第34話 火の前の大きな影
屋敷はその夜も騒がしかった。
ただし、いつもより二割ほど音量を落とした騒がしさだった。玄関で出迎えたミレイユは姉妹の顔を見るなり何かを察して、質問の代わりに「お風呂! 沸いてます!」とだけ言った。ノエルは黙って湯たんぽを二つ余分に仕込み、クラリスは夕食の席順をさりげなく暖炉に近い側へ変えた。カイは「おかえり」とだけ言って、それ以上は何も訊かずに、厨房から焼き林檎を勝手に運んできた。
誰も、何も訊かなかった。
誰も訊かないのに、屋敷全体が帰ってきた姉妹を毛布でくるむように動いていた。この家の連中は、と思う。説明もないくせに、察しだけは恐ろしくいいのだ。
夕食の後、エミリアは蜂蜜入りの山羊の乳を両手で包んで、ぽつりと言った。
「ねえ、お姉様」
「なんですか」
「私たち……望まれて、生まれたのね」
妹の言い方はあっけないほど、素直だった。
「うれしい。……私、ずっと、生まれてきてごめんなさい、って思ってたから。誰にも言われてないのに、そう思うのが癖になってたから。でも、もう、やめられる。だって、お父様が――」そこで妹はこくんと乳を飲んで、湯気の中で笑った。「呼んでくれてたんだもの。名前」
やめられる。
そうか、この子はやめられるのか。
リディアは妹の寝室まで付き添い、いつものように髪を編んだ。エミリアは編み終わる前に眠りに落ちた。寝息は深く、咳はなく、扉の鍵は確かめられもしなかった。素直に受け取って、素直に泣いて、素直に眠る。それが正しい。妹は正しく受け取ったのだ。今日、丘の上で渡されたものを。
自分の部屋に戻って、リディアは寝台に入り――一刻ののち、諦めて、起き上がった。
眠れなかった。
起き上がった拍子に、昼間の丘の言葉が脈絡もなく頭の中で並び直した。亡き父同士の約束。二歳の値踏み。髪掴みの姉が来れば、妹を引きずってでも連れてくる。――理由は美しかった。美しくて、隙がなくて、どこにも文句のつけようがなかった。望まれて生まれて、望まれてここにいる。これ以上、何を望めというのか。
なのに、その完璧な理由の隅に、リディアは小さな染みを見つけてしまった。
染みはこう言っていた。ではあの人自身は。
毛布を置いたのも。あかぎれの軟膏の在処をそっけなく教えたのも。街を歩かせ、闘技場に連れて行き、妹を迎えに雪道を十日行ったのも。全部、約束だった。六年前に死んだ父の遺言と、そのまた向こうの、父同士の約束。あの人がリディアという人間を見て選んだのではなかった。選ぶも何も、リディアが二歳で人の髪を掴んでいた頃にはもう決まっていたのだ。あの人がまだ、リディアの顔も、名も、知らなかった頃に。
いつから、と思う。いつから自分はそうでない可能性を勘定に入れていたのだろう。
――この人はこんな態度だけれど。猫にも懐かれない、ろくに喋らないこの人だけれど。ひょっとしたら、万に一つ、私という人間をどこかで見初めて。それで、縁談を。
言葉にして、初めて分かった。書いた覚えもない一行が帳簿の見えない裏頁に、確かに自分の筆跡で、こっそり書きつけてあったのだ。そして今日、丘の上で、その一行に、朱で大きな×がついた。誤記。事実に非ず。
落胆、という二文字が浮かんで、リディアは寝台の上で固まった。
落胆? 私が? ――話が合わない。
この縁談をリディアは望んでいなかった。売られたのだと思っていた。処分されたのだと、王都を発つ馬車で勘定した。その理由が思っていたより百倍も温かかった。喜ぶべき事実のはずだった。現に、父のことは嬉しかったのだ。それなのに、その温かい理由の、ただ一点――「あの人が私自身を選んだのではない」という一点にだけ、なぜ、胸の裏側がこんなに冷えるのか。
検算をしようとして、できなかった。この落胆が成り立つには前提が要る。あの人に選ばれたい、という前提が。そんな前提を自分がいつ立てたのか、リディアにはまるで身に覚えがなかった。覚えがないのに、答えだけが先に出ている。帳簿の係にあるまじき、順序の壊れた計算だった。
――分からない。
分からないものをリディアは裏頁ごと、そっと伏せた。今夜のところは伏せるしかなかった。
目を閉じると、雪の丘が浮かんだ。灰色の石と、友、ここに眠るの一行と、置いてきた白い花。そこまではよかった。その先に、決まって、別の顔が浮かんだ。淡い金の髪の、儚げな人。夜に髪を梳いてくれた手。小さな菓子を割って、多い方をくれた指。そして、洗濯場の陰の囁き。奥様の、罪の子。
お母様。
あなたは何を思って、あの館で――
リディアは肩掛けを羽織って、部屋を出た。水でも飲んでこよう、というのは口実で、本当はあの広すぎる空白をひとりで抱えていたくなかっただけだった。夜の廊下は静かで、遠くの厨房の物音も、今夜はもう絶えていた。
階段を下りた先、広間の暖炉に、火が残っていた。
火の前に、大きな影が一つ。




