第42話 灰色の鷹の封蝋
「申告する」
朝の医務室に、いつもの声が届いた。
「本日、猫が袖で爪を研いだ。……それから、膝で眠った」
「…………眠った、のですか」
「四半刻ほどだ。起こすと引っ掻かれるかと思い、書類を片手で処理した」
リディアは帳面を取り落としそうになった。フォートセバーン辺境伯、猫のために片手で執務。左手甲、引っ掻き傷なし、と書くべき欄に、彼女はしばらくペンを迷わせ、結局こう書いた。処置、不要。備考、定期預金に格上げの兆し。
「……順調です。この調子でお願いします」
「ああ」
頷いて出ていく背中を見送ってから、リディアは窓の外に耳を澄ませた。屋根のどこかで、雪がずり落ちる重い音がした。ここ数日、屋敷のあちこちでこの音がする。冬が峠を越えた、という音なのだと、ミレイユが教えてくれた。根雪はまだ深い。それでも光の色は確かに変わり始めていた。
春が近い。
それはこの街では良い知らせのはずだった。だが白い帳面をつける係の頭の中で、その言葉は最近、別の響き方をする。雪が解ければ、街道が開く。街道が開けば、王都から届くものが手紙だけでは済まなくなる。
その日の昼、届いたのはまだ手紙だった。
銀盆の上の書状には灰色の鷹の封蝋が捺されていた。
「灰鷹館より、旦那様とリディア様に。……口上の使者はなし、書状のみでございます」
執務室に、三人が集まった。机の向こうにレオンハルト、脇にセバスティアン、そして机のこちら側に、リディア。半月前までなら、この部屋の報告は「お耳に入れておくべきかと」という前置きで届いた。今は前置きがない。隣に立て、と言われた日から、この部屋の書類は彼女の目も通る場所に置かれる。
書状の文面は完璧な礼儀で織られていた。完璧な礼儀の書式に、毒を織り込む家だった。
「……読み上げます」
リディアは自分で封を切った。
「『エミリアの静養につき、辺境伯家の厚情に深く感謝する。しかしながら、預かりの約定は婚礼までの一時のものであり、当の婚礼の日取りは今日に至るも定められていない。根拠なき長期の滞在は当家の体面に関わるのみならず、年若い娘の将来をも損なうものである。後見人として、エミリアの身柄の返還を正式に求める。……期限は雪解けまで』」
読み終えて、リディアは書状を机に置いた。手は震えなかった。震える代わりに、頭の中の帳簿が冷たく回り始めていた。
「日取りを突いてきましたな」セバスティアンが静かに言った。「ファビアン様の置き土産の通りでございます。法の書式の上では痛いところでございます。後見の権利は忌々しいことながら、いまだ侯爵の手の内にございますゆえ」
「セバスティアン。正面から突っぱねれば、どうなる」
「王都の社交界に、物語が一つ完成いたします。『辺境伯は約定を破り、力ずくで侯爵家の娘を囲い込んだ』――先だっての悪評の四つ目が証拠つきで裏書きされる形に」
「……違います」
リディアは言った。二人の目がこちらを向いた。
「いえ……仰る通りです。ですがそれだけではありません。この書状の本当の目的は妹の返還ではないと思います」
「ほう。……とおっしゃいますと」
「断らせることです」
あの男のやり方なら、知っている。十八年、あの屋根の下で見てきた。
「あの人はこちらが呑めない要求を完璧な書式で出してきます。こちらは断る。断れば、王都に『奪われた娘を案じる父』の舞台が立つ。……そして舞台が立てば、次に何をしても、それは『父親の当然の措置』の顔をします。この書状は要求ではなく――免罪符です。裏の手を使う前に、先に自分へ発行しておく類の」
執務室が静かになった。
セバスティアンが深く一礼した。合格、の礼ではなかった。もっと苦いものを噛んで呑み込んだ礼だった。
「……私も、同じ見立てでございます。付け加えるなら、期限を『雪解け』と切ったのも、算盤ずくでございましょう。雪解けは街道が開く時季。人と荷が一年で最も出入りする時季でございます」
「人買いくずれでも、傭兵くずれでも、紛れ込ませ放題ということだ」
レオンハルトが初めて口を開いた。書状を一瞥もしていなかった。文面の検分は係の仕事、その先の戦の見積もりが自分の仕事――そういう分担がこの半月で、いつの間にかできあがっていた。
「返書は引き延ばせ。婚礼の支度が整い次第、日取りを報せる。……書式はセバスティアンに任せる。時は稼げ。だが」
猛禽の目が書状の上の灰色の封蝋を見た。
「渡す気はない。それだけはどう書いても構わん」
「畏まりました。丁重に、一歩も引かぬ文面に仕上げます。……腕が鳴りますな」
問題はその先だった。
「妹の外出を止めるべきでしょうか」
リディアが訊くと、レオンハルトはしばらく黙った。いつもの渋滞ではなかった。答えは決まっていて、その答えの重さを量っている沈黙だった。
「……檻に入れれば、守りやすくはなる」
やがて、彼は言った。
「だがそれはあの家と同じだ」
リディアは息を呑んだ。
北向きの部屋。内側から塞がれた扉。敷地から出ることを許されなかった十年。妹を守るという名目で妹の世界を狭めることをこの男はあの家と同じ、と呼んだのだった。守る側の都合で檻を作るなら、鍵の掛かる向きが違うだけだ、と。
「暮らしは変えん。街へも行かせる。……守りを深くする。表から見えん形でだ」
「カイ、ですか」
「カイだ」
その日の夕方にはもう手が回っていた。門柱の上の見張りが一人増え、姉妹の外出には熊の騎士が「たまたま買い物のついでに」同行することになり、街の露地では義賊あがりの目と耳が見慣れない顔を数え始めた。カイ本人は厨房で林檎を齧りながら、事もなげに言った。
「街の連中にはもう回してある。雪解けまでに入ってくる新顔は荷馬の頭数まで全部俺のとこに上がる。……あの街で嬢ちゃんたちに手ェ出すのは蜂の巣に素手突っ込むのと同じだって、じきに分かるさ」
「頼もしいことです」
「おう。……ただな、姉ちゃん」
カイは林檎の芯を火に放って、少しだけ声を落とした。
「蜂の巣が効くのは巣の中だけだ。分かってるとは思うけどよ。……街の外にだけは出るなよ。アンタも、嬢ちゃんも」
エミリアにはその夜、姉が話した。
全部ではない。だが嘘は一つも混ぜなかった。灰鷹館から手紙が来たこと。妹を返せという内容であること。この屋敷の誰一人、返すつもりがないこと。そして、しばらくの間、外出には決まりごとが増えること。
妹は寝台の上で膝を抱えて、黙って聞いていた。聞き終えて、最初に出てきた言葉はリディアの予想のどれとも違った。
「……お父様は」
「え?」
「あちらのお父様は……私を返してほしいんじゃ、なくて。私がいなくなったことが許せないのね」
リディアは妹の顔を見つめた。
その通りだった。的の真ん中だった。持ち物が自分の意思で歩き出したことがあの男には我慢がならないのだ。十六の妹はあの粘つく視線の意味を言葉にできる歳になっていた。なっていて、そして、震えてはいなかった。
「怖くないのですか」
「怖いわ」エミリアはあっさり言った。「すごく怖い。夜、また鍵を数えたくなったら、どうしようって思う。……でもね、お姉様。私、気づいたの。前は怖いものの中に、一人でいたでしょう。今は怖いものの外に、みんなといるの。同じ怖いでも、ぜんぜん違うのよ」
怖いものの外に、みんなといる。
リディアはその言い回しを頭の中の帳面に書き留めた。八つから算術を始めた姉より、この妹は時々、ずっと正確な帳簿をつける。
「それに」妹は少しだけ笑った。「私が部屋に籠もったら、厨房の豆の筋は誰が取るの?」
「……明日も、お願いします」
「うんっ」
その夜、リディアは白い帳面を開いた。
本日、灰鷹館より返還要求の書状一通。期限、雪解け。当方の返答、引き延ばしにて対応。裏の手、未着。――以上を記して、ペンを置きかけ、ふと窓の外を見た。
月明かりの雪原、門柱の上に、見慣れた小さな影が座っていた。夜番はカイの受け持ちではないはずの日だった。受け持ちではない夜に、受け持ちのような顔で、影は街道の方角を向いていた。
リディアは湯を沸かし、蜂蜜を溶かした山羊の乳を杯に一つ仕立てた。それを盆に載せて、門まで運んだ。
「……なんだよ。俺は猫か」
「猫より働いてくれていますので」
「ふん」
カイは杯を受け取って、一口で半分空けた。それから、街道から目を離さないまま、言った。
「雪解けまで、あと、ひと月ってとこだ」
「ええ」
「罠ってのはな、姉ちゃん。仕掛ける側が期限を切った時は期限より早く来るんだ。……気ぃ抜くなよ」
リディアは頷いた。空の盆を抱えて屋敷へ戻る道すがら、屋根の雪の落ちる音がまた一つ、どこかで響いた。冬が確かに緩み始めていた。良い知らせと、悪い知らせが同じ音でやってくる季節だった。
――その静けさが破られるまで、三日と、かからなかった。




