第33話 望まれて生まれた子
「リディア」
名前だった。
お前、でも、おい、でもなかった。低い声が雪の丘の上で、名前だけを置いた。呼ばれ慣れないものを呼ばれた耳が一拍遅れて持ち主に届けてくる。リディアは顔を上げた。逆光の中に、いつもの怖い顔があった。
「三か月半前、お前は俺に訊いた。なぜ、私なのですか、と」
「……はい」
「いずれ話す、と答えた。今日がそのいずれだ」
レオンハルトは墓石の隣に立った。並んで立つと、生きている男と灰色の石がまるで旧知のように見えた。
「親父は六年前に死んだ。戦で殿を務めて、部下を全員生かして、死んだ。……誇り高い、辺境伯だった。その親父が死ぬ前に、俺に遺したものが二つある。一つはこの街だ。もう一つが――遺言だ」
彼は一度、言葉を探した。探して、諦めたらしかった。探した言葉ではなく、覚えている言葉をそのまま置いた。
「『お前が年頃になり、あの娘が嫁げる歳になったら、グレイヴァルド家の、姉の方の娘に縁談を申し込め』。……一言一句、この通りだ。俺が理由を訊くと、親父はこう言った。『あれは義務ではない。友との、約束だ』」
風の音だけがしばらく丘を占めた。
「姉の方の娘、というのが」リディアは自分の声が震えないように、ゆっくりと言った。「……私、ですか」
「そうだ」
「なぜ、姉の方、なのですか」
「あの人の願いは『娘たちをこの地へ』だった。だが二人まとめて縁づける訳にはいかん。ならば、まず姉だと、親父は決めた。理由も、聞いている」レオンハルトの目がわずかに和らいだ。それは笑いの一歩手前の、この男にしては上出来の表情だった。「『あの髪掴みの姉が来れば、妹を置いては来ん。必ず、引きずってでも連れてくる。あれはそういう子だ』と――ルシアン殿が二歳のお前を見て、そう言ったそうだ」
息が止まった。
二歳の自分が十八歳の自分の行動を言い当てられていた。三日かけて好物の頁を書き、十日の雪道を行き、あの家の敷居を跨いで、妹を引きずるように連れてきた。全部、この石の下の人の、手のひらの上だった。会ったことも――覚えてもいない人の。
「……信じられません」
口をついて出たのはその一語だった。レオンハルトは頷いた。
「だから、言わなかった」
「…………」
「最初の夜に、これを全部話して、お前は信じたか。亡き父同士の約束だ、お前は望まれてここへ来た、と。……あの日のお前が信じたか」
リディアは答えようとして、できなかった。
答えは分かりきっていた。信じるはずがなかった。あの夜の自分は皿の湯気にすら裏を疑った。死んだ父の約束などという、確かめようのない、美しすぎる理由を出されたら、三通りどころか十通りの裏を勘定して、全部を「私を懐柔するための作り話」の欄に付けたはずだった。
「腹が減ってると、人の話は余計に信じられんものだ」レオンハルトは言った。「……あの頃のお前は腹が減っていた。飯のことじゃない。だから、待った。それだけだ」
それだけだ、で済む話ではなかった。
この男は三か月半、疑り深い小娘に嘘つきと思われたまま、弁明ひとつせずに待ったのだ。毛布を置き、軟膏の在処を告げ、街を歩かせ、妹を迎えに雪道を十日行き――信じられるだけの重さが天秤の皿に積み上がるのを黙って待った。人を待つのだけは異様に上手い男だった。
「エミリア」
レオンハルトは泣き腫らした顔で立ち尽くしている妹の方へ、向き直った。それから、姉妹の両方が視界に入る位置まで下がって、言った。
「お前たちの生まれには、侯爵家の書類の上でどう書かれていようと、ここに真実がある。ルシアン・ベルフォードは最後の息まで、お前たちの名を呼んだ。親父は友の願いを六年抱えて死に、俺に引き継がせた。……つまり、だ」
言葉が渋滞した。
この男の渋滞をリディアはもう何度も見てきた。だが今日のそれはいつもより長く、いつもより深かった。眉間の皺が言葉を選び直すたびに深くなり、やがて、諦めたように、まっすぐになった。
「――あの男はお前たちを愛していた」
雪の丘の上で、その言葉は白い息の形になった。
「望まれて生まれて、望まれて、ここにいる。……それを言うために、今日、連れてきた。以上だ」
以上だ、と言った口が本当にそれきり閉じた。説明の足りない男の、精一杯の長さだった。エミリアがまた新しく泣き出した。今度の涙はさっきまでの涙と、流れる場所の温度が違って見えた。
リディアの腕の中で、花束がふ、と軽くなった。
重さは変わっていないはずだった。ただ、置く場所がようやく分かったのだった。
◇
リディアは墓石の前に進み出た。
膝を折り、妹の花の隣に、自分の花を置く。それから立ち上がり、一歩下がって、両手を前に重ねた。
背筋を伸ばす。顎を引く。指先を揃える。腰から、深く。
母の作法書、第一章、目上の方への初めてのご挨拶。擦り切れた表紙の、一番最初の頁。八つの歳から千回は繰り返した、自分の礼の中で一番古い礼を、リディアは雪の丘の墓石に、捧げた。
「……はじめまして」
声は思ったより、まっすぐに出た。
「リディアです。……妹の、エミリアを連れて参りました。遅くなりました。あなたの願いはそこの説明の足りない方が全部、叶えてくださっています。ですから――」
ですから、の続きは出てこなかった。
帳簿にない言葉だったからだ。請求でも、返済でも、利子の計算でもない言葉はリディアの帳面のどの欄にも、書式がなかった。乾いたままの目の奥が初めて、鈍く熱を持った。熱は水位にはならなかった。ならなかったが確かに、あった。
隣で、エミリアが見よう見まねの礼をした。
角度も、指の位置も、覚えたてのクラリスの稽古のままの、危なっかしい礼だった。妹は泣きながら頭を下げて、泣きながら、言った。
「は、はじめまして、エミリアです……っ、あの、私、元気です……熱も、もう、出してません……っ」
それは挨拶として、どこからどこまでも間違っていて、そして、どこも間違っていなかった。
◇
帰りのソリの中で、エミリアはリディアの肩にもたれて眠った。
泣き疲れた子供の、あっけない落ち方だった。毛布を掛け直してやると、妹は眠りの中で、何かをむにゃりと言った。聞き取れたのは「おとうさま」と「くり」だけだった。夢の中の父に、焼き栗を食べさせているのかもしれなかった。良い夢だ、と思った。
丘が後ろへ遠ざかっていく。
リディアは振り返って、それを見ていた。雪の斜面の、あの一角。ここからはもう、どの石かも分からない。それでも、目が離せなかった。今朝までのリディアにとって、あの丘はただの雪景色だった。今は違う。この街の地図に、私のための場所がまた一つ増えた。
――花ってのは死んだやつのためのもんじゃねえぞ。
庭師の声が耳の奥で蘇った。その通りだった。腕の中から花が消えて、代わりに、同じ重さのものが胸の内側に移っていた。これは当分、下ろせそうにない。下ろす気にも、なれそうになかった。
前のソリで、黒い外套の背中が雪の街道を先導していた。
売られたのだと、思っていた。
王都を発つ日、馬車の中で、リディアは確かにそう勘定した。厄介者が体のいい形で処分された。行き先は魔境。差出人は侯爵家。受取人は顔も知らない怖い辺境伯。あの日の帳簿にはそう書いた。
書き直さなければ、ならなかった。
私は売られたのではなかった。十五年前にこの雪の丘で止まった足の続きを、六年前に死んだ人が引き継いで、その息子が雪道の果てまで迎えに来たのだ。縁談という書式で。そっけない通告という文面で。誰にも、私自身にすら、事情を明かさないまま。
望まれて生まれて、望まれて、ここにいる。
帳簿の一番古い頁の、一番大きな赤字が音もなく消えていく。消えた跡をリディアはしばらく、呆然と眺めていた。十八年分の利子ごと消えたその欄の空白は晴れやかというより、まだ、ただ広かった。広すぎて、風が通った。空白に何を書き込めばいいのか、リディアはまだ、知らなかった。




