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第44話 甘い匂いの布

 機会は五日後に来た。


 医務室の薬草の買い足しだった。冬の間に湿布用の根が尽きかけ、雪解けの湿気で咳の患者が増える前に、干した葉を仕入れておく。係の仕事である。ついでに料理長から「東の婆さんの隣の蜂蜜、もう一壺」の注文が付いた。


 一行は前回と同じ顔ぶれだった。リディアとエミリア、ミレイユ、クラリス。熊の騎士は今日も「偶然」買い物に来ており――籠の中身は蝋燭だった――そして、通りの雑踏のどこかに、カイが歩いているはずだった。姿は屋敷の門を出てから一度も見ていない。見えないことが仕事をしている証拠だった。


 市場は五日前より、さらに湿ってざわめいていた。


 雪解けが進み、荷ソリの出入りが増え、通りには見慣れない旅装が目に見えて多くなっていた。街道が開き始めているのだ。リディアは薬草屋の店先で干し葉を検分しながら、頭の帳面の警戒の欄を一段、繰り上げた。


「お姉様、蜂蜜は私が行ってくる! 隣の隣だもの」


「ミレイユと一緒に」


「はーい! エミリア様、こっちこっち!」


 妹と栗色の頭が二軒先の店へ弾んでいく。距離、十五歩。間にクラリス、通りの向かいに熊の騎士。配置は決めてある通りだった。リディアは薬草屋の親父に葉の値を訊きながら、視界の端でその配置を確かめ――


 その時、風向きが変わった。


 甘い匂いがした。


 五日前より、濃かった。煮詰めた果実の皮の、重い、舌の奥に張りつく甘さ。今度は風は途切れなかった。匂いは薬草屋の乾いた匂いの底を細く、しかしはっきりと流れ続けていた。近い。リディアは葉の束を持ったまま、鼻だけで、それを辿った。風上は通りの西。荷ソリの停まる方角。


 そして、記憶の引き出しが開いた。


 王都の下町、薬師の婆の店。天井の吊り束ではない。竈の脇の、蓋つきの壺。婆はあれを客に売らなかった。買いに来る客の目つきで、売らないと決めていた。一度だけ、蓋を開けた中身を見せてもらったことがある。煮詰めた果実の皮のような、重ったるく甘い塊。眠り草の根を蜜で練ったもの。布に延ばして鼻と口を覆えば、大人でも膝から落ちる。


 ――嗅がせる薬はね、嬢ちゃん。医者は使わないよ。医者は飲ませる薬で足りるからね。


 嗅がせる薬を使うのは相手の同意を待たない人間だけだ。


 リディアは葉の束を静かに置いた。


「クラリス」


 声は張らなかった。値段の相談と同じ音量で、隣に来たクラリスにだけ届く声で言った。


「エミリアを。今すぐ。……騒がず、走らず」


 クラリスは理由を訊かなかった。一礼の角度さえいつも通りに、蜂蜜屋の方へ歩き出した。その足が三歩目を踏んだ時だった。


 通りの西で、荷崩れが起きた。


「――ぁあっと! 樽が! 樽が行くぞォ!」


 積み荷の樽が三つ、四つ、湿った雪の坂を転がった。悲鳴。飛び退く人垣。通りの人の流れが一斉に乱れて、東へ押し寄せる。見事な崩れ方だった。あまりにも見事な。樽は人のいない筋を選んで転がり、それでいて悲鳴だけは大きく、人垣は誰も潰されないまま、最大の混乱だけが起きた。


 仕組まれた荷崩れは人を殺さない。人の目を集めるだけだ。


 リディアは押し寄せる人波の中で、逆を見た。全員が樽を見ている時に樽を見ていない者だけがこの雑踏の中の、敵だった。


 いた。


 三人。人波を苦もなく泳いで、蜂蜜屋の方へ。先頭の男の手に、布。布を持つ手が白かった。


「エミリア様!」


 クラリスが走った。ミレイユが振り向き、状況を半瞬で読んで――いや、読み切れたはずはない。それでも正解の行動をした。エミリアを抱え込んで、店の奥へ突き飛ばしたのである。白い手の布が空を掴んだ。


「なっ……何よあんたら!」


 ミレイユの声が通りの喧噪を割った。熊の騎士が人垣を掻き分けてくる。遠い。荷崩れの人波が狙ったように彼の進路だけを塞いでいた。二人目の男がミレイユを弾き飛ばし、三人目が店の奥へ踏み込もうとして――クラリスと、店の親父の振り回した秤の棹に、同時に阻まれた。


 膠着は数瞬だった。


 だがその数瞬で、リディアには全部が見えた。敵は三人ではない。通りの向こうに、あと二人。荷ソリの脇に、御者がひとり。彼らの視線が結ぶ先は店の奥の妹――だけではなかった。半分がこちらを見ていた。


 そうだった。忘れるところだった。


 ――リディアがいなくなったのなら、お前が代わりだ。


 あの男の欲しいものは妹だけではない。逃げた持ち物なら、どちらでもいいのだ。むしろ、姉の方が街の護りの薄い場所に、今、一人で立っている。


 リディアはその計算を逆さに使うことにした。


「クラリス! 妹を詰所へ! 熊の旦那と!」


 声を今度は限界まで張った。張りながら、籠の底から、布に巻いた小刀を掴み出す。料理長に借りた、皮剥ぎ用の小さな刃物。買い出しの帰りに研ぎ屋へ出す約束の、よく使い込まれた一本だった。


「お姉様!?」


「エミリア!」


 店の奥の妹と、一瞬だけ、目が合った。


「大丈夫。……姉さんはこの街の地図を持っています」


 そして、リディアは走った。


 妹から、遠ざかる方角へ。市場の西、路地の入り組む古い区画へ。追っ手が二手に割れる気配を背中で聞いた。割れた。半分がこちらに来る。それでいい。妹に付く敵の数が減った。詰所までの距離なら、クラリスと熊の騎士で守り切れる数に。


 背後で、ミレイユの声が通りの全部に届く音量で炸裂した。


「人攫いー!! 街のみんなー!! 嬢ちゃんが追われてるよー!!」


 この街で、その叫びがどういう意味を持つか。蜂の巣という言葉の本当の意味を追っ手たちはこれから、身をもって知ることになる。


 リディアは路地の角を曲がった。頭の中で、地図が開いていた。初めて街を歩いた昼の道。買い出しの朝に覚えた抜け道。桶屋の裏は行き止まり、鍛冶屋の脇は抜けられる、パン屋の裏庭は塀が低い。息を整え、歩幅を計算し、追っ手の足音を数える。


 二人。いや――三人。


 角を曲がった先の路地の奥に、最初から、一人が立っていた。


 白い手に、甘い匂いの布を提げて。


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