第28話 二人の煮込み
温室にはエミリアが自分から通うようになった。
「ちび嬢ちゃん、水は根元にやんな。葉っぱにかけると凍える」
「は、はいっ」
ガスパルは孫を扱うように、エミリアに小さな仕事を与えた。エミリアは言われた通りに水をやり、言われた通りに花殻を摘み、時々、白い花を一輪もらって部屋に活けた。
「よく水を吸う」と、ガスパルはリディアに言った。評価はそれだけだったがこの庭師の言葉としては破格の長さの褒め言葉だった。
そして、手が治っていった。
あかぎれだらけだった妹の手に、リディアは毎晩、軟膏を塗った。医務室にある、とだけ教えられた、あの軟膏だった。二か月半前、自分のあかぎれを一瞥で見抜かれた時は施しの意図を三日は疑った。今は疑わない。疑わないまま、妹の手に塗っている。恩というものはこうやって、川下に流れていくものなのかもしれなかった。
塗りながら、気づいてしまうことがある。あかぎれは五つが三つに、三つが一つになった。治りは早い。この調子では軟膏の出番はあと十日ともたない。妹のための夜の手順が一つ、終わりの日付を持ち始めている。……治らなければいい、とは思わない。断じて、思わない。ただ、瓶の軟膏が減っていくのと同じ速さで姉の仕事も減っていくことに、指の方が先に気づいていた。
◇
その日、エミリアは初めて、厨房の敷居をまたいだ。
「お、お手伝い、させてください……! 私、何もできないけど、豆の筋くらいなら……!」
「よし来た。そこ座んな」
料理長は話が早かった。エミリアは竈の脇の椅子に座らされ、豆の筋取りを任された。手つきは危なっかしかったが真剣そのものだった。リディアはその横で、いつもの鍋を仕立てた。芋と豆の煮込み。具は細かく、焦がしバター。
鍋が煮え始めた時だった。
豆の筋を取っていたエミリアの手が止まった。
妹は鼻をひくつかせた。湯気の立つ鍋を見て、姉を見て、また鍋を見た。菫色の目がみるみる見開かれていった。
「……これ」
「エミリア?」
「この匂い……お姉様、これ、あれでしょう……私が熱を出した時の……」
エミリアは豆を握りしめたまま、鍋に吸い寄せられるように立ち上がった。
「灰鷹館で、私が寝込むと、夜中にこの匂いがしたの。厨房は使っちゃいけないはずなのに、いつの間にか枕元にこのスープがあって、お姉様は『厨房係の気まぐれです』って言って……私、知ってたのよ。ベルトさんが私たちにスープなんて作らないこと、知ってた。知ってたけど、言ったらいけない気がして」
妹の声が湯気の中で揺れた。
「だから私……私ね、お姉様。熱を出すのがほんの少しだけ、好きだった。熱を出した夜だけ、この匂いがしたから。……変でしょう。病気になるのが楽しみだなんて」
リディアはお玉を持ったまま、動けなかった。
隠し通したつもりだった。十年間、完璧に。夜中に竈の火を起こす時は煙突の煙に気を配り、鍋は磨いて痕跡を消し、妹には厨房係の気まぐれで通した。すべて、ばれていた。ばれた上で、妹は十年間、姉の嘘を守るために、知らないふりをしていたのだ。
「……変です」
ようやく出た声は我ながら、ひどく掠れていた。
「熱なんて、出さないに越したことはありません。これからは熱がなくても作ります。毎日でも作ります。だから、あなたはもう、病気を楽しみにしなくて、いいのです」
「……うんっ」
エミリアは泣きながら頷いた。泣きながら、笑っていた。灰鷹館から連れ出して二十日あまり、それは妹が見せた、一番大きな笑顔だった。竈の前で料理長が腕で乱暴に目元を拭って、「ほら、豆! 豆が止まってるよ、お嬢ちゃんたち!」と怒鳴った。声が完全に湿っていた。
◇
夕食の席で、その煮込みは大鍋ごと出た。
「おいしい……」エミリアは二杯目を――自分から――よそってもらいながら、しみじみと言った。「ね、お姉様。辺境伯様は? 今日はお戻りにならないの?」
「見回りで遅くなると、うかがっています」
「そう……。あ、あのね、お姉様。ずっと気になっていたのだけど」エミリアは匙を置いて、少しもじもじした。「お姉様はいつも『レオンハルト様』ってお呼びなのに、私だけ『辺境伯様』だと……その、よそよそしい、かしら……?」
「……エミリア。今、なんと?」
「え? だから、お姉様はいつも、レオンハルト様って……」
「呼んでいません」
「……え?」
「姉さんは辺境伯様とお呼びしています。ずっと、そうです」
食堂が妙な沈黙に包まれた。
エミリアはきょとんとして、姉と、給仕のミレイユたちを見比べた。
「でも……お姉様、旅の間もずっと『レオンハルト様』って……ね?」
「はい」クラリスが即答した。
「毎日聞いてまーす」ミレイユが挙手した。
「初出は王都へ発たれる前――執務室前の廊下でございました」クラリスは指を折り始めた。「以後、私が確認しただけで、三十……いえ、正確を期しますと、記録を見ませんと」
「記録!?」
「係、ですので」
「なっ……」リディアは立ち上がりかけて、椅子を鳴らした。「よ、呼んでいません! 私はそんな、馴れ馴れしい……だいたい、いつ、どこで」
「今朝、玄関で」ノエルがおっとりと言った。「『レオンハルト様、雪が強くなりますから、お早めに』って。それはもう自然に」
「言って――」
言った。
記憶が音を立てて再生された。今朝の玄関。見送りの、業務連絡。あの並びの音を確かに自分の口が発していた。それどころか、遡れば旅の宿でも、ソリの上でも、灰鷹館の応接間ですら――血の気が引き、直後に、顔面へ一気に戻ってきた。
「いつから……私、いつから……」
「ですから、執務室前の廊下で――」
「聞いていません! 記録も結構です!」
燃える顔を両手で覆ったリディアの向かいで、エミリアがぽかんとしていた。それから、姉のこんな顔を生まれて初めて見る妹はおそるおそる、世紀の大発見でもしたように言った。
「お姉様……もしかして、照れてるの……?」
「照れていませんっ」
「語尾が跳ねましたねぇ」
「ノエル!」
食堂はその夜一番の騒がしさになった。リディアは知らなかったがこの騒ぎはふた月近く、屋敷の全員が歯を食いしばって温存してきたものだった。堰が切れた笑い声の真ん中で、エミリアも笑っていた。遠慮がちに、けれど確かに、声を立てて。




