第27話 妹はゆっくりと解けていく
妹はゆっくりと解けていった。
雪が解けるようにはいかなかった。凍った洗濯物が部屋の温みで少しずつ柔らかくなっていく――そういう解け方だった。手で揉んではいけない。無理に伸ばせば、布地が裂ける。屋敷の人間は全員がそれを心得ているようだった。誰もエミリアを急かさず、誰も詮索せず、ただ毎日、同じ温度で騒がしかった。
最初の頃、エミリアは食事のたびに、リディアの顔を見た。食べていいのか、という確認の視線だった。リディアが頷くまで、匙を持たなかった。
それに最初に気づいたのはノエルだった。
ある晩、リディアが席を外していた時のことだ。妹の肩掛けを取りに客間へ戻り、廊下を引き返してくる途中で、リディアは食堂の入口の手前で足を止めた。エミリアの隣に、ノエルが皿を手にして腰かけていた。二人は小声で話していた。
「エミリア様。お皿が空になったら、どうなさいます?」
「え……あの、ごちそうさま、を……」
「もう一杯ほしいな、と思ったら?」
エミリアの、匙を持つ手が止まった。考えたこともない、という止まり方だった。灰鷹館では出された分を残さず食べることだけが許されていて、足りないと感じること自体が贅沢だったのだろう。もう一杯、という言葉がそもそも妹の中になかった。
ノエルは急かさなかった。皿の縁を指でなぞりながら、独り言のように続けた。
「私ね、昔いたお家では一杯目でも、ずいぶん肩身が狭かったんです。おかわりなんて、口が裂けても言えませんでした。よその軒下のご飯を食べさせてもらっている身でしたから。……だからね、エミリア様。『もう一杯ください』って言えるお家はそれだけで、ずいぶん良いお家なんですよ。ここはそういうお家です」
エミリアがノエルを見た。それから、空になりかけた自分の皿へ、視線を落とした。
「……もう一杯くださいって、言っても……叱られない?」
「叱るどころか」ノエルはおっとりと微笑んだ。「厨房で料理長が飛び上がって喜びます。賭けてもいいですよ」
リディアは肩掛けを抱えたまま、廊下の陰から動けなかった。今この瞬間、あの席へ入っていくのがなぜだか惜しい気がしたのだ。妹が生まれて初めて「足りない」と口にしていいのだと教わっている――その場を壊したくなかった。
十日目の夕食で、事件が起きた。
「あ、あの……」
エミリアが空になった皿を前に、ちらりとノエルの方を見て、それから、蚊の鳴くような声を出したのだった。
「あの……おかわりって、していいもの、ですか……」
食堂が静まり返った。
次の瞬間、ミレイユが皿を引っ掴んで厨房へ疾走し、廊下の向こうで「おかわりです! おかわりが出ました!」と叫び、厨房から料理長の「よっしゃあ!」という、戦勝報告を受けた将軍のような声が轟いた。山盛りになって戻ってきた皿を前に、エミリアは真っ赤になって縮んでいた。
「た、たくさんは食べられな……」
「残していいんですよぉ」ノエルがおっとりと言った。「残すと熊みたいな騎士様が回収に来ますから、無駄にもなりません」
◇
ノエルの時間は決まった刻限を持たなかった。
昼下がりがクラリスのもので、夕方がカイのものであったのに対して、ノエルはいつの間にか隣にいた。洗濯物をたたむ手を止めず、廊下の窓を拭きながら、厨房へ塩を取りに行くついでに――気づくと、エミリアのいる場所に、ノエルがいた。そうして、何も与えなかった。菓子も、稽古も、物語も、花も。ただ隣に座って、同じ高さの声で、どうでもいい話をした。今日の雲は羊の腹に似ているだとか、料理長の鼻歌は昨日と音程が違うだとか。
なのに、とリディアは気づいていた。屋敷の誰といる時より、妹の肩がノエルの隣で、一番下りていた。
ある午後、洗い上がった敷布を物干しへ運んでいくと、風に膨らむ布の向こうで、二人が並んで座っていた。籠いっぱいの洗濯挟みをエミリアが一つずつノエルに手渡している。手伝う、というより、手伝わせてもらう手つきだった。リディアは声をかけそびれて、敷布の陰で足を止めた。
「……あのね、ノエルさん」エミリアの声が風に乗って届いた。「私、ここにいて、いいのかな……って、時々、思うの」
リディアの指が敷布の端を握った。
「みんな、すごく良くしてくださるでしょう。お姉様も、辺境伯様も、ミレイユさんも。……でも、良くしていただくたびに、少しずつ、怖くなるの。こんなに良くしてもらう資格、私にはないのに、って。何も、返せるものがないのに、って。……変、よね」
それは十年のあいだ、妹が姉の前では一度も口にしなかった種類の言葉だった。エミリアは姉にだけは心配をかけまいとしていたのだろう。守られる側が守る側にかける、最後の遠慮。だからこそ、姉ではない誰かの隣で、初めて漏れたのだ。
ノエルは洗濯挟みを籠に放った。おっとりした横顔のまま、少しのあいだ、空を見ていた。
「資格のお話をすると、長くなりますよぉ」
あんまり軽い声だったので、リディアは一瞬、はぐらかされたのかと思った。
「私、資格を確かめてからご飯を出したことも、資格を数えてから布団を敷いたことも、一度もありませんから。――エミリア様。良くしてもらうのが怖いのは良くされ慣れていないから。ただ、それだけのことですよ。慣れていないだけのことに、資格がないだなんて、そんな難しい名前、つけなくていいんです」
「……慣れる?」
「慣れますとも。私が実証済みですから」
リディアは息を呑んだ。それはいつか自分が妹に言った言葉と、同じ形をしていた。けれど、リディアの「慣れます」が街の喧騒や大きな声という外側のことだったのに対して、ノエルのそれはもっと奥の――優しくされることそのものに慣れる、という、はるかに難しい場所を指していた。それがどれほど難しいか知っている者だけが出せる、軽さだった。
「ノエルさんも、慣れなかったの……?」
エミリアの問いに、ノエルはほんの少しだけ微笑を深くした。
「さあ、どうでしょう。私、こう見えて昔からずうずうしいので」
答えてはいなかった。答えの形をした、別の何かだった。エミリアはそれ以上は訊かなかった。訊いてはいけないと、同じ痛みを知る者の勘で分かったのだろう。ただ、そっと、自分の肩をノエルの肩に寄せた。ノエルは避けなかった。避けないことで、受け取った。
リディアは敷布を抱えたまま、静かにその場を離れた。
胸の中で、二つの温度が隣り合っていた。一つはまぎれもない安堵だった。自分の手の届かない場所に、妹を受け止める手がもう一つあった、という。もう一つの温度にはまだ名前がつけられなかった。十年、この子を守ってきた。守ることでしか、愛せなかった。けれど守るということはこの子を「守られる側」に据え置くことでもあったのだと――物干しの下で肩を寄せ合う二つの背中が言葉もなく、教えていた。
姉には開けられない扉があった。姉だから、開けられなかったのだ。
抱えた敷布が急に、重くなった気がした。
この手はずっと、妹のために動いてきた。編んで、煮て、庇って。その仕事がいま一つ、確かに他の誰かの手へ渡った。良い手に渡った。それは分かっている。分かっていて、敷布を抱え直した自分の両手をリディアは一瞬、見下ろしていた。……係の帳面に、この温度の科目名はまだない。名前のないものは記帳しない。それが作法だ。作法だと言い張って、頁を閉じた。
それを最初に開けたのはノエルだった。
それからというもの、エミリアはノエルの後を影のようについて回るようになった。洗濯物をたたむのも、窓を拭くのも、厨房へ塩を取りにいくのにも、ついていく。ノエルは相変わらず何も与えず、ただ隣を歩かせた。屋敷じゅうの誰もが妹に何かを差し出す中で、何ひとつ差し出さないその人に、妹は一番なついた。守られることに慣れきった子が生まれて初めて、対等に隣を歩ける相手を見つけたのだと、リディアは思った。
◇
昼下がりにはクラリスの時間があった。
礼儀作法の稽古である。言い出したのはエミリア本人だった。いつまでもお客様ではいたくない、せめて恥ずかしくない振る舞いをと消え入りそうに願い出た妹に、クラリスは「承りました」と一礼して、翌日からきっかり一刻、茶器の扱いと歩き方と挨拶の稽古をつけた。
教え方は恐ろしく丁寧だった。灰鷹館で誰も教えてくれなかったものをエミリアは乾いた土が水を吸うように覚えていった。稽古の終わりにクラリスが「本日も、ようございました」と言うたび、妹は褒められた犬のような顔をした。
「あの子、筋がいいの?」と、リディアは廊下でクラリスに訊いたことがある。
「はい。それに」クラリスは少しだけ間を置いた。「教えたことを翌日まで全部覚えていらっしゃいます。……覚えることでしか、身を守れなかった方の覚え方です。私はああいう覚え方をする方を悪くは思いません」
夕方にはカイの時間があった。
カイは稽古も何もせず、ただ暖炉の前で、街の話をした。屋台の親父が樽に轢かれかけた話。闘技場で去年、六本立った少年の話。酒場の女将が酔漢を三人まとめて雪だまりに投げた話。エミリアは最初、部屋の隅で聞いていた。三日目には長椅子の端で聞いた。五日目には身を乗り出して聞いた。
「――でさ、その樽が坂を転がってくわけ。そこにあんたの姉ちゃんが」
「お姉様が!?」
「子供抱えてた屋台の親父の代わりに、足首の手当てまで一人でやってのけた。露地の連中、今でも言ってるぜ。『あの嬢ちゃんは只者じゃねえ』って」
「カイ。話を盛らないでください」
「盛ってねえよ。なあ嬢ちゃん、あんたの姉ちゃん、こっちじゃちょっとした有名人なんだぜ」
エミリアがまじまじと姉を見た。その目に浮かんでいるのは驚きというより、何か眩しいものを見る色だった。リディアは居心地が悪くなって、繕い物に目を落とした。灰鷹館では姉は「奥様の罪の子」で「小間使い」だった。妹の前で姉が褒められる、ということ自体があの家では起こらない天気だったのだ。
別の晩にはこんなことがあった。
夕食の前に、ミレイユがエミリアの髪を結い直した。いつもの三つ編みを解いて緩い編み込みに、裁縫箱から出てきた若草色のリボンを一本。暖炉の前へ入ってきたカイは樽の話を始めるより先に、ひょいとエミリアを見て、何でもない調子で言った。
「お。嬢ちゃん、髪変えたな。そっちのが似合うぜ」
「……! ほんと!?」
エミリアの顔が灯りの入るように明るくなった。妹は両手でリボンの端に触れ、ミレイユを振り返り、もう一度カイを見て、えへへ、と笑った。ここへ来たばかりの頃は褒められるたびに謝っていた子である。
「カイくんはほんとうに」ノエルがのんびりと口を挟んだ。「息をするように口説きますねぇ」
「口説いてねえ! 事実を言っただけだろ!」
「事実、ですって」ミレイユがすかさず拾った。「聞きました、エミリア様? 事実だそうですよ」
「じ、事実って言うな! いや事実なんだけど! ……ああもう、話が進まねえ! 樽! 樽の話するぞ!」
真っ赤になった語り部が強引に幕を開け、エミリアが声を立てて笑った。その騒ぎを繕い物越しに眺めながら、リディアは思った。この屋敷の男たちは揃いも揃って、目だけは異様にいい。手荒れを一瞥で見抜く主人に、髪の変わり目を見逃さない相棒。そして揃いも揃って、その目の良さの使い道だけをまるで分かっていないのだった。




