第26話 騒がしい屋敷へようこそ
黒ずんだ石積みの塀に沿って進み、鉄柵の門が見えてきた時、門の上から声が降ってきた。
「おっそーい! 予定より半日遅いぞ、閣下ぁ!」
門柱の上に、カイが座っていた。いつからそこで待っていたのか、肩に雪が積もっていた。彼は猫のように飛び降りて、ソリと並んで走りながら報告した。
「留守中、異常なし! 街も異常なし! 魔物も静か! ノエルの毒舌は通常運転! 以上!」
「ご苦労」
「で?」カイの灰色の目がソリの中を覗き込んだ。「そっちが首尾か」
毛布の中で、エミリアがびくりと縮んだ。カイは目を細めて、雪まみれの頭のまま、にっと笑った。
「へえ。あんたが噂の妹? なるほど、姉ちゃんそっくりだ。……安心しなよ、嬢ちゃん。ここの連中は声がでかいだけで、噛みつきゃしない。噛みつくのは俺だけだ」
「か、噛……!?」
「カイ」
「冗談だって。こわばんな、姉ちゃんまで」
◇
車寄せには屋敷の全員が出ていた。
本当に、全員だった。玄関の扉は開け放たれ、階段の上から下まで、見覚えのある顔が並んでいた。二か月半前、リディアを出迎えた時と同じ並びで――ただし今日はあの日より、全員の首が長かった。
ソリが停まる。リディアが先に降り、手を貸すと、エミリアはおそるおそる、雪を踏んだ。
その瞬間、並んだ列が崩れた。
「エミリア様ぁーっ! ようこそーっ!」
先頭を切ったのはミレイユだった。抱えていた包みを掲げて突進してきて、クラリスに襟首を掴まれて止まった。
「ミレイユ。怯えていらっしゃいます」
「あっ、ごめんなさい! でもあたし、ここ二週間、今日のためにお菓子をこう、お菓子をですね……!」
「ようこそお越しくださいました、エミリア様」クラリスはミレイユを右手で確保したまま、左手を胸に当てて、寸分の狂いもないお辞儀をした。「お部屋の支度は整っております。長旅でお疲れでございましょう」
「まあまあ、ほんとに小さくて可愛らしい方……」ノエルがおっとりと目を細めた。「リディア様を煮詰めて甘くしたみたいなお顔ですねぇ」
「煮詰めて、とはなんですか」
「褒めてますよぉ」
エミリアはこの応酬の間、リディアの袖を握ったまま、口を半開きにしていた。無理もなかった。灰鷹館の使用人はこんなふうに笑わない。こんなふうに主人の客の前で言い合いをしないし、そもそも、こんなふうに人を見ない。
「さ、様……」ようやく出た声はそれだった。「あの、私に、様は……私、四女で、その、様って呼ばれるような者では……」
「エミリア様はエミリア様でございますので」
階段の上から、静かな声がした。セバスティアンが一分の隙もない姿勢で立っていた。老執事は下りてくると、エミリアの前で深く一礼し、彼女が両腕で抱えていた小さな包み――妹の、全財産だった――に、恭しく手を差し伸べた。
「お荷物をお預かりいたします」
「え、あ、こ、これだけ、なんです……荷物、これだけで、ごめんなさ……」
「承知しております」セバスティアンはその小さな包みをまるで王家の宝物のように両手で受け取った。「足りないものはこれから増やせばよろしいのです。この屋敷はそういうことばかりしております」
◇
そして、人垣が割れた。
黒鹿毛から降りたレオンハルトがまっすぐこちらへ歩いてきたのだった。使用人たちが目配せを交わすのが分かった。全員が息を詰めて、成り行きを見守る気配。エミリアはリディアの袖を握る手に、痛いほど力をこめた。長身の影が目の前に落ちると、妹は小さく震え出した。
レオンハルトは立ち止まった。
眉間に皺を刻んだ、いつもの怖い顔で、彼はしばらく黙っていた。何かを探している沈黙だと、今のリディアには分かった。だが初対面の人間には処刑の宣告を選んでいる沈黙にしか見えないことも、リディアは経験で知っていた。
「部屋は用意してある」
やがて彼はそう言った。
「困ったことがあれば、言え。……以上だ」
短く用件を終え、彼は踵を返しかけた。エミリアはといえば、真っ白になって、口をぱくぱくさせて、返事の音がひとつも出ていなかった。当然だった。二か月半前のリディアはほとんど同じ台詞を浴びて、売られた先の値踏みが始まったと解釈したのだ。
だから、リディアは膝を折った。
妹の目の高さまで屈んで、震える両肩に手を置いて、はっきりと言った。
「大丈夫」
「お、お姉様……でも……」
「大丈夫。この人は怖い顔をしているだけだから」
エミリアの菫色の目がまん丸になった。
姉の顔と、辺境伯の顔を二度、三度、往復する。リディアは頷いてみせた。妹よりも、自分の言葉の据わりの良さに、内心で驚きながら。あの日には口が裂けても言えなかった一言が今は息をするように出た。疑いも、留保も、皮肉の外装もつけずに。この人は怖い顔をしているだけ。それだけの、ただの事実として。
止まっていたレオンハルトの背中がまた歩き出した。歩幅が少しだけ広かった。
「……ふふっ。旦那様ってば、逃げた」
「ミレイユ。声が大きいです」
「だってクラリス、今の! リディア様の今の、聞いた!?」
「聞きました。……ええ。聞きました」
「平和ですねぇ」とノエルが言い、「飯にしよう飯に!」と厨房の方向から料理長の声が轟き、「おい誰か馬を頼む」とカイが叫び、車寄せは一斉に騒がしさを取り戻した。その真ん中で、エミリアはまだ、姉の顔を見上げていた。
「……お姉様」
「なんですか」
「お姉様、あのね……ここの人たち、みんな、声が大きい……」
「言ったでしょう」リディアは妹の手を取って、開け放たれた玄関へ向かった。「でも、慣れます。姉さんで実証済みです」
◇
部屋は南向きだった。
扉を開けた瞬間、エミリアは敷居の上で立ち尽くした。西に傾き始めた冬の日が窓いっぱいに入って、部屋中を蜂蜜色に染めていた。暖炉には薪が惜しげもなく燃えて、寝台には嵩のある羽毛の寝具が三重に重なり、卓には白い花が一輪、活けてあった。
「温室のだ」と、花瓶の横の札にぶっきらぼうな字で書いてあった。「見たくなったら温室に来い。 庭師」
「窓は南向きです。建付けは大工が三度確かめました」クラリスが窓辺で説明した。「隙間風はございません」
「灯りはここですよぉ」ノエルが寝台の脇の燭台を示した。ちょうど、寝たまま手を伸ばせば届く高さだった。「夜中に目が覚めた時、すぐ点けられる高さにしてあります。……夜って、灯りが点くまでが一番長いですから」
エミリアがはじかれたようにノエルを見た。
ノエルはいつものおっとりした微笑のまま、それ以上は何も言わなかった。エミリアの唇が動きかけて、言葉にならず、代わりに目の縁に透明なものが盛り上がった。
「あっ、あと、これ! 玄関で渡しそびれたやつ!」ミレイユが包みを差し出した。中身は焼き菓子だった。バターと蜂蜜の匂いのする、街の焼き菓子。「お近づきのしるし! あ、あとソリに積んだ手袋、サイズ合ってました? 合ってなかったら取り替えるんで!」
「あ、あの、ぴったりで……あの、私……」
エミリアは菓子の包みを胸に抱えたまま、部屋の真ん中で、くしゃりと顔を歪めた。泣くのを堪える顔だった。堪えて、堪えきれず、俯いて、絞り出すように言った。
「私……私、こんなにしていただいて、何も、お返しできるものが……」
「出ました」ミレイユがノエルに囁いた。「姉妹そっくり」
「ですねぇ。血は争えません」
「お返しは要りません」クラリスが生真面目に一礼した。「施しに利子はつけない家風でございますので。……ようこそ、エミリア様。ゆっくりなさってくださいませ」
◇
その夜、リディアが自室で帳面を整理していると、控えめな音がした。
隣室との境の壁ではなく、廊下の扉からだった。開けると、寝間着に肩掛けを羽織ったエミリアが枕を抱えて立っていた。
「……あの……今夜だけ……今夜だけ、一緒に寝てもいい……?」
「どうぞ」
「部屋が嫌なわけじゃないの! あんなに素敵なお部屋、私、生まれて初めてで、だから、その」
「エミリア。姉さんは『どうぞ』と言ったのです。理由の申請は要りません」
寝台に潜り込んだ妹の髪をリディアはいつものように編んだ。編みながら、耳をやった。屋敷は夜になっても、うっすらと騒がしかった。遠くの厨房で鍋の音がする。廊下のどこかでミレイユの笑い声と、カイの「うるせえな」が響く。もっと遠くの庭から、風に乗って、聞き慣れた鼻歌の節。
「……にぎやかな、お家」
エミリアが枕の上で呟いた。声はもう、半分眠っていた。
「怖いお家だって、聞いてたのに……にぎやか……」
寝息はすぐに聞こえてきた。咳のない、深い寝息だった。扉の鍵を妹は一度も確かめなかった。
リディアは灯りを消して、隣の温もりに耳を澄ませた。笑う日はまだ少し先でいい。先に、眠れる夜が来た。順番としてはそれで正しいのだと思った。




