第29話 エミリアが笑う日
数日後の朝食の席で、レオンハルトが唐突に言った。
「街を見せる。二人とも、支度しろ」
エミリアの持っていたパンが皿に落ちた。
「わ、私も、ですか……!?」
「妹も、だ」
それだけ言って、彼は食堂を出ていった。説明は例によって、なかった。真っ白になっている妹の背中をリディアはさすった。
「大丈夫。歩くだけです。姉さんも最初はそうやって連れ出されました」
「で、でも、私、街って、その、外って……」
外。妹の言うそれが単なる街路のことではないと、リディアには分かった。灰鷹館の敷地から出ることを許されなかった十年。妹にとって「外」は馬車の窓越しの景色でしかなかった。
「エミリア。手袋を」
「え?」
「ミレイユにもらった手袋です。ああいうものは使われるために編まれています」
◇
大通りは雪かきの怒鳴り声で始まった。
「どけどけ屋根の雪が来るぞ! ……おう、旦那! 嬢ちゃんも!」
「今日はちっこいのを連れてんな!」
「嬢ちゃんの妹か? そっくりじゃねえか!」
声が四方から飛んでくる。エミリアはリディアの腕にしがみつき、目を白黒させていた。誰も道を譲らない。子供がソリで坂を滑り、行商人が値切り倒され、湯気を噴く屋台の列から、揚げ菓子と焼き栗の匂いが押し寄せてくる。
「お、お姉様、みんな、お姉様のことを『嬢ちゃん』って……こ、侯爵家の娘に、嬢ちゃんって……」
「ここではそういうことになっています」
「怒らないの……?」
「最初は面食らいました。今は」リディアは少し考えた。「今は悪くないと思っています」
市場の入口で、エミリアの足が止まった。雑貨屋の軒先に、木彫りの狼がずらりと並んでいたのだった。大きいの、小さいの、座ったの、吠えたの。妹はそれをまじまじと見つめた。
「あれ……あれって、もしかして」
「街の守り神だよ、ちっこい嬢ちゃん」店の親父が胸を張った。「黒狼様だ。ありゃあ魔物から街を守ってくれる。どこの家も一匹は置いてる」
エミリアは木彫りの狼と、少し離れて立つ本物とをこっそり見比べた。本物は相変わらず眉間に皺を刻んで、雪の通りに立っているだけで周囲三歩の人波を割っていた。だがその人波の割れ方は恐怖のそれではなかった。子供が「黒狼様だ!」と指をさし、親が「こら」と笑って頭を下げ、彼は微かに顎を引いて応える。それだけの、冬の朝の風景だった。
「……守り神……」
妹が小さく呟くのをリディアは聞いた。
◇
屋台の戦場ではリディアが三か月ぶりに現場復帰する羽目になった。
「嬢ちゃん! ちょうどいいとこに! 芋が煮えすぎる!」
「なぜ私が――ああもう、貸しなさい」
鍋を任され、ついでに客あしらいまで任され、隣でエミリアはおろおろしていたがそのうち屋台の親父に「ちっこいの、皿! 皿を並べな!」と徴用された。妹は言われるまま、必死の顔で皿を並べた。並べ終えると、親父が焼き栗をひと掴み、妹の手袋の上に載せた。
「働き賃だ」
「は、働いて、いいんですか……私……」
「変なこと訊くガキだな。働けるやつは働いていいに決まってんだろ」
エミリアは湯気の立つ焼き栗を両手に載せたまま、しばらく動かなかった。それから、意を決したように一粒を剥いて、口に入れ、目を丸くして、リディアを振り向いた。
「お姉様! 甘い!」
「ええ」
「焼き栗って、甘いのね! 私、知らなかった!」
その声の弾み方に、屋台の親父が「初栗かあ」と笑い、周りの客まで釣られて笑った。悪意の欠片もない、冬の屋台の笑い声だった。エミリアは一瞬首をすくめ――それから、笑われながら、自分も笑った。
リディアは鍋をかき混ぜながら、その横顔を見ていた。
妹が外で、笑っている。
知らない人間に囲まれて、笑っている。
◇
闘技場の歓声は地鳴りのように届いた。
入場した瞬間、エミリアはリディアの外套を掴んだが砂の上で木剣が打ち合う音が響き、観客席が沸くたび、掴む手の力は好奇心のほうへ流れていった。若い騎士志願が古参に転がされ、立ち上がり、また転がされる。「六本立て! 六本立ちゃ本物だ!」と、どこかの席から声が飛ぶ。
「お姉様、あの人たち、怪我しちゃう……!」
「するでしょうね。木剣でも、痣くらいは」
「な、なんで、みんな笑ってるの……あっ、立った! また立った!」
通路側の席から、皺だらけの手が伸びてきて、エミリアの膝に紙包みをひとつ置いた。干し杏の婆だった。
「ほれ。観戦の供だ」
「え、あ、あの、お代……」
「あんた、嬢ちゃんの妹だろ。顔でわかるよ」婆は歯の欠けた口で笑った。「初めての闘技場に、初めての杏。銭の取りようがないね」
杏はエミリアの好物だった。三枚の紙の、一枚目に書いた。リディアがそれを思い出して、ふと隣の連れを見ると、レオンハルトは砂の上の試合を見たまま、何食わぬ顔をしていた。何食わぬ顔ができていなかった。婆に先に杏を出させたかったのか、自分で買って渡す段取りだったのか――たぶん後者で、たぶん出遅れたのだ。眉間の皺が心なしか三割増しだった。
そのとき、場内がひときわ大きく沸いた。
砂の上で、志願者の少年が六本目の打ち込みを受けて、立っていた。両足を踏ん張って、木剣の先を震わせて、それでも立っていた。観客が総立ちになる。エミリアも、つられて立ち上がっていた。立ち上がって、歓声の渦の中で、興奮のあまり、一番近くにあった袖を無我夢中で引いた。
「見て、立った! 六本目! ねえ、立ちました、レオンハルト様!」
袖の持ち主はリディアではなかった。
エミリアの手は隣に座る辺境伯の外套をしっかりと掴んでいた。妹は自分のしたことに気づいて、掴んだまま、石になった。血の気の引いていく音が隣のリディアにまで聞こえるようだった。
「あ……ご、ごめんなさ……へ、辺境伯さ――」
「六本立った」
レオンハルトは妹の手を振り払いもせず、砂の上を見たまま言った。
「あいつは去年、三本だった。……よく見ておけ。ここではああやって強くなる」
名前のことには一言も触れなかった。触れないことがこの人の「好きに呼べ」なのだった。エミリアはおそるおそる顔を上げ、怖い顔の横顔をしばらく見つめて、それから、外套から手を離し――離した手を膝の上でもじもじさせて、蚊の鳴くような声で言い直した。
「……立ちましたね、レオンハルト様」
「ああ」
歓声の中で、リディアだけがその小さな事件の一部始終を見ていた。あの日、玄関で凍りついていた妹がいま、あの怖い顔の隣で、同じ試合に声を上げている。
◇
帰り道、エミリアはよく喋った。
焼き栗のこと、木彫りの狼のこと、六本立った少年のこと、干し杏の婆のこと。白い息を弾ませて、両手を動かして、リディアが十年間見てきた中で、一番たくさん喋った。
「それでね、お姉様。私、思ったの」半歩前を行くレオンハルトの背中を見ながら、妹は声をひそめた。「レオンハルト様って、怖いですけど……優しい方ですよね」
「……ええ。そうです」
「ふふ。お姉様が『大丈夫』って言った意味、今日、ちゃんと分かった」
妹は笑った。
今日、何度目の笑顔だろう。リディアは考えて、すぐに答えが出た。十二回目だった。数えていたのだ。係の癖で、朝からずっと、帳面もないのに数えていた。焼き栗で一回。皿を並べ終えて一回。闘技場で三回。婆の杏で一回――
そして気づいた。十二回のうち、姉が笑わせたものはひとつもなかった。
屋台の親父が、婆が、観客が、街が、あの人が、妹を笑わせた。リディアの手を一度も借りずに。
嬉しかった。本当に、嬉しかった。この笑顔のために、雪道を十日行って、あの家の敷居を跨いで、帰ってきたのだ。妹が笑うたび、胸の中で、十年分の何かが報われていく。それは嘘ではない。
なのに、報われていく音の下で、別の何かが小さく軋んでいた。
私が守らなくても、エミリアは笑えるようになる。
それは嬉しい。それが一番いい。ずっと、そればかり願ってきた。でも――でも、それなら。
物心ついてからずっと、妹を守ることがリディアの仕事だった。薪を数え、石を温め、鍋を煮て、繕い、庇い、盾になる。それがリディアの手の使い道で、リディアという人間の、たったひとつの価値だった。その仕事が日ごとに、確かに、減っていく。
空いていく手で、私は何を――
「お姉様?」
エミリアが顔を覗き込んでいた。菫色の目が心配そうに揺れていた。
「……なんでもありません。ほら、日が落ちます。帰りますよ」
「うんっ。……あ、ねえ見て、お姉様、雪!」
妹の言う通り、雪が降り始めていた。フォートセバーンの騒がしい雪ではなく、今日は珍しく、静かに落ちてくる雪だった。エミリアは空を仰いで、手袋の手を差し出し、落ちてくる一片を受けて、この日十三回目に笑った。
それは嬉しい。でも、少し、怖い。
帳面のどこにも書けない一行をリディアは胸の一番深い引き出しに仕舞って、鍵をかけた。妹の隣を歩く姉の顔は雪のせいにして、少しだけ俯けたままで。




