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第32話 父の物語

 語りは雪の上で始まった。


「十六年前の冬だ」


 レオンハルトは墓石の脇に立ったまま話した。手袋は外したままだった。


「その男は歩いて、この街へ来た。馬もなく、荷もなく、剣が一本。城門の前で行き倒れていたのを門番が拾った」


「正確には拾わせたのは先代様でございます」


 セバスティアンが静かに引き取った。


「あの日、私は先代様のお供で城壁におりました。行き倒れの旅人など、冬には珍しくもございません。ですが先代様は櫓の上からひと目ご覧になって、階段を三段飛ばしに下りられました。……後にも先にも、あのように急がれる先代様を私は存じません。後年、理由をうかがいましたら、こう仰いました。『あれは死にに来た顔をしていた。死にに来た奴がそれでも歩いて門まで来た。見過ごせるか』と」


「男は名乗った」レオンハルトが続けた。「ルシアン・ベルフォード。元、王都の騎士。――ただし、王都では死んだことになっている男だと」


 エミリアが花束を抱く腕に力をこめたのが隣で分かった。


「事情は親父にだけ話したそうだ。親父は聞いて、それ以上は誰にも訊かせなかった。屋敷に置き、飯を食わせ、傷が癒えると、騎士団の客分にした。……この家は昔から、そういう家だった」


「施しに利子はつきません、の家風でございます」と、セバスティアンが付け加えた。


 リディアは花束を抱えたまま、動けずに聞いていた。帳簿が勝手に動き始めていた。十六年前。エミリアが生まれた年。王都で「事故死」した男が雪の街道を歩いて。


「……事情、というのは」


 声が掠れた。訊かなければ、と思う前に、口が動いていた。


「その方はなぜ、王都で死んだことに、なっていたのですか」


 レオンハルトとセバスティアンが目を見交わした。今度は老執事が話す番らしかった。セバスティアンは革の包みを抱え直し、姉妹に向き直って、深く一礼した。


「これから申し上げますことはルシアン様が先代様に語られ、先代様が私に遺されたお話でございます。一言一句、この通りであったと。……お辛ければ、いつでもお止めくださいませ」


 誰も、止めなかった。


「ルシアン様には若い頃より、想い合った方がおられました。没落しかけた小さな貴族家の、お嬢様でございます。身分は釣り合いませんでしたがいずれ騎士として身を立てて迎えに行くと、約束を交わしておられた。……その方が二十一の年、とある夜会で、さる侯爵家の当主の目に、留まりました」


 リディアは目を閉じた。


 閉じても、話は続いた。


「侯爵家はその方の実家に縁談を申し入れました。申し入れ、という形の、通達でございます。傾いた実家に、断る力はございませんでした。ルシアン様は下級騎士。侯爵家を相手に、できることは何もございませんでした。……お二人は引き裂かれ、その方は後妻として、灰色の鷹の紋の館へ嫁がれました」


「……お母様」


 エミリアが囁いた。囁いて、両手で口を覆った。


「その後のことをルシアン様は多くは語られなかったそうでございます。ただ、再会があったこと。お嬢様がお二人、お生まれになったこと。そして十六年前――下のお嬢様がお生まれになって間もなく、館の当主が疑いを確信に変えたこと」


 セバスティアンの声は抑揚を変えなかった。変えない声で語られる分だけ、輪郭が鋭かった。


「ルシアン様はお三方を連れて逃げようとなさいました。母君と、二つのリディア様と、生まれたばかりのエミリア様と。……手筈は直前で漏れました。ルシアン様は捕らえられ、そして侯爵家はこの方を殺しませんでした。殺す代わりに、死んだことになさいました。事故で死んだ騎士が一人。それだけなら、醜聞は醜聞のまま、土に埋まりますゆえ」


「……なぜ、殺されなかったのですか」リディアは訊いた。訊く自分の声が他人のもののように平坦だった。


「取引でございました」セバスティアンはまっすぐにリディアを見た。「二度と王都の土を踏まぬこと。生涯、名乗り出ぬこと。それと引き換えに――母君とお嬢様方の身柄には指一本、触れさせぬこと」


 風が丘を渡った。


「ルシアン様は呑まれました。呑んで、歩いて、北へ向かわれました。追手の目が絶えた頃には冬になっており、路銀は尽き、それでも歩みを止めなかった理由を後に先代様がお訊ねになったそうでございます。お答えは――」


 セバスティアンはそこで初めて、少しだけ間を置いた。


「『世界の果てまで行けば、いつか、堂々と死ねると思った。だが歩いているうちに、腹が立ってきた。俺が死んで、誰が娘たちの生きる先を見届けるのか、と』」


   ◇


「――どんな方、でしたか」


 長い沈黙のあとで、最初に口を開いたのはエミリアだった。


 妹は泣いていなかった。まだ、泣いていなかった。ただ、花束を胸に抱いて、墓石と、執事と、辺境伯を順に見上げた。


「あの、その、ルシアン様は……お父様はどんな……」


「よく笑う男だった、と聞いている」


 レオンハルトが答えた。


「俺は七つだった。覚えていることは多くない。……銀灰の髪で、薄紫の目で、細身のくせに、よく食った。親父と並ぶと、月と熊だと、皆が言った。親父の顔を正面から笑った男は俺の知る限り、あの人が最初だ。『辺境伯殿、あなたのその顔は損だ。中身と釣り合っていない』と。……親父は怒らなかった。怒らずに、酒を注いだ。それから一年、二人は毎晩のように飲んだ」


 彼は一度言葉を切って、雪の丘の下――白い街道の彼方を見た。


「俺にも、木剣の持ち方を直してくれた。手が小さいなら小さいなりの持ち方がある、と言った。……それから、こうも言った。『坊主、強くなれ。だが死ぬための強さは覚えるな』と。当時は意味が分からなかった」


 リディアは思った。


 この人は覚えていることは多くないと言いながら、十五年前の台詞を一字ずつ、置くように話す。多くないのではない。少ないものをすり切れるまで、何度も取り出してきたのだ。母の作法書の頁を自分が指の腹で覚えているのと、同じように。


「エミリア様」


 セバスティアンが静かに言った。


「ルシアン様はあなた様を一度だけ腕に抱いておられます。お生まれになって、七日目の夜。乳母の目を盗んで、ほんの束の間であったと。……『腕の中で、火のように熱かった。あんなに熱いものを俺は生涯、他に知らん』と、先代様に幾度も語られたそうでございます」


「…………」


「リディア様のことは」老執事の目がこちらへ向いた。「二年、ご存じでした。庭の隅でお会いになるたび、あなた様はこの方の髪を掴んで、離さなかったそうでございます。『あれは将来、握ったものを離さん子になる。いいことだ』と」


 握ったものを離さない子。


 リディアは自分の手を見下ろした。手袋の中の、家事で固くなった手のひらを。十八年、妹の手を握って離さなかった手を。その握り方を自分より先に知っていた人がいたのだった。


   ◇


「十五年前の秋に、氾濫があった」


 レオンハルトの声が語りを引き取った。短く、事実だけを積む言い方に戻っていた。


「深部の魔物が群れて外へ出た。街に届く前に討つ。それが辺境の戦だ。親父が精鋭を率いて出て、あの人も、槍を取った。客分だ。戦う義理はなかった。だが聞かなかったそうだ。――戦いには勝った。あの人は生きて、自分の足で歩いて、帰ってきた。傷は左腕にひと筋。浅い、掠り傷だった」


 リディアの背筋を冷たいものが降りた。


 掠り傷。その言葉の不吉さを、この屋敷の医務室で帳面をつけてきた自分はもう知っている。


「その夜から、熱が出た」


「ここから先は私が」セバスティアンが革の包みの上に、白い手袋の手を重ねた。「……私が枕元におりましたゆえ」


 老執事は包みの紐を解かなかった。解かないまま、話した。


「傷は翌日には塞がっておりました。ですが熱は下がらず、三日目に、傷のまわりが灰の色に変わりました。王都から取り寄せた薬も、この地の薬草も、効きませんでした。医師は匙を投げ、それでもルシアン様は十三日、戦われました。……私はその十三日をこの帳面にすべて書き留めております。熱の刻限、痣の順、譫言の一言まで。いつか、あの毒の正体が分かる日が来た時のために。――その日はまだ、来ておりません」


 毒。


 薬の、効かない毒。リディアの帳簿が意味もなく数字を並べ始めた。十三日。三日目に灰色。効いた薬、なし。並べても、どこにも繋がらない数字だった。ただ、書き留めずにいられなかった者の気持ちだけが痛いほど分かった。数えることしかできない夜がこの世にはあるのだ。


「意識の晴れ間に」セバスティアンは続けた。「ルシアン様は先代様の手を取って、こう仰いました。『娘たちを頼む』と。それから――『いつか、娘たちをこの地へ。あの家から、出してやってくれ』と」


 エミリアの喉から、小さな音が漏れた。


「最後の晩は譫言ばかりでございました。ですがその譫言の底で、あの方は幾度も、お二つの名を呼んでおられました。リディア様。それから、エミリア様、と」


「……わたしの……?」


 エミリアの声が割れた。


「わたしの名前も……? だって、わたし、会ったことも、ないのに……七日目の、一度きりなのに……」


「ございました」セバスティアンは深く、深く、頭を下げた。「お会いになったことのない妹君のお名前をあの方は最後の夜、確かに呼んでおられました。……この耳で、聞きましてございます」


 妹が泣いた。


 声を上げて、泣いた。灰鷹館の、押し殺した嗚咽ではなかった。屋敷に来た夜の、堪えて絞り出す泣き方でもなかった。子供が泣くように、顔をくしゃくしゃにして、しゃくり上げて、妹は生まれて初めて、誰にも遠慮のない声で泣いた。抱えていた花束を、雪を払われた墓石の前に、両手で、置いた。


「お父様……っ」


 呼んだことのない呼び名が白い息になって、丘の空へ昇っていった。


 リディアは泣けなかった。


 妹の背中に手を置いて、さすりながら、リディアは自分の目が乾いていることをどこか遠くから確かめていた。悲しくないのではなかった。胸の中では何かが軋んで、めりめりと音を立てているのに、水位だけが上がってこなかった。代わりに動くのはいつも通り、帳簿だった。十五年前に父が死んだ。十年前に母が死んだ。迎えに来るはずだった人は迎えに来られなかったのではなく、来る足を雪のこの丘で、止められていた。数字と数字が噛み合っていく。噛み合うたび、過去の意味が書き換わっていく。


 腕の中の花束が重かった。


 妹の花はもう墓前にある。自分の花だけがまだ、腕の中にあった。置けばいいだけだった。二歩進んで、屈んで、置く。それだけのことができなかった。この石を「父」と呼ぶための帳尻がまだ、どこかで合っていなかった。十八年間「罪の子」として払い続けてきた利子の、元金が今、目の前で書き換えられて――それなら私の十八年は何だったのか。誰に、何を請求すればいいのか。


 俯いたリディアの視界の端で、黒い長靴の先が雪を踏んだ。


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