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第40話 黒狼様のご帰還

 大通りはその日も雪かきの怒鳴り声で始まった。


「どけどけェ! 屋根の雪が来るぞ!」


「まあ……っ」


 孔雀の扇の令嬢が袖で口を覆った。貴人の一行に向かって、誰も声を潜めない。誰も道を空けない。荷ソリは容赦なく脇を抜け、子供は雪玉を抱えて走り、令嬢の絹の外套の裾を犬が平然と嗅いでいった。


「なんて、無作法な……きゃっ」


「頭上!」


 雪かきの男の怒鳴り声と同時に、屋根から雪塊が滑り落ちた。令嬢の一歩先。男は雪に埋まった歩板を顎で示して、「そっち歩きな、お嬢さん。今日は屋根が滑る」とだけ言って、仕事に戻った。無作法な声が無作法なまま、羽根飾りの帽子を救っていた。令嬢は抗議の行き先を見失って、黙って歩板を歩いた。


「あら、嬢ちゃん! 今日は団体さんかい!」


「ちっこい嬢ちゃんも一緒か! ほら、栗! 焼きたてだ!」


 声は四方から飛んできた。リディアが会釈を返すたび、夫人の扇の動きが少しずつ遅くなっていった。噂の検分は済んだはずだった。慕われているという噂に、誇張はなかった。むしろ噂の方が実物より遠慮がちだったくらいである。


「……皆様、その、リディア様を『嬢ちゃん』と……」


「ここではそういうことになっております」


「侯爵家のご息女を?」


「ここでは家名は薪にもならないそうですので」


 市場の入口で、干し杏の婆が店先から皺だらけの手を差し出して、客人たちに一粒ずつ、杏を配った。夫人が財布に手をやると、婆は歯の欠けた口で笑った。


「銭は要らないよ。初めての顔には一粒ずつ。それがうちの流儀だ」


「……施しは受けませんことよ」


 孔雀の令嬢が硬い声で言った。婆は動じなかった。


「施しじゃないよ、お嬢さん。味見だ。うまけりゃ、買いに戻っといで。……あんたの銭はその時に受け取る」


 令嬢は手のひらの杏を見下ろして、返す言葉の在庫を探して、見つけられなかった。施しか、取引か。王都の物差しには目盛りが二つしかない。味見、という三つ目の目盛りを令嬢は生まれて初めて手に載せていた。


   ◇


 屋台の列では末席の若い令嬢が捕まった。


「お、ちょうどいい。お嬢さん、すまんが頼まれてくれ」


 湯気を噴く屋台の親父が木の椀を突き出したのである。温めた山羊の乳に、蜂蜜と何かの香草。


「作りすぎた。余ると鍋が焦げる。鍋が焦げると女房に叱られる。女房に叱られると今日の商いに障る。……つまりお嬢さんが飲んでくれんと、うちは今日、店じまいだ」


「え、あ、あの、わたくし……」


「大事なんだ。頼まれてくれるか」


 令嬢は椀と親父を三往復見比べて、おそるおそる、受け取った。一口。目が丸くなった。二口目は少し速かった。その一部始終を隣でエミリアがにこにこと見ていた。


「おいしいでしょう? 私も、初めての時、びっくりしました」


「……え、ええ。その……とても」


「あちらの焼き栗も、甘いんです。あの、もしよかったら――」


 言いかけて、エミリアと令嬢はほとんど同時に、互いの立場を思い出した。噂の姉妹の妹と、その噂を検分に来た一行の末席。二人の間に、王都の物差しが一本、遅れて割り込んできた。令嬢は椀に目を落とし、エミリアは半歩下がり、会話はそこで、行儀よく死んだ。


 死んだ会話の温度だけが椀の中に残っていた。


   ◇


「――黒狼様だ!」


 子供の声が通りの先で上がった。


 巡回らしい。黒鹿毛の上のレオンハルトが供の騎士二人を連れて、大通りの向こうを横切っていくところだった。子供たちが数人、雪を蹴って駆け寄っていく。親が「こら」と笑って頭を下げ、彼は手綱を緩めて微かに顎を引き、子供の一人が差し上げた木彫りの狼に、一瞬だけ視線を落として、また進んでいった。それだけの、冬の昼の風景だった。


 夫人の扇が完全に、止まっていた。


 娘を人質に、侯爵家へ圧力をかけている辺境伯。王都の茶会で流通しているその男は今、雪の通りで子供に木彫りを見せられていた。囚われているはずの娘は屋台の親父に「嬢ちゃん」と呼ばれて笑っていた。夫人は扇を閉じ、その先で、雑貨屋の軒先を指した。木彫りの黒狼がずらりと並んだ軒先だった。


「……あれはなんですの」


「街の守り神でございます。どこの家も、一匹は窓辺に置いております」


「守り神」夫人はその言葉を舌の上で検分するように繰り返した。「……あの、怖いお顔の辺境伯が」


「ええ。怖い顔をしているだけですので」


 夫人はリディアを見た。長い、値踏みではない一瞥だった。それから彼女は閉じた扇で自分の手のひらをとん、と打った。結論を出した音のようだった。


「……測れませんこと、この街は。王都の物差しでは」


「お褒めにあずかります」


「褒めてはおりませんことよ」夫人の口の端がほんのわずかに動いた。「……ですけれど、報告のしがいはございますこと」


 どちらの意味の報告か、夫人は言わなかった。リディアも、訊かなかった。ただ、帰り道の夫人の扇は来た時より、ずっと静かだった。


   ◇


 屋敷の門前で、一行が玄関へ吸い込まれていく。


 その最後尾で、末席の令嬢が足を止めた。


 振り返った顔は寒さで赤くなっていた。彼女は前を行く一行を一度うかがい、それから早口で、握った両手を胸の前で固くしたまま、言った。


「……あなたが羨ましい」


 それだけだった。


 リディアが何か返すより早く、令嬢は身を翻し、小走りに、一行の背中を追っていった。絹の裾が雪を蹴って、扉の中へ消えた。


 リディアはしばらく門前に立っていた。


 白い帳面には書かなかった。あれは悪評ではない。傷でもない。数えるべき科目がどの帳面にもなかった。ただ、椀の中で死んだ会話の温度と、寒さで赤くなった頬の色だけを帳面の外の、名前のない場所に仕舞った。王都へ帰るソリの中で、あの椀の味を思い出す人が一人いる。それで十分だった。


「お姉様ー! 雪、強くなります!」


 玄関から、妹の声が呼んだ。明日の朝、客人たちは発つ。土産はまだひとつも渡していなかった――手ぶらという土産の、他には。


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