずつ、実行されているのだった。
「……飲みなさい。冷めます」
「お姉様、あの方は――」
「冷めます」
自分の声が少しだけ上ずったことは妹には気づかれなかった、と思う。杯に口をつけたエミリアは一口で目を見開き、「甘い」と小さく言って、それきり黙って飲んだ。飲み終わる頃、その目が潤んでいたのは湯気のせいだけではなかっただろう。
◇
十日目の昼、エミリアがソリの上で小さく声を上げた。
「お姉様、あれ……山……?」
灰色の空との境目に、それより暗い灰色がわだかまっていた。丘をひとつ越えるたびにそれは大きくなり、やがて、稜線ではありえない直線と、直線の上に等間隔に並ぶ櫓の影が見分けられるようになる。
「壁です」リディアは言った。「フォートセバーンの、城壁」
二か月半前、同じ道の同じ丘で、同じものを見た。あの時のリディアにはそれは世界の果ての壁に見えた。この壁の向こうに売られていくのだと思っていた。
隣で、エミリアが毛布から身を乗り出していた。
「……大きい……あんなに、大きいの……こわい……」
怖い、と言いながら、妹の目は壁から離れなかった。菫色の目が灰色の直線を端から端までなぞって、櫓を数えて、その向こうの空まで見ようとしていた。怯えの底で、別のものが動いていた。リディアはそれに、見覚えがあった。ずっと昔、まだ何も諦めていなかった頃の妹が庭の虫や、雲の形や、行商人の荷車を見る時の目だった。
「エミリア」
「は、はい」
「あの壁の中はうるさいです。品もありません。皆、声が大きくて、遠慮がなくて、朝から怒鳴り合っています」
「……ははい……」
「でも」リディアは妹の毛布を直してやりながら言った。「息ができます」
ソリは丘を下り、壁はゆっくりと、空を覆うほどに近づいてきた。




