第31話 丘の上の墓地
翌朝は風のない晴天だった。
フォートセバーンの冬には数えるほどしかない、静かな朝である。車寄せには馬ソリが二台仕立てられ、吐く息の白さだけが賑やかだった。
「ほらよ、嬢ちゃん」
ガスパルが温室から抱えてきたものをリディアに押しつけた。白い花だった。エミリアの部屋に活けてあるのと同じ、冬の温室の白い花。それが麻紐で丁寧に、二束に分けて括られていた。
「……二束、ですか」
「注文が二束だったんでな」
庭師はそれだけ言って、義足の音を鳴らして一歩下がった。酒の抜けた朝の庭師は口数が少ない。だがリディアがソリに乗り込む間際、背中に付け足した。
「――嬢ちゃん。花ってのは死んだやつのためのもんじゃねえぞ」
「……と、言いますと」
「まあ、行きゃ分かる」
行きゃ分かる。この街の人間は揃いも揃って説明をしない。説明の不足をこの地の風土病か何かだと思うことにして、リディアは毛布の下に収まった。隣にエミリアが潜り込んでくる。妹は外出用の外套に、ミレイユの手袋に、耳当てまで着けて、それでも白い息を弾ませていた。
「お姉様、あのね、私、街の外って、初めて」
「姉さんもです」
「え? お姉様も?」
「街道は通りましたがあれは通り道です。行き先として出るのは初めてです」
先頭のソリにはレオンハルトとセバスティアンが乗った。老執事は今朝、常より濃い色の外套を着て、膝の上に薄い革の包みを一つ、載せていた。書類の類に見えたが屋敷の帳簿でないことだけは分かった。彼はその包みに、行きの間じゅう、一度も手を触れなかった。触れないことがかえって中身の重さを語っていた。
ソリが滑り出す。門柱の上から「いってらっしゃーい!」とカイの声が降り、エミリアが手袋の手を振り返した。
城門を抜け、市壁が背中側へ遠ざかっていく。街道は東へ延び、雪原の起伏の向こうに、まばらな林と、低い丘がいくつか見えた。ソリの鈴の音と、蹄の雪音のほかには何もない。静かだった。王都の、あの粘つく静けさではない。ただ広くて、白いだけの静けさだった。
リディアは前のソリの広い背中を見た。
――いずれ、話す。
三か月半前の、最初の夜の食卓。なぜ私なのですか、と正面から訊いた自分に、この男はそう答えた。今言っても、お前は信じん、と。あの時は裏を三通り疑った。同情か、政略か、酔狂か。どの欄にも収まらないまま、リディアはあの問いを帳簿の繰越欄に載せて、ここまで運んできた。
繰り越して、繰り越して、そのたびに欄の外で何かが増えた。毛布と、軟膏と、南向きの部屋。三枚の紙と、十日の雪道と、妹の寝息。貸し借りの計算はとうに破綻している。それでも、最初の問いだけが手つかずで残っていた。
「……レオンハルト様」
ソリの距離を越えて届く声ではなかった。届かせるつもりも、なかった。ただ、口の中で確かめただけだった。それなのに、前のソリの上で、黒い外套の肩がわずかに動いた気がして、リディアは慌てて毛布を鼻まで引き上げた。
丘が近づいてくる。
その南斜面に、雪を被った低い石がいくつも、行儀よく並んでいるのが見えた。
◇
ソリは丘の麓で停まった。ここから先は歩いて登るのだという。
雪は膝下まであったが誰かが定期的に踏み固めているらしい細い道が斜面を縫って上へ続いていた。先頭をレオンハルトが行き、道の雪を長靴で均しながら、時折振り返って歩幅を確かめた。セバスティアンがそれに続き、リディアとエミリアは花を一束ずつ抱えて、あとに従った。
二束の花は麓でセバスティアンが姉妹に一束ずつ、恭しく手渡したのだった。「お持ちくださいませ」と、それだけ言って。注文が二束だった理由はそれで半分だけ分かった。持つ手が二人分あるのだ。残りの半分――誰のための花なのかはまだ、誰も言わなかった。
「お姉様、あれ……」
斜面の中ほどで、エミリアが小さく言った。
石が並んでいた。
膝の高さの、飾り気のない灰色の石だった。墓石だと、ひと目で分かった。それが一列、二列――斜面に沿って、ゆるやかな弧を描いて、何十と並んでいた。どの石も同じ高さ、同じ形で、家名の紋章も、天使の像も、何もない。刻まれているのは名前だけらしかった。雪を被って、名前も読めない石が大半だったがいくつかの石の前は雪が払われ、乾いた花や、小さな木彫りが置いてあった。
リディアはその木彫りに見覚えがあった。
狼だった。市場の雑貨屋の軒先に並んでいる、あの木彫りの黒狼が雪の中の墓石の前に、ちょこんと座っていた。一つではない。あちらの石にも、そちらの石にも。座ったの、吠えたの、大きいの、小さいの。
「……守り神」
エミリアも気づいて、呟いた。生きている家の窓辺だけでなく、死んだ者の枕元にも、この街は狼を置くのだった。
「ここは騎士団の丘だ」
前を行くレオンハルトが立ち止まらずに言った。
「街を守って死んだ者が眠る。騎士も、志願兵も、卒も、区別はない。石の大きさも、変わらん」
「……家名も、ですか」リディアは訊いた。
「家名は」彼は少しだけ間を置いた。「石には刻むが石を並べる順には関わらん。死んだ順に、隣へ並ぶだけだ」
死んだ順に、隣へ並ぶ。王都の墓地の、家格ごとに柵で仕切られ、廟の高さを競い合う眺めをリディアは思い出した。家名は薪にもならない、と言った干し杏の婆の声も。この街ではどうやら死者の世界まで、そういうことになっているらしかった。
◇
列の古い側の一角で、レオンハルトは足を止めた。
そこだけ、雪がすでに払われていた。今朝、誰かが払ったのではない。払われることに慣れた石の、乾いた肌の色をしていた。十五年分の風雪に角を丸くされた、他と同じ形の、同じ高さの石だった。
レオンハルトは石の前に膝を折ると、素手の指で、刻み文字の溝に残った雪を丁寧に掻き出した。手袋を外したのはいつの間にか、だった。骨ばった大きな指が溝を一本ずつなぞっていく。何度も、何度も、そうしてきた手つきだった。
名前が現れた。
ルシアン・ベルフォード。
それだけだった。生年も、位階も、家紋もない。名前と、その下に短く、一行。
――友、ここに眠る。
「あの……」エミリアが花を抱えたまま、遠慮がちに首をかしげた。「ベルフォード様……? どなたの、お墓ですか……?」
リディアは答えられなかった。
ベルフォード。
その音の並びをリディアは知っていた。意味は知らない。ただ、形だけを覚えていた。ずっと昔――母がまだ生きていた頃だ。灰鷹館の洗濯場の陰で、女中たちが声をひそめて笑っていた。奥様の罪の子。あの髪をご覧よ。あれはベルフォードの。
そこで足音がして、囁きは散った。八つのリディアは意味の分からない音の並びだけを拾って、持ち帰って、心の引き出しの一番奥に放り込んだ。二度と開けない引き出しのつもりだった。その引き出しが今、雪の丘の上で、勝手に開いた。
あの髪をご覧よ。
リディアの髪は銀灰がかった淡い金である。エミリアの髪も。母は淡い金だけの髪だった。銀灰の色は母のものではなかった。では誰の。灰鷹館の誰とも、違う色。鏡を見るたび、自分の中の出どころの分からない色。
「……レオンハルト様」
自分の声が遠くで聞こえた。
「この方はどなたですか」
レオンハルトは墓石の前に膝を折ったまま、しばらく動かなかった。何かを言いかけて、やめて、選び直す、いつもの渋滞。だが今日は渋滞の長さが違った。彼は一度、隣に立つセバスティアンを見上げた。老執事は革の包みを胸に抱いたまま、静かに一つ、頷いた。
レオンハルトは立ち上がり、姉妹に向き直った。
猛禽の目がリディアを見て、エミリアを見て、また、リディアに戻った。
「ルシアン・ベルフォード。元、王都の下級騎士。十六年前にこの街へ流れ着いて、十五年前に、ここで死んだ。……俺の父の、生涯でただ一人の、友だ」
風が丘の雪を薄く払った。
「そして――お前たちの、本当の父親だ」
エミリアの腕から、花束が滑り落ちそうになって、止まった。
「…………え?」
妹の声は笑い出す寸前のような、裏返り方をした。
「え、あの……ちち……? 父って、あの、でも、私たちのお父様は王都に……」
エミリアは姉を見た。菫色の目が説明を求めて、すがるように揺れていた。いつもの、姉が「大丈夫」と言ってくれるのを待つ目だった。
リディアは妹に何も言ってやれなかった。
目の前の灰色の石から、目が離せなかった。名前と、一行だけの石。友、ここに眠る。この石の下の人と、自分の髪の色が同じだと――引き出しの底の囁きがそう言っていた。十八年間、出どころの分からなかった色の出どころが雪の下の、こんなに静かな場所に、あった。
「……どうして」
口が勝手に動いた。
「どうして、その方が魔境に――」




