第38話 完璧な湯気の茶会
応接の間の茶会は完璧な湯気で始まった。
「それにしても」と、口火を切ったのは孔雀の扇の令嬢だった。「まあ、噂のグレイヴァルドの娘ですのね。王都ではそれはもう、皆様がお噂ですのよ」
「恐れ入ります」リディアは茶器を置いた。「どのような噂かはうかがわないでおきます。長旅でお疲れの方に、語り損な話題ですから」
「……ふふ。ご謙遜」
扇の陰の目は笑っていなかった。夫人が優雅に引き取った。
「よろしいのよ、リディアさん。王都と辺境では何もかも勝手が違いますものね。わたくしたち、案じておりましたのよ。侯爵家でお育ちの方がこのような……その、素朴な土地で、さぞご苦労がおありでしょうと。辺境伯夫人になられるには少うし、野暮ったくおなりではなくて? と、そういう声もございましたの。ですから、こうして直に拝見して、安心いたしたくて」
毒の調合として、上等だった。案じる形の値踏み。安心する形の検分。返答のどこを切り取られても、王都の茶会で使える形に加工できる問いである。リディアは急がなかった。母の作法書、第四章、お茶のお注ぎ方。侯爵家の小間使いが千回繰り返した所作で、夫人の碗に、新しい茶を注ぐ。滴は一滴も跳ねなかった。
「ご心配をいただくほどのことは何も」
碗を置く音まで、作法書の通りだった。
「王都で覚えたことはこの地でも役に立ちます。この地で覚えたことも、じきに王都で役に立つと思っております。……どうぞ。体の温まるうちに」
夫人は碗を取り、口をつけ、一拍、黙った。
その一拍の間に、真珠の髪飾りの令嬢が卓の上の焼き菓子に手を伸ばした。二つ目だった。本人は気づいていないらしかった。給仕に立ったノエルが菓子の皿をおっとりと令嬢の手元へ寄せて、微笑んだ。
「お口に合いませんでしたら、どうぞお残しくださいませねぇ」
「え、ええ……いただくわ。……悪くなくてよ」
三つ目が消えるのをリディアは見なかったことにした。厨房の決戦はどうやら向こうが勝っているらしかった。
「ところで」
孔雀の扇がぱちりと閉じた。
「わたくし、王都で面白いお話を聞きましたのよ。こちらの奥方様におなりの方はお屋敷の厨房にお立ちになるとか。市場で鍋を振るわれたとか。……ねえ、リディア様。こちらでは料理女の真似事も評価されるのかしら」
部屋の空気が一度、止まった。
給仕の位置で、ミレイユの盆が微かに鳴った。鳴っただけで、止まった。十日間、この娘は「当日は絶対に手を出さない」練習をそれこそ武者震いしながら積んできたのだった。クラリスは彫像のように動かず、ただ、その視線だけが主の背中を支える位置にあった。
昔なら、とリディアは思った。
昔のリディアなら、俯いた。恥じて、黙って、俯いて、その夜、誰にも聞こえない場所で自分の手を見ただろう。灰鷹館の十八年はそういう俯き方の稽古だった。
だが今、この手の記憶にあるのは灰鷹館だけではなかった。挫いた足首に巻いた包帯。二十七針の傷の記録。妹の手に塗った軟膏。屋台の鍋。悪口を言った口に二杯目をよそう気で今も竈の前にいる料理長と、盆を鳴らして耐えた武者震いと、末席で震えながら顎を上げている妹がこの手の側にいた。
リディアは静かに微笑んだ。
「ええ。ここでは誰かのために手を動かせることを恥とは呼ばないようです」
声は上ずりもしなければ、尖りもしなかった。事実を帳面に書き込む声だった。
「街の皆様は働く手を褒めてくださいます。おかげさまで、私はこの地に参りましてから、自分の手を恥じたことが一度もございません。……王都の物差しと寸法が違うのは承知しております。ですが嫁ぎますのはこの地ですので」
孔雀の扇が開きかけて、止まった。
切り返しの語彙を探す目が扇の上で泳いだ。恥じない人間に、恥を売りつけることはできない。売れない品を抱えた行商人の顔を令嬢は一瞬だけして、それから澄まして目を逸らした。
「……変わった土地ですこと」
「ええ。良い土地です」
夫人が扇の陰で、初めて値踏みではない目でリディアを見た――ように見えた。それが感心なのか、警戒の格上げなのかはまだ分からなかった。末席では一番若い令嬢が口を挟むことも笑うこともせず、ただ焼き菓子を静かに、律儀に食べていた。
◇
「――というわけで、第一ラウンドは終了です」
客人たちが旅装を解きに各室へ引き取った後、リディアは自室で白い帳面を開いた。本日、来客五名。嫌味、大口三件、小口多数。実害、なし。給仕の失点、なし。菓子、完売。
記録を終えたところで、扉の外から、遠慮のない声がした。
「姉ちゃん、生きてるかー? 毒殺されてないかー?」
「されていません。入らないでいいです」
「クラリスから聞いたぜ。完勝だったって」
「勝ち負けではありません。……それに」
リディアはペンを置いた。廊下の気配に向かって、声を少しだけ低くする。
「本命はまだ、一言も刺してきていません」
茶会の間じゅう、ファビアンは笑っていた。笑って、菓子を褒め、雪景色を褒め、姉妹には一度も話しかけてこなかった。あの男が無償で黙っていることはない。刃物は抜く前が一番静かなのだ。
扉の向こうで、カイが「だな」と言った。冗談の混じらない声だった。
◇
夕食は拍子抜けするほど穏やかに終わった。
穏やかどころか、終盤には小さな異変さえ起きた。芋と豆の煮込み――例の、冬の定番――の皿を空にした真珠の髪飾りの令嬢が給仕のクラリスをそっと呼び止めて、消え入りそうな声で言ったのである。
「……この煮込みの作り方を、その、後学のために……」
「承りました。料理長に申し伝えます」
クラリスは完璧な礼で受け、廊下に出てから厨房へ寄り、一言だけ報告したという。その夜、厨房から響いた「よっしゃあ!」の声量については後日、白い帳面ではない方の帳面に「戦果」として記録された。
異変はもう一つあった。
食後の杯が下げられる頃、ファビアンが立ち上がり、姉妹の方へ、あの笑顔を向けたのである。
「リディア。少しいいかな。……せっかくの機会だ。義理の兄妹で、積もる話もあるだろう?」
断れない形の申し出だった。人前で、礼儀の書式で差し出された誘いを断れば、それこそ「無作法」の土産になる。セバスティアンの目がこちらを見た。判断はお任せします、の目だった。
「ええ。喜んで」
リディアは立ち上がった。半瞬遅れて、隣の椅子が鳴った。
「わ、私も……ご一緒します」
エミリアだった。青い顔で、袖を掴む代わりに自分の手をきつく握って、それでも、立っていた。ファビアンの笑みが面白がる角度に、一度だけ深くなった。
「もちろん。妹も一緒に」




