第36話 王都からの毒
「申告する」
朝の医務室に、いつもの声が届いた。
「本日、猫が膝に乗った」
リディアは帳面から顔を上げた。フォートセバーン辺境伯はいつもの怖い顔で戸口に立っていた。差し出された両手には今日は、目立つ傷がなかった。
「……乗った、のですか」
「三十秒ほどだ。それから思い出したように引っかいて、逃げた」
「左手甲、引っ掻き傷、一。浅い。処置、不要」ペンを走らせながら、リディアは頬が緩みそうになるのを職務の顔で抑えた。「ですが進展です。餌の出どころがようやく信用されたのでしょう」
「貸金庫を出た、ということか」
「小口の取引先くらいにはなったかと」
レオンハルトは頷いて出ていった。三十秒の着座を律儀に申告しに来る辺境伯と、それを帳面につける係。この朝の儀式が屋敷の見物客の間で何と呼ばれているか――「旦那様の定期報告」――をリディアはまだ知らずにいた。
冬は深く、屋敷は平和だった。
毒が届いたのはその平和のただ中だった。
◇
執務室に呼ばれたのは昼過ぎのことである。
部屋にはレオンハルトとセバスティアンがいた。机の上に、開封済みの手紙が数通、几帳面に並べてあった。封蝋の色も紋章も、ばらばらだった。共通しているのはどれも王都からの便りだということだけ。
「リディア様にも、お耳に入れておくべきかと存じまして」
セバスティアンはいつもの最上級の丁寧語で、いつも通り容赦なく本題に入った。
「王都の社交界に、この冬、新しい噂が流れております。出所は複数、しかし水源はおそらく一つ。……お聞きになりますか」
「聞きます」
即答だった。悪評の類なら、灰鷹館で十年、浴びて育った。今さら濡れる肌ではない。
「では要点のみ。一つ――グレイヴァルドの三女は家格を笠に着て辺境伯に取り入り、まんまと婚約の座に収まった。二つ――四女もまた、あの母親の血を引いている。姉妹まとめて、いずれ館に災いを呼ぶ。三つ――アッシュフォード家は侯爵家の醜聞を種に、王都の政治に食い込もうとしている。四つ――辺境伯は娘を人質に、侯爵家へ圧力をかけている。……以上でございます」
部屋が静かになった。
リディアは自分でも意外なほど、落ち着いて聞き終えた。一つ目は聞き慣れた種類の毒だった。四つ目は笑ってしまうほど的外れだった。取り入ったのはどちらかと言えば猫の方であり、圧力をかけられたのは灰鷹館の応接間で四半刻待たされたこちらである。
だが二つ目だけは聞いた瞬間、胃の底が冷えた。
エミリアも、母親の血を。
「……妹まで、ですか」
「妹君まで、でございます」セバスティアンの声は変わらなかった。変わらないまま、眼鏡の奥の目だけが冷えていた。「毒の調合として、正確でございます。リディア様お一人を狙うなら、ここまで王都で流す必要はございません。狙いはお二人の背後の――」
「灰鷹館へ、姉妹を戻す下地作り」
リディアが引き取ると、老執事は深く一礼した。合格、という意味の礼だった。
悪評そのものは刃ではない。刃を抜くための、鞘払いだ。「あの姉妹は災いの種」という空気が王都に満ちれば、次の一手――エミリアを取り戻すどんな強引な手も、「当然の措置」の顔をして通るようになる。あの男のやり方だった。粘つく目の男は自分の手を汚す前に、まず世間の手を汚すのだ。
リディアは持参した帳面を開いた。
医務の帳面ではない。新しく下ろした、白い帳面だった。頁の頭に日付を書き、その下に、今聞いた四つの噂を一言一句、書き留めていく。出所不明、経路は夜会と茶会、実害は現状なし。ペン先は震えなかった。
「……何をしている」
レオンハルトが机の向こうから訊いた。
「傷を数えています」リディアは顔を上げずに答えた。「悪評も、傷のうちです。いつ、誰がどこで、何を言ったか。数えた数は記録に残ります。――残った記録はいつか、刃の出どころを刺しに戻ります」
顔を上げると、レオンハルトとセバスティアンが目を見交わしていた。
「旦那様。今のは係のお言葉として記録なさいませ」
「ああ。……頼もしいことだ」
◇
先触れの書状は三日後に届いた。
差出人はバルテル伯爵夫人。侯爵家の縁戚筋にあたる、王都社交界の顔役の一人である。文面は完璧な礼儀で織られていた。曰く――辺境伯様のご婚約を王都の皆様がそれは楽しみにしておられますこと。曰く――婚礼を前に、未来の辺境伯夫人にひと目ご挨拶をと、有志の奥様方お嬢様方で参上いたしたく。曰く――道中の無聊を慰めるため、リディア様の義理の兄君にあたられるファビアン様もご同道くださいますこと。
「……というわけで、来ます。夫人がお一人、令嬢が三人。それから」
夕食の席で読み上げたリディアは最後の一行で、少しだけ声の温度を落とした。
「ファビアン様が」
がしゃん、と音がした。
エミリアの手から、匙が皿に落ちた音だった。
妹は青ざめていた。青ざめて、無意識に、隣のリディアの袖を掴んでいた。ひと月半、出番のなかった仕草だった。ファビアン。屋敷の中で、笑顔のまま刺す男。エミリアは兄二人の中でも、この次男が一番、駄目だった。冷たく見下すアルノルトより、笑って近づいてくるファビアンの方が妹の肩を震わせた。
食堂の空気が一拍で変わった。
「……はあ!? 何それ、喧嘩売りに来んの!?」
口火を切ったのはミレイユだった。
「ご挨拶う? 王都からわざわざ十日かけて、雪の魔境に、嫌味を言いにい? 暇なの!? 貴族って暇なの!?」
「ミレイユ。半分は正解ですが声が大きいです」クラリスが静かに言った。静かだったが置いた茶器の音が常より固かった。「これは物見遊山ではありません。検分です。リディア様が辺境伯夫人に値しない、という証拠を王都へ持ち帰るための」
「うわあ、性格わるぅ……」
「潰しに行こうぜ」カイが林檎を齧りながら、ごく日常の声で言った。「途中の街道でソリが壊れりゃ、王都に帰るしかねえだろ。俺、ソリの壊し方なら詳しいぜ」
「カイ」
「冗談だって。……半分は」
「およしなさいませ」セバスティアンが穏やかに言った。「ソリを壊しても、悪評は壊れません。むしろ肥えます。――この種の客は追い返してはならないのでございます。丁重に迎え、丁重にもてなし、丁重に、手ぶらでお帰りいただく。それが唯一の勝ち筋でございます」
「手ぶらって?」
「持ち帰らせる土産を一つも渡さないことでございます。無作法の証拠も、怯えた顔も、取り乱した言葉尻も。……なにひとつ」
老執事はそこで一同を見回した。
「よろしいですか、皆様。当日、この屋敷は完璧に回ります。茶は熱く、菓子は焼きたて、廊下に塵ひとつなく、給仕は一分の隙もなく。王都の流儀で来る客には王都の流儀の完璧さで応じます。……先代の代から、この屋敷が外へ見せてきた顔でございます。腕が鳴りますな」
「飯で黙らせる」と、厨房の方向から料理長の声がした。話は聞こえていたらしい。「王都のやつらの舌が忘れられなくなるようなやつを出してやる。悪口言った口で二杯おかわりさせてやる」
リディアは食卓を見回した。
怒っている顔、笑っている顔、腕まくりをしている顔。誰一人、怯えていなかった。悪評とは浴びる者を孤立させるための毒である。灰鷹館では効いた。あの家でリディアは一人だったからだ。だがこの食卓で、あの毒がどこに効くというのだろう。




