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第35話 氷の溶ける夜

 レオンハルトだった。


 長椅子に浅く腰掛けて、火を見ていた。卓の上には杯が一つ。羽織っただけの上着に、解いた襟元。眠れないのはこちらだけではなかったらしかった。


「……申し訳ありません。お邪魔を」


 踵を返しかけたリディアに、低い声が届いた。


「火なら、ある」


 こっちへ来て当たれ、という意味に翻訳できるようになったのはいつからだったろう。リディアは少し迷って、暖炉を挟んだ向かいの椅子に腰を下ろした。火が爆ぜて、橙色の影が二人の間で揺れた。


 沈黙が続いた。


 気詰まりな沈黙ではなかった。この男の沈黙の九割はただの沈黙である。それでも先に口を開いたのは意外なことに、向こうだった。


「……猫はまだ懐かん」


「…………は?」


「厩の猫だ。今日も引っかかれた」


 リディアはまじまじと辺境伯の顔を見た。怖い顔は大真面目だった。大真面目に、これは世間話というものを試みているのだった。眠れない夜の娘を前に、話題の棚を上から下まで探して、選ばれたのが厩の猫。リディアは俯いて、口元を押さえた。肩が少し震えた。今日一日で凍りついていた何かの表面がこの男の絶望的な話題選びで、ひび割れた。


「……明朝、申告してください。記録します」


「ああ」


「餌はあなたが直接おやりなさい。餌の出どころが分からないうちは、猫は手を貸金庫だと思っています」


「……貸金庫」


「警戒する、ということです」


 我ながら、猫の説明に自分の十八年を使ってしまった。レオンハルトは何か言いかけて、やめて、杯に口をつけた。分かったのか分からなかったのか、分からない顔だった。たぶん、分かったのだと思う。この男はそういうところだけ、妙に察しがいい。


 火がまた爆ぜた。


「今日は」と、リディアは言った。言ってから、続きを探した。「……ありがとうございました。あの丘に、連れて行ってくださって。妹に、あの話を聞かせてくださって」


「ああ」


「エミリアは眠りました。泣いて、笑って、望まれて生まれたのねと言って、眠りました。あの子は……受け取るのが上手になりました。この屋敷に来てから、毎日、少しずつ」


「お前は」


 短い問いがまっすぐに来た。


 お前は受け取れたのか。眠れずに、夜中の広間まで下りてきたお前は。――たった一言の問いに、それだけの意味が入っていることをリディアはもう知っていた。知っていて、いつもなら、鎧の内側で受け流す。平気です、と。係ですので、と。


 今夜は鎧の継ぎ目が緩んでいた。


「……分からないのです」


 声が勝手に出た。


「父のことは受け取りました。望まれて生まれた。あの方が最後まで名前を呼んでくださった。それは胸に、確かに。……ですが閣下。私、丘を下りてからずっと、父ではなく、母のことばかり、考えているのです」


 レオンハルトは何も言わなかった。急かさず、遮らず、火に薪を一本足して、続きの席を空けた。


「母は……優しい人でした。覚えているのです、まだ。夜に、髪を梳いてくれた手を。菓子を割って、いつも大きい方をくれた指を。眠れない夜に、歌の代わりに、ぽんぽんと背中を叩いてくれた、あの拍子を。妹の三つ編みは私が母から覚えたのです。母が死んで、あの手の仕事が全部、私に回ってきて……回ってきたから、忘れずに済んだようなものです」


 言葉は一度流れ出すと、止まらなかった。十八年、栓をしてきた樽だった。


「けれど、洗濯場の陰で、女中たちは言いました。奥様の罪の子、と。館の廊下でも、台所でも、みんなが言いました。声をひそめて、でも、聞こえるように。私は八つでした。八つの子供は算術を習いたてです。習いたての頭で、私は勘定したのです。母様が罪を犯した。だから私たちは憎まれる。憎まれるのは当然の支払いだ、と。……その勘定を私は今日まで、一度も検算しませんでした。前提を疑うことすら、しませんでした。だって、疑ったら」


 息が詰まった。


「疑ったら、母を責めることになる。母様は悪くないと言えば、では誰が悪いのかと、世間が訊いてくる。夫のある身で、と。書式の上では世間が正しいのです。今日、丘であの話を聞いて、それでも、書式の上では。引き裂かれようと、何があろうと、母は――母は罪を」


 言えなかった。


 罪を犯した、という言葉が口の中で崩れた。崩れた欠片を呑み込んで、リディアは一番底にあった問いをそのまま取り出した。取り出したそれは問いというより、ただの弱音の形をしていた。


「……閣下。母は悪い人だったのでしょうか」


 火の爆ぜる音が二つ、三つ。


「私には分からないのです。世間の帳簿では母は罪人です。でも私の帳簿では母は髪を梳いてくれた手なのです。どちらかを選ばなければいけないなら、私は……私はそれでも、母を嫌いになれないんです。十八年、罪の子と呼ばれて、母のせいでと思う夜が一度もなかったとは言いません。それでも、嫌いになれない。なれたことがないのです。おかしいでしょうか。私は母の共犯なのでしょうか」


 言い終えて、リディアは俯いた。


 膝の上で、自分の手が固く組まれていた。あかぎれの治りかけた、家事の手。母の手の仕事を引き継いだ手。この手の出どころも、あの人だった。


 レオンハルトはすぐには答えなかった。


 いつもの渋滞だった。だがリディアはもう知っていた。この渋滞は軽い言葉が先に出ようとするのをせき止めている渋滞なのだ。やがて、選び終えた言葉が低く、順番に置かれた。


「悪い人だったかどうかは俺には分からん」


 正直な男だった。慰めの世間話なら猫を出す癖に、こういう時だけは一寸も嘘の混じらない言葉から始めるのだった。


「会ったことがない。世間の書式にも、興味がない。俺が知っているのは二つだけだ」


 猛禽の目が火からこちらへ、まっすぐに動いた。


「あの丘の男が命を懸けた女だ。……それが一つ。もう一つはその人が育てた娘を俺がこの目で見ている。八つから台所に立って、妹に飯を作って、髪を編んで、背中を叩いて――お前が母から覚えたと言った手の仕事を俺はこの屋敷で、三か月半、見てきた。いい母親だったかどうかなら、俺が知っている。お前と、妹を見れば分かる」


 リディアの喉の奥で、何かが音を立てた。


「嫌いになる必要はない」


 レオンハルトは言った。


「罪の勘定があるなら、それは当人と、当人を引き裂いた連中のものだ。娘のお前が肩代わりする借りじゃない。八つの子供の算術は間違っていた。……検算なら、今、終わった。俺が立ち会った。それでいい」


「……ですが」


「リディア」


 名前が置かれた。


「お前が母を愛しているなら、それでいい。それだけは誰の書式でも、罪と呼ばない」


 水位が上がった。


 前触れはなかった。堤も、なかった。十八年かけて組み上げた鎧の継ぎ目という継ぎ目から、熱いものが一斉にあふれた。リディアは俯いた。俯いた膝の上に、ぽた、ぽた、と音がして、それが自分の涙の音だと理解するのに、数拍かかった。泣き方を忘れていたのではなかった。習ったことがなかったのだ。八つで算術を覚えた子供は泣く手順を覚える前に、泣いても誰も来ない館で、泣く科目ごと帳簿から消したのだった。


「……っ、」


 声を殺そうとして、失敗した。


 嗚咽が漏れた。子供のような、しゃくり上げる音だった。今日、丘の上で妹が上げていた音と、同じ音だった。恥ずかしい、と思う頭の隅を涙が構わず流していく。母様。お母様。髪を梳いてくれた手。私、あの手が好きでした。罪の子と呼ばれても、好きでした。好きなままで、いいのですか。いいと、言われてしまったのです。こんな、説明の足りない、猫にも懐かれない人に、たったひと言で。


 レオンハルトは泣くな、とは言わなかった。


 いつか、手負いで運び込まれ、寝台で目を覚ましたこの男は「泣くな」と言い、リディアは「泣いていません!」と怒鳴った。あの応酬を覚えていたのかどうか。彼は今夜、何も言わなかった。代わりに立ち上がり、暖炉に薪を二本、続けてくべた。火が勢いを増して、大きく爆ぜた。爆ぜる音が嗚咽を覆った。それから彼は元の椅子に座り直し、火を見た。見張りのように、ただ、そこにいた。


 それがこの男の、手巾の差し出し方だった。


 リディアは泣いた。


 火の音に守られて、誰にも聞かれない音量で、長いこと、泣いた。胸の奥で、古い氷がひとつ、水になっていく音がした。全部ではない。氷はまだいくつも残っている。それでも、一番古くて、一番固かったやつが確かに、溶けた。


   ◇


 泣き止んだ頃には薪が一本、燃え尽きていた。


「……お見苦しいところを」


「見ていない」


 即答だった。火しか見ていなかった、という顔で、実際、この男はたぶん本当に、火しか見ていなかったのだと思う。リディアは濡れた目元を指の背で押さえて、それから、係の顔を作った。作り損ねて、半分だけの係の顔で、言った。


「今夜のことは……記録に、残しませんので」


「そうしろ」


「猫の件だけ、明朝、承ります」


「ああ」


 立ち上がり、一礼して、階段へ向かう。三段目に足をかけたところで、背中に、声が届いた。


「リディア」


 振り返ると、レオンハルトは火の方を向いたままだった。こちらを見ずに、言葉の渋滞を一つ越えて、彼は言った。


「……いい夢を見ろ。今夜は見られるはずだ」


   ◇


 見られた。


 髪を梳く手の夢だった。目が覚めた時、枕は少し湿っていて、窓の外は快晴で、階下からはミレイユの笑い声と、鍋の音と、遠くで猫に引っかかれたらしい低い呻きが聞こえた。


 朝食の席で、エミリアが姉の顔をじっと見た。


「お姉様……目、腫れてる」


「雪目です。昨日の丘は照り返しがきつかったので」


「ふうん……」


 妹は匙を置いて、少しだけ笑った。何もかも分かっている顔だった。分かった上で、それ以上は何も訊かずに、山羊の乳に口をつけた。


 この妹は昔から、姉の嘘にだけは寛大なのだ。


 十年、煮込みの嘘を守ってくれた前科がある。雪目の嘘くらい、朝食の間、守りおおせてくれるだろう。リディアは自分の皿に向き直り、湯気の向こうの、いつも通りの騒がしい食卓を眺めた。


 帳簿の一番古い頁は昨日、書き換えられた。


 空いた欄に何を書くかはまだ決めていない。決めていないが急ぐこともないのだった。検算は終わった。立会人も、いた。ならば残りの頁はこれから、ゆっくり埋めていけばいい。――望まれて生まれた子の、望まれている日々で。


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