第30話 唐突な誘い
冬は屋敷の暮らしの底まで根を張っていた。
根雪は三度目の屋根の雪下ろしを呼び、廊下の窓は朝ごとに氷の羊歯を茂らせ、厨房の大鍋からは煮込みの湯気が絶えなくなった。騎士団の詰所からは三日にあげず「例の煮込みはまだか」と催促の使いが来る。料理長は「作り方を書き残せ」と迫り、リディアは「書けるものなら書いています」と返した。酢を匙半分、香草の軸を二本。分量は書ける。夜中の竈の火加減で覚えた手の記憶は書けない。
「申告する」
その朝も、医務室の入口に、フォートセバーン辺境伯が立っていた。
いつもの怖い顔で、彼は無言のまま右手を突き出した。人差し指の付け根に、白い糸のような線が一本。目を近づけて、ようやく擦り傷だと分かる。
「昨日の鍛錬でついた。以上だ」
「……右手人差し指、擦過傷、一。深さ、なし。出血、なし。処置」リディアは帳面から顔を上げた。「不要」
「そうか」
「畏れながら」ペンを置く。「左脇腹を二十七針も縫った折には『かすり傷だ』と仰った方の申告基準として、これはいかがなものかと存じますが」
「係が数えると言った」
「数えます。数えますとも。ですが閣下、世の中には程度というものが」
「猫に引っかかれた場合も申告は要るか」
「…………猫に?」
「厩の猫だ。懐かん」
リディアは深く息を吸い、新しい行にペンを下ろした。左手甲、猫による引っ掻き傷、一。処置、不要。備考、自業自得の疑い。最後の一項は口には出さなかったが帳面には残した。記録とはそういうものである。
扉の陰で、ノエルとエミリアが肩を寄せ合ってこちらを覗いているのには気づいていた。妹がこの「朝の申告」を見物に来るようになって、もう十日になる。見物人の間では猫の名前を何にするかの賭けが進行しているらしかった。
◇
その日の午後、レオンハルトは珍しく早く戻った。
リディアは二階の廊下の窓辺にいた。眼下の中庭で、エミリアがノエルと、乾いた洗濯物を取り込んでいる。取り込む、というより、風にはためくシーツに巻かれて、きゃあきゃあ言っている、という方が近い。ノエルが何か言い、エミリアが弾けるように笑った。声は窓を隔てて届かない。それでも、笑っているのはよく分かった。
いい眺めだ、と思う。心から、そう思うのに、リディアの指はいつのまにか窓枠を握っていた。
「――何を見ている」
すぐ後ろで声がして、リディアは飛び上がりかけた。振り向くと、外套の肩に雪を残したまま、レオンハルトが立っていた。足音をまるで聞かなかった。この巨体で、どうやって近づくのか、いまだに分からない。
「……妹を。よく、笑うようになりました」
答える声が我ながら、妙に平らだった。取り繕う暇がなかった。彼の視線がリディアの顔から、窓の下の中庭へ落ちる。しばらく、二人並んで、同じ景色を見た。
「お前が笑わせたのではないな」
心臓が小さく音を立てた。
刺すつもりの言葉ではない、と分かった。この男はそういう器用な刺し方をしない。ただ、見えたものを見えたまま置いただけだ。それがかえって、逃げ場をなくした。鍵をかけて沈めたはずの一行を外側から、無造作に指さされた気がした。
「……はい」リディアは俯いた。「嬉しいのです。本当に。……なのに、私は」
続きは出てこなかった。口にしたら、みっともないものが零れる気がした。
レオンハルトは黙っていた。何かを言おうとして、探して、選び損ねる――あの言葉の渋滞が横顔にあった。眉間の皺がいつもより一段、深い。口を開き、閉じ、もう一度開いて、結局、彼が置いたのはたったひと塊だった。
「その感情はおかしなものではない」
リディアは顔を上げた。
レオンハルトはそれ以上を言おうとして――言えなかった。続きを探す沈黙が長く伸びて、途中で、途切れた。うまく言えないことをこの男は無理に言い繕おうとはしない。ただ最後に、いつもの逃げ場所へ帰るように、ぶっきらぼうに付け足した。
「……以上だ」
そして、来た時と同じく足音もなく、廊下の角の向こうへ消えていった。外套の裾が翻る音だけが一拍遅れて、そこに残った。
リディアはしばらく、その場に立っていた。
その感情はおかしなものではない。それだけだった。理屈も、順序も、慰めの飾りも、何ひとつなかった。説明としてはひどく足りなかった。
足りないのに――なぜか、胸の底で鍵をかけたはずの引き出しがほんの少し、緩んだ。おかしくない、と、あの人は言った。ならば、抱えていて、いいのだ。妹が笑うのが嬉しいことも、その手が自分から離れていくのが寂しいことも、両方とも。どちらか一方がもう一方を嘘にするわけではないのだと――そこまではあの人は言わなかった。言えなかったのだろう。けれど、リディアの中で、足りなかったはずの一言が勝手に、その先まで芽を伸ばしていた。
中庭ではまだ、妹が笑っていた。今度はその声が素直に、いい音だと思えた。
◇
その夜の夕食の席で、レオンハルトが唐突に言った。
「明日は空けておけ。二人とも、支度しろ」
エミリアの匙が皿の縁で軽やかな音を立てた。
「お、お出かけですか? 街? また街ですか?」
この半月で、妹は「お出かけ」という単語に対して犬のように機敏になっていた。木彫りの狼を自分の銭で買うのだと、ミレイユにもらった小さな財布を毎晩数えているのをリディアは知っている。
だがレオンハルトは首を横に振った。
「街ではない」
「街の、外……ですか?」
「ああ」
それきり、彼は黙って肉を切り始めた。街の外。魔境の街の外である。食卓の給仕に立っていたミレイユとノエルが目配せを交わし、クラリスの眉が一分だけ動いた。街の外に、冬に、姉妹を連れて行く場所。誰の頭にも同じ疑問符が浮かんでいるのが分かったが誰も口には出さなかった。訊いても短い言葉しか返ってこないことをこの食堂の全員が知っているからだった。
「あの、遠いのですか? お弁当は? 私、包むの、覚えました!」
果敢に踏み込んだのはこの屋敷で一番の新入りだけだった。レオンハルトは肉を切る手を止め、しばらく考えて、答えた。
「近い。……弁当はいい」
「はい!」
妹は嬉しそうに返事をした。行き先も分からないまま、返事だけが嬉しそうだった。憧れというものは大した目隠しだ、とリディアは思った。ひと月前まで、この妹はあの怖い顔が視界に入るだけで袖を握ってきたのである。
その時、卓の脇に控えていたセバスティアンが静かに一歩、前へ出た。
「旦那様」
「ああ」
「私も、お供いたします」
問いではなかった。許可を求める形すら、していなかった。老執事は最上級の丁寧語のまま、決定事項をただ通達した。レオンハルトは一拍おいて、頷いた。
「……そのつもりだった」
「ではソリを二台に。ガスパルに花を切らせておきます」
花。
リディアの手の中で、匙が止まった。冬の、街の外への遠出に、執事が同行し、花を持っていく。帳簿をつけるように、一つ一つの項目を並べてみる。並べ終わる前に、答えの輪郭が出た。出た答えをリディアはすぐに伏せた。誰の、という肝心の欄が埋まらなかったからだ。
アッシュフォードの家の墓なら、屋敷の礼拝堂の裏にある。先代夫妻の名を刻んだ黒い石をリディアは廊下の窓から見たことがある。ならば、街の外の墓とは誰の墓か。
顔を上げると、レオンハルトがこちらを見ていた。
何かを言いかけて、やめて、選び直す――あの言葉の渋滞の気配が猛禽の目の奥にあった。だが結局、彼は何も言わず、視線は皿へ戻った。説明は明日の分らしかった。この男の沈黙の種類を聞き分けられるようになった耳が今夜ばかりは恨めしかった。あれは重いものを持ち上げる前の沈黙だった。




