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第43話 数え始めた違和感

 三日後の朝、厨房の買い出しがあった。


「香草の軸を二束、干し茸、根菜を樽の半分、それと蜂蜜! 蜂蜜は市場の東の、婆さんの隣の店! 他所のは薄い!」


 料理長の注文書きを胸元に、一行は屋敷を出た。リディアとエミリア、荷物持ちを買って出たミレイユ、目付役のクラリス。門を出たところで、頬に古傷のある熊のような騎士がぬっと合流した。手には場違いに小さな買い物籠が提げられていた。


「……偶然だな。俺も買い物だ」


「まあ。奇遇ですこと」


「女房に頼まれた。……糸と、釦だ」


 騎士は籠を掲げてみせた。偶然の買い物の中身まで用意してあるのがいかにもこの街の「たまたま」だった。エミリアがくすくす笑い、騎士は大真面目な顔のまま、一行の斜め後ろ、通りの全部が見える位置に、ごく自然に収まった。


 大通りは雪解けの走りで湿っていた。


 屋根から落ちた雪が道の端に山を作り、その山を子供らがソリの滑り台にして、怒鳴られている。軒先の氷柱は日ごとに短くなり、水の滴る音が通りのどこにいても聞こえた。冬のあいだ蓋をされていた匂いが緩んだ雪の下から立ちのぼり始めていた。土と、藁と、家畜と、去年の落ち葉の匂い。


「ちっこい嬢ちゃん! 今日も筋取りかい!」


「あ、はい! あの、今日は買い出しです! 蜂蜜は東の、婆さんの隣って聞きました!」


「よく知ってんな! そうだ、他所のは薄い!」


 エミリアはもう、この通りの歩き方を覚えていた。声をかけられたら止まらずに返す。屋台の湯気は右に避ける。雪山の陰から子供が飛び出す角を先に読む。ひと月前、姉の袖を掴んで目を白黒させていた娘が今は自分の銭入れを提げて、干し茸の値を――拙いなりに――値切ってさえいた。


「お、おまけしてくださいって、言ってみるものね……!」


「ええ。上出来です」


「ふふ。私、この街のお買い物、好き。灰鷹館では何か間違えると、怖かったけど……ここは間違えても、笑ってくれるんだもの」


 妹の言う通りだった。この街の市場は騒がしくて、大雑把で、間違いに寛大だった。リディアは香草の軸を検分しながら、隣の妹の横顔を見た。頬に赤みがあり、目が忙しく動き、口元がずっと緩んでいる。健康、と帳面につけるならそう書く顔だった。


 だから――その顔を曇らせないまま、リディアは数え始めていた。


   ◇


 最初に引っかかったのは荷役の男だった。


 市場の西の口、蜂蜜屋へ向かう途中の路地の入口に、荷ソリが一台停まっていた。男が二人、樽を下ろしている。それだけなら、雪解け前の市場のどこにでもある眺めだった。


 ただ、手が違った。


 樽を担ぐ男の手のひらが白かった。荷役の手は冬でも日に焼けて、指の節が膨れて、手袋をしていても形で分かる。あの手は綱より重いものを日常で握っていない手だった。それでいて、肩の据わり方だけは樽の重さに慣れた者のそれよりも、むしろ安定していた。重い物を運ぶ肩ではなく、重心を崩されない肩。リディアは闘技場の砂の上で、ああいう肩を見たことがあった。


 視線は合わせなかった。香草の束を選ぶ手を止めずに、位置と、人相と、ソリの荷紋の有無――無紋だった――を頭の帳面に書き込んだ。


 二番目は視線だった。


 蜂蜜屋の店先で、うなじが冷えた。振り向くと、雑踏があるだけだった。だが雑踏の流れに、一箇所だけ、不自然な澱みがあった。人混みの中で立ち止まる者は店を見るか、人と話すか、荷を直すかしている。その男はどれでもなかった。どれでもないまま、次の瞬間には人の流れに溶けて、消えた。


 三番目は匂いだった。


 帰り道、風向きが変わった一瞬のことである。市場の雑多な匂い――土と藁と燻製と焼き栗――の底を細く、甘ったるい匂いが通った。花の甘さではない。蜜の甘さでもない。もっと重くて、舌の奥に張りつくような、煮詰めた果実の皮に似た甘さ。


 どこかで、知っている匂いだった。


 思い出そうとした時には風が変わって、匂いは消えていた。王都の、下町の――どの棚だったか。薬師の婆の店の、天井から吊るされた束のどれかか、それとも竈の脇の壺のどれかか。記憶の引き出しは開きかけたまま、止まった。


「お姉様? どうしたの?」


「……いえ。蜂蜜、重くありませんか」


「平気! 私が持つって言ったんだもの」


 妹は蜂蜜の壺を宝物のように抱え直した。リディアは笑ってみせて、笑いながら、頭の帳面に三つ目の項目を書き込んだ。甘い匂い、出所不明、既知感あり。要、思い出すこと。


   ◇


 異変は報告した。


 その夜、厨房の裏で、カイは焼き林檎を頬張りながら聞いた。聞き終わる頃には頬張る速度が落ちていた。


「……西の口の荷ソリな。ありゃ、こっちでも引っかかってる。三日前に入った組だ。毛皮の買い付けって触れ込みだが毛皮屋を一軒も回ってねえ」


「手が白かった」


「だろうな。うちの若いのは『傭兵くずれの臭いがする』って言ってた。……それとは別口で、南の木戸からも二人、宿場に一人。この三日で、出どころの知れねえ新顔が締めて六人だ」


 六人。リディアの帳面が静かに数字を刻んだ。


「多いのですか。雪解け前として」


「多かねえ。例年なら、な」カイは芯を火に放った。「ただ、例年の新顔は商売の匂いがする。仕入れ先を訊きゃ答えるし、宿で酒も飲む。今年のは……静かすぎる。金の使い方が旅人じゃねえ。長居する気のやつの銭の使い方だ」


「……匂いのことは」


「甘いやつな。分からん。が、覚えとく」カイは立ち上がって、尻の雪を払った。「姉ちゃん。次の外出から、俺も降りて歩く。屋根の上からじゃ、匂いまでは拾えねえからな」


 それから彼はいつもの軽口の顔に戻って、付け足した。


「安心しなよ。蜂の巣はもう順調に苛立ってる。……ただ、蜂ってのは巣を突かれてからしか刺せねえ。突かれる前に気づくのは――」


「係の仕事です」


「話が早ぇ」


   ◇


 寝る前に、リディアは白い帳面を開いた。


 新顔六人、内訳と人相。西の口の荷ソリ、無紋。視線一件。甘い匂い一件、未特定。書き終えて、ペンの尻で、こめかみを軽く叩く。甘い匂い。煮詰めた果実の皮。重くて、張りつく。……薬師の婆の店の、どの棚だったか。


 思い出せないまま、灯りを消した。


 闇の中で、隣室の妹の寝息に耳を澄ませる。規則正しい、咳のない、鍵を数えない寝息。それを確かめてから、リディアは自分に言い聞かせた。思い出せないのはまだ嗅ぎ足りないからだ。次に嗅いだら、思い出す。


 次に嗅ぐ機会がそう遠くないことだけはなぜだか、確信していた。


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