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第37話 客人来たる

 その夜、寝支度の部屋に、エミリアが枕を抱えてやってきた。


「……今夜だけ」


「どうぞ」


 寝台に並んで、髪を編んだ。妹はずっと黙っていた。編み終わって、灯りを落としてからも、寝息は聞こえてこなかった。長いこと経って、暗がりの中で、小さな声がした。


「……お姉様。ファビアンお兄様が来たら……私、部屋にいた方がいい……?」


 リディアは答える前に、一度、言葉を選んだ。


 部屋にいなさい、と言うのは簡単だった。あの男の笑顔から妹を隔離するのが姉の仕事の定石だった。十八年、そうやってきた。盾になり、壁になり、妹を戸棚の陰に隠して、毒は全部、姉の皿で受ける。


 だが暗がりの向こうの声は続きを持っていた。


「隠れてた方がいいのは分かってるの。あの方の前に出ると、私、まだ、肩が勝手に……でもね、お姉様。私、考えたの。隠れたら、あの方はきっと、王都に帰って言うわ。『妹の方は顔も出せなかった』って。それって……それって、お姉様の悪口の、材料になる」


「エミリア。あなたはそんなことを心配しなくて――」


「するの」


 声は震えていた。震えたまま、引かなかった。


「心配、するの。だって私、もう、守られてるだけの子じゃ、いたくないんだもの。……七日目に一度だけ抱っこしてくれたお父様に、元気ですって言ったもの。熱ももう出してませんって、言ったもの。だから」


 毛布の中で、妹の手がリディアの手を探し当てた。いつもと逆だった。いつもはリディアが探す側だった。


「だから、私、ご挨拶に出ます。……震えてても、いい?」


 リディアは暗がりの中で目を閉じた。


 瞼の裏に、雪の丘が見えた。友、ここに眠る、の一行と、その前に並んだ二束の白い花。握ったものを離さん子になる、と言われた姉と、火のように熱かった、と抱かれた妹。どちらも、望まれて生まれた子だった。


「いいのです」


 握られた手を握り返す。


「震えるのは無作法ではありません。姉さんが保証します。……それに」


「それに?」


「あなたが震えていたら、この屋敷の連中が黙っていません。給仕の茶がその方の膝の上でだけ、妙に熱いかもしれません」


「ふ、ふふ……だめよ、お姉様、それ……」


「冗談です。半分は」


 カイの言い回しがうつっている、と自分で気づいたのは妹の寝息が聞こえてきた後だった。窓の外では雪がまた降り始めていた。十日後、あの雪道を王都の毒がソリに乗ってやってくる。


 来させればいい。


 リディアは目を閉じた。この家の冬は長い。長い分だけ、支度の時間はたっぷりあった。


   ◇


 十日後の朝、アッシュフォード邸は静まり返っていた。


 静かであること自体がこの屋敷では異常事態である。廊下には塵ひとつなく、銀器は鏡のように磨き上げられ、応接の間には薪が完璧な火加減で組まれていた。厨房からは焼き菓子の匂いが軍旗のように立ちのぼり、その厨房の入口には「決戦」と書かれた札が――誰の仕業か――下がっていた。


「動かないで、リディア様! 襟が、襟がずれます!」


「ミレイユ。あなたの手の方が震えています」


「震えてませんー! 武者震いですー!」


 姿見の中には見慣れない女が立っていた。深い青の昼衣装に、結い上げた銀灰の髪。クラリスが三日かけて仕立て直した衣装は王都の流行から半歩だけ引いた、辺境伯家の格に寸分違わぬ品だった。飾り立てるのではなく、削ぎ落とす方向で整えられた装いである。リディアは鏡の中の女を帳簿をつける目で検分した。品目、婚約者。数量、一名。瑕疵――見つけられるものなら、見つけてみればいい。


 扉が開いて、エミリアが入ってきた。


 薄紅の衣装に、クラリス仕込みの姿勢。顔は白かった。白かったが俯いてはいなかった。


「お姉様……へ、変じゃない……?」


「変ではありません。よく似合っています」


「手が冷たいの。ずっと」


「姉さんもです」リディアは妹の手を取って、自分の手に包んだ。「冷たい手同士です。ちょうどいい」


 窓の外、雪の街道の彼方に、ソリの鈴の音が聞こえ始めていた。


   ◇


 バルテル伯爵夫人は五十がらみの、恰幅と貫禄を絹で包んだ婦人だった。


「まあ、まあ、ようこそのお出迎え。長旅の疲れも吹き飛びますこと」


 玄関広間に立った夫人は完璧な微笑で完璧な社交辞令を述べながら、その目だけが扇の上で別の仕事をしていた。柱の艶を検分し、使用人の頭数を数え、出迎えの列の隅々まで値踏みしていく。リディアはその目の動きを知っていた。灰鷹館の客間で、幾度も見た目だった。何かを楽しみに来た目ではない。持ち帰るものを探しに来た目である。


 夫人の後ろには令嬢が三人続いた。孔雀の羽根の扇を持った年嵩の令嬢、その妹らしい真珠の髪飾りの令嬢、そして末席に、旅装の乱れを気にしてばかりいる、一番若い令嬢。


 最後に、ファビアンがソリを降りた。


「やあ。……いい街だね。雪しかないのが実に潔い」


 柔和な笑みは灰鷹館にいた頃と、寸分変わらなかった。エミリアの肩がリディアの半歩後ろで強張るのが見なくても分かった。だが妹は下がらなかった。強張ったまま、その場に立っていた。


「アッシュフォードへ、よく来た」


 出迎えの中央で、レオンハルトが言った。


 いつもの怖い顔に、正装の黒。令嬢たちの間に、さざ波のように怯えが走った。噂の黒狼伯である。夫人だけが微笑を崩さず、深々と礼を執った。


「お噂はかねがね。このたびはご婚約、まことに――」


「ああ。……妻となる人だ」


 短く口上を断ち切って、レオンハルトはリディアを示した。妻となる人。そのひと言に、令嬢たちの視線が一斉にこちらへ突き刺さるのをリディアは背筋で受け止めた。進み出て、腰から、正確に礼をする。


「リディアでございます。遠路はるばる、ようこそお越しくださいました」


「……まあ」


 夫人の扇が口元で止まった。一瞬だけ、値踏みの目が計算をやり直すのが見えた。野暮ったい田舎の成り上がり者、という筋書きの一頁目が早くも書き直しを要求されたらしかった。


「妹の、エミリアでございます」


「エ、エミリアです。……ようこそ、お越しくださいました」


 妹の礼はゆっくりで、少し固くて、そして正確だった。きっかり一刻の稽古を翌日まで全部覚えている覚え方で、エミリアは頭を下げ、震える声を最後まで言い切った。ごめんなさい、は一度も出なかった。


 列の端で、クラリスの目がほんの一分だけ細くなった。この生真面目なメイドの、それが満点の顔だった。


「俺は務めがある。……ゆるりとされよ」


 レオンハルトはそれだけ言うと、本当に行ってしまった。社交の場に一刻も長く居たくないのが背中から知れたが同時にそれはこの戦場を婚約者に預けるという意味でもあった。夫人の目が去っていく黒い背中と、残されたリディアとを見比べて、静かに光った。


 第一ラウンドの開始だった。


 その前哨で、ひとつ、番外の小競り合いがあった。


 応接の間へ客人たちを導く廊下で、行き合ったカイが客人の長持を二つ、軽々と担いで運んでいたのである。客前の彼はセバスティアンの躾どおり口を利かず、会釈だけして壁際に寄った。それだけの、はずだった。だが真珠の髪飾りの令嬢がすれ違いざま、扇の陰で姉の袖を引いた。囁きは聞こえなかったが視線の先は明白だった。孔雀の扇が半分だけ開き、値踏みの目が荷物ではなく運び手の顔の上を一往復した。末席の令嬢までが俯きがちの目で、ちらりとそちらを見た。


 当の本人は何も気づかず、荷を抱え直して、階段の向こうへ消えた。


「……王都の物差しでも通るんですねえ、あの顔」


 背後で、ミレイユが給仕用の小声で囁いた。


「本人に教えたら駄目ですよ。付け上がる――んじゃなくて、混乱するんで」


 リディアは小さく頷いた。値札の読めない男の値段はこういう場では静かに高くつく。胸の帳面の隅にその一行だけ書き足して、彼女は客人たちを応接の間へ促した。


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