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第41話 見送りと、白い帳面

 出立の朝は憎らしいほどの晴天だった。


 車寄せには客人のソリが三台、旅支度を整えて並んだ。見送りの列は迎えた朝と寸分違わぬ完璧さで組まれていた。茶は最後の一杯まで熱く、廊下には最後まで塵ひとつなく、給仕は最後の一礼まで一分の隙もなかった。セバスティアンの言った通り、この屋敷は三日間、完璧に回りきったのである。


「三日のおもてなし、結構でございましたわ」


 バルテル伯爵夫人は来た日と同じ完璧な微笑で、別れの口上を述べた。


「王都の皆様にも、しかとお伝えいたしますわね。辺境伯家の、行き届いたこと。……婚礼の折にはまた参りますわ。その日がつつがなく参りますことを祈っておりましてよ」


 つつがなく、のひと言にだけ、僅かに重みが乗った。祈りの形をした、何か別のものだった。リディアは完璧な礼で受け、意味の検分は後に回した。


 孔雀の扇の令嬢はそそくさとソリに乗り込んだ。その侍女の腕に、紙の包みがひとつ抱えられているのをリディアは見た。包みの口から、干し杏の匂いがした。視線に気づいた令嬢は扇を開いて顔の下半分を隠し、早口で言った。


「……道中の、退屈しのぎですわ」


「お口に合いましたようで」


「合ってなどいませんことよ」


 扇の上の目がふい、と逸れた。婆の言った通りになった。うまけりゃ、買いに戻っといで。王都の物差しは折れても、王都の令嬢の意地は折れないらしかった。それでいい、とリディアは思った。杏は意地と一緒でも甘い。


 真珠の髪飾りの令嬢にはセバスティアンが進み出て、封筒をひとつ、恭しく差し出した。


「料理長より、御礼申し上げます。……作り方の、覚え書きでございます。『鍋に訊きながら作れ』とのことでございました」


「ま、まあ……ご丁寧に」


 令嬢は封筒を受け取って、深々と頭を下げかけ、自分の格を思い出して慌てて浅く直した。厨房の窓の奥で、料理長が腕組みのまま、満足げに頷くのが見えた。


 末席の若い令嬢とは目が合った。


 一拍。互いに、小さな会釈だけを交わした。それだけだった。それだけのことが昨日の門前の一言の、返事の代わりだった。令嬢はソリに乗り込み、もう振り返らなかった。


「――やあ、世話になったね」


 最後に、ファビアンが来た。


 レオンハルトが夫人の正式な暇乞いを受けている、その半歩の隙間に、彼は滑り込むように、リディアの傍らに立った。笑顔はいつも通りで、声だけが笑顔から半音、外れていた。


「ああ、そうだ。忘れるところだった。……エミリアの身柄は『婚礼までの一時預かり』。そういう約定だったよね」


 背筋を細い氷が降りた。


「父上は指折り数えていらっしゃるよ。それでね、僕、王都で訊かれたら困ると思って。……婚礼の日取りはもうお決まり?」


「ご心配には及びません」


 声は揺らさなかった。揺らさない技術なら、この三日で研ぎ直してあった。


「招待状は灰鷹館にも届きます」


「楽しみにしてる」ファビアンは綺麗に一礼した。「……期限にも、間に合うといいね」


 彼はソリに乗り込んだ。鈴が鳴り、ソリの列が動き出し、門柱の間を抜けて、雪の街道を王都の方角へ、小さくなっていった。見送りの列は最後のソリが丘の向こうに消えるまで、完璧なまま立っていた。


 消えた。


「……ぷっはあぁぁ!」


 最初に崩れたのはミレイユだった。


「限界! あたし限界でした! 三日間よく耐えた! ねえ誰か褒めて!?」


「及第です」クラリスが言った。


「盆は三回、鳴ってましたけどねぇ」ノエルが言った。


「鳴らしただけで手は出してませーん! えらい!」


「飯だ!」厨房から料理長の声が轟いた。「言ったろ、悪口言った口で二杯おかわりさせてやるって。……あの真珠の子、三杯いった。勝ちだね。祝いだ、今夜は全員分、山盛りにするよ!」


 歓声の中で、エミリアがそっと姉の袖を引いた。


「お姉様。私……ちゃんと、立ってた?」


「ええ」リディアは妹の外套の襟を直してやった。「三日間、一度も謝りませんでした。姉さんが数えていました」


「……えへへ」


 妹は笑った。笑ってから、リディアの顔を覗き込んだ。


「お姉様は? ……なんだか、少しだけ、怖い顔」


「雪目です」


 その嘘は今回は守られなかった。妹はただ、袖を引いた手を袖から手のひらへ滑らせて、握った。期限、という言葉を妹は聞いていない。聞かせるつもりも、なかった。それでも妹の手は姉の温度の変化だけは正確に読むのだった。


   ◇


 その夜、リディアは広間へ下りた。


 眠れなかったからではない。あの夜とは違った。今夜は探しに行ったのである。そして探し物は思った通りの場所にいた。暖炉の火の前、長椅子に浅く腰掛けて、杯をひとつ。


「……火なら、ある」


「いただきます」


 リディアは迷わず火の前に座った。座ってから、ファビアンの置いていった言葉を一言一句、そのまま報告した。約定。期限。指折り数える父上。婚礼の日取り。レオンハルトは火を見たまま聞いていた。聞き終えても、眉間の皺は一本も増えなかった。


「……驚かれないのですね」


「予想の内だ」


 彼は杯を置いた。


「悪評で下地を作り、検分に人を寄越し、帰り際に期限を刺す。……順序が丁寧すぎるほどだ。セバスティアンとも話している。次は噂では来ん」


「次は」


「手を使ってくる」


 短い言葉が火の前に、静かに置かれた。脅すためでも、怯えさせるためでもない。この男は戦の見通しを戦う者に共有しているのだった。リディアはそれが分かった。分かったから、自分も、この三日間ずっと胸の中で書き溜めてきたものを火の前に取り出した。


「レオンハルト様。お願いがあります」


「言え」


「私を盾の内側に、仕舞わないでいただきたいのです」


 猛禽の目が火から、こちらへ動いた。


「妹が狙われるなら、守ってください。それはお願いします。ですが私を守られるだけの場所に置かないでください。……灰鷹館の内情をこの世で一番よく知っているのは私です。帳簿の上の支給と、実際の食事の差も。どの使用人が何をして、誰が見て見ぬふりをしたかも。マルタの嘘の手口も、全部、この頭に入っています。白い帳面も、育てています。いつか、あの家と正面から向き合う日が来たら――私の十八年をお使いください。あれは傷の記録ですが」


 一度、息を吸った。


「使い道のある傷なら、ただの傷ではなくなりますので」


 長い、渋滞だった。


 薪が一本、崩れて、火の粉が上がった。レオンハルトはその火の粉が消えるまで黙っていた。何かを言いかけて、やめて、選び直す。いつもの渋滞。だが今夜のそれが何をせき止めているのか、リディアにはもう、半分くらいは分かる気がした。守る、と言いたいのだ。全部、俺が。お前は何も背負わなくていい。――そういう種類の言葉をこの男は今、一語ずつ、諦めていっているのだった。かつて「俺が行けば、他の者が死なずに済む」と言ったこの男が諦めるのに、それだけの時間が要るのだった。


 やがて、彼は言った。


「リディア」


「はい」


「……隣に、立て」


 短い言葉だった。


 いつも通りの、絶望的な説明不足だった。それなのに、その短い言葉にはリディアがこの三日間で欲しかった言葉が全部入っていた。盾の内側ではなく、隣。守られる位置ではなく、並ぶ位置。婚約者という言葉をこの男は今、書類の肩書から、立ち位置の名前に、書き換えたのだった。


「……はい」


 返事はそれだけにした。説明の足りない男の隣に立つのに、長口上はいらない。


   ◇


 部屋に戻って、リディアは白い帳面を開いた。


 本日、客人五名、出立。実害、なし。持ち帰らせた土産、干し杏一包み、煮込みの作り方一通、手ぶらの体裁一式。……当方の戦果、以上。


 ペンを置きかけて、思い直して、最後にもう一行だけ書き足した。帳面の書式にはない一行だった。


 ――アッシュフォード家婚約者、リディア。本日より、隣に立つ。


 窓の外は雪だった。王都へ帰るソリの鈴はもう聞こえない。代わりに、遠くの詰所から、夜番の交代を告げる声が雪越しにくぐもって届いた。この街の、いつもの夜の音だった。


 医務記録の署名欄の、家名のない四文字をリディアは思った。


 いつかあの四文字の下に書き足される家の名前のことを――今夜、初めて、怖くないと思った。


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