第39話 燭台三つの夜戦
小さな談話室に、燭台が三つ。
リディアは廊下側の扉を開け放したままにした。ファビアンが眉を上げると、先回りして言った。
「この屋敷の作法ですので」
「へえ。開けっ放しが?」
「風通しが、です」
ファビアンは声を立てて笑い、勧められてもいない長椅子に、優雅に腰を下ろした。持ち込んだ葡萄酒の杯を窓の雪明かりに透かす。急がない仕草だった。刃物を研ぐ男の、手つきだった。
「……見違えたよ、リディア」
やがて、彼は言った。
「灰鷹館の台所にいた頃の君はもっと削りがいがあった。何か言うたびに、目の奥が一度、へこんだ。あれを見るのが僕は結構、好きだったんだけどね」
悪びれもしない告白だった。この男はそういう男だった。強い信念があって姉妹を踏んだのではない。一番弱いものを踏むのが一番安い退屈しのぎだっただけだ。
「僕が昔、君に言った言葉、覚えてる? 貴族令嬢というより――」
「料理女だね、と」
リディアは引き取った。
「ええ。覚えています。よく削れました、当時は」
「今日は? 昼の茶会でも、誰かが似たことを言っていたけど」
「今の私にはその言葉のどこが悪口なのか、分からなくなりました」リディアは事実だけを置いた。「不便でしょう、ファビアン様。せっかく十日かけて研いでいらした刃物の切れ味を砥石の方が忘れてしまって」
「……ははっ」
ファビアンは笑った。笑ったが目は笑いを三拍遅れて追いかけていた。いつか灰鷹館の廊下で、会釈ひとつで通り過ぎた女を見た時と、同じ目だった。
「本当に、つまらなくなったなあ、君は」
杯が卓に置かれた。
「なら、話を変えよう。君の母上の話は王都ではまだ人気だよ。二十年経っても色褪せない。罪の子の姉妹、っていう題はそれだけで夜会がひとつ保つ」
来た、とリディアは思った。
十八年、この家名の毒の中で一番効いた毒だった。八つの子供の算術に、利子ごと背負わせた元金。それが今、正面から差し出されて――リディアは自分の胸の内側を帳簿をつける目で検分した。
痛みはあった。なかったと言えば嘘になる。だがそれだけだった。底が抜けるあの感じが来なかった。雪の丘の墓石と、友、ここに眠るの一行と、最後の晩に二つの名前を呼んだ人があの毒の湧く場所に、先に立っていてくれた。
「……そうですか。王都の夜会は演目が二十年も変わらないのですね」
声は揺れなかった。
「こちらの闘技場は毎年、演目が変わります。去年三本だった少年が今年は六本立ちます。……お帰りになったら、皆様にお伝えください。題の古びない話は生きている場所にしかありません、と」
ファビアンの指が卓の上で、とん、と鳴った。
初めての、苛立ちの音だった。
「――エミリア」
刃の向きが変わった。
「君はさ、帰っておいでよ」
声だけは蜂蜜のようだった。
「父上は君には優しいだろう? 部屋も食事も、君の分は戻してあげるよう、僕からも言ってあげる。……君はまだ、王都でやり直せる。あの女の血が濃く出たのは姉の方だと、社交界には僕が言い添えてあげてもいい。君一人なら、まだ間に合う。こんな、雪と魔物しかない場所で、災いの姉の巻き添えになることはないだろう?」
エミリアは震えていた。
長椅子の隣で、握った手の中の指が白くなるほど固く組まれていた。肩があの家の癖のまま、勝手に竦もうとしていた。リディアは口を開きかけ――閉じた。盾になるのは簡単だった。十八年やってきた。だが妹は今朝、震えてても、いい? と訊いたのだ。あの問いへの返事を姉はもう、渡してある。
沈黙が三拍。
「……いや、です」
声は小さかった。小さくて、震えていて、けれど、最後まで言い切る声だった。
「私、望まれて生まれた子です。お姉様も、そうです。……ここにはそれを知っている人たちがいます。知らない場所にはもう、帰りません」
エミリアは顔を上げた。
「それから……お兄様。お姉様は災いではありません。私の熱を十年、夜中に治した人です。……何も知らないくせに、言わないで」
最後の一句はほとんど涙声だった。涙声のまま、逸らさなかった。
ファビアンは妹の顔をしばらく眺めていた。
笑顔が初めて、仕事を忘れた。踏めば凹むはずの場所を踏んで、跳ね返された男の、素の顔が一瞬だけ覗いた。それは怒りというより、当てが外れた退屈の顔で――だからこそ、この上なく正直な敗北の顔だった。
「……はは。姉妹まとめて、つまらなくなった」
「――夜が更けた」
低い声が開いたままの扉から落ちた。
レオンハルトが廊下に立っていた。いつからいたのか、足音はなかった。燭台の光が届くところまで一歩だけ入り、猛禽の目が長椅子の客を静かに見下ろした。
「客人は客間へ。……ファビアン殿。この家では人の生まれは刃にならん」
声は荒らげられもしなかった。ただ、部屋の温度だけが下がった。
「二度目はない」
それだけだった。脅し文句の続きも、剣の柄に置く手もなかった。なかったことがかえって底の知れなさになった。ファビアンは杯を取り、残りを一口で干して、立ち上がった。笑顔はもう修復されていた。
「……怖いなあ、辺境は。夜も、人も」
戸口で彼は一度だけ振り返り、姉妹に、綺麗に礼をした。
「おやすみ、リディア、エミリア。……いい夢を」
足音が廊下の闇に消えた。
◇
足音が完全に消えた途端、エミリアが長椅子の上でくたりと姉にもたれた。
「……お、お姉様……膝が……膝がまだ、がくがくいってるの……」
「言えましたね」
「言えたわ……言えた……ど、どうしよう、私、お兄様に、言わないでって……」
「上出来です」リディアは妹の背中をゆっくり叩いた。母がそうしてくれた拍子で。「姉さんは十八年かかりました。あなたはひと冬です」
戸口で、レオンハルトがまだ立っていた。何か言いかけて、やめて、選び直す、いつもの渋滞。やがて出てきたのはいつも通りの短さだった。
「……手は出さなかった」
「ええ」リディアは頷いた。「要りませんでした。……ですが扉を開けておいて、ようございました」
「作法だろう」
「作法です。……保険とも言いますが」
レオンハルトはふ、と鼻から息を抜いた。この男の笑い方だった。それから、もたれたままのエミリアに一瞥をやり、言った。
「エミリア。……よく立った」
「……っ、は、はいっ」
「厨房に言ってある。蜂蜜の乳を二つ」
それだけ言って、黒い背中は廊下へ消えた。妹が姉の袖の中で、泣き笑いの顔になった。リディアはその夜、白い帳面に短く書いた。本日、追加三件。命中、零。備考――妹、初陣。一太刀、返す。
◇
翌朝、朝食の席で、バルテル伯爵夫人が扇を優雅に揺らして言った。
「せっかくですもの、街も拝見したいわ。未来の辺境伯夫人はそれはもう、民に慕われていらっしゃるとか。……ぜひ、この目で確かめとうございますの」
確かめる、という言葉に、嘘はなかった。慕われているという噂が誇張なら、その食い違いが土産になる。街が野蛮なら、野蛮が土産になる。どちらに転んでも空荷では帰らない、王都の顔役の仕事だった。
「喜んで、ご案内いたします」
リディアは即答した。卓の端で、給仕に立ったミレイユの口の端が抑えても抑えきれない角度に上がるのが見えた。この街を検分したいという客に対して、この屋敷の人間が抱く感想は一つしかない。望むところ、である。
ファビアンは同行を断った。
「僕は遠慮するよ。雪は靴が傷む」
窓辺で葡萄酒を回しながら、彼は笑った。昨夜の敗戦をこの男は一晩で「最初からなかったこと」に加工していた。それも技術のうちだった。




