第45話 上から、影が降った
追い込まれたのではない。追い込まれる形に、追われていたのだ。
理解は一瞬で済んだ。理解に使う一瞬すら惜しかった。前に一人、後ろに二人。路地の幅は荷車一台分。頭の中の地図が猛烈な速さで頁をめくる。この路地は桶屋の裏へ抜ける。桶屋の裏は行き止まり。ただし――右手の軒下に、薪が積んである。薪の上はパン屋の裏庭の塀。塀は低い。
そして、頭上。
リディアは走る速度を落とさなかった。落とさないまま、籠を捨て、両手で小刀の柄を握り、軒先の梁を支える突っかい棒に、体当たりするように肩をぶつけた。
棒が外れた。
軒が跳ねた。
冬中その上に溜まり、雪解けで底の緩んでいた屋根の雪が重い音を立てて、前方の男の頭上に落ちた。どけどけ、屋根の雪が来るぞ。この街で最初に覚えた怒鳴り声の意味をリディアは今、王都から来た男に、無言で教えた。
雪に膝まで埋まった男の脇を抜ける。布を持つ白い手が雪の中から掴みかかってきた。リディアは足を止めずに小刀を振った。深く裂く必要はない。皮剥ぎの刃は皮一枚を裂くための刃だ。手の甲に赤い線が走り、男が呻いて手を引っ込めた。
「っ……この、アマ……!」
「口が悪い」
薪の山に飛びつき、塀を越える。スカートの裾が引っかかって、裂けた。構わなかった。パン屋の裏庭。竈の熱気。驚くパン屋の女房に「追われています! 表へ!」とだけ叫んで、家の中の通り土間を台所の匂いごと突っ切って、表通りへ転がり出る。
通りは――もう、蜂の巣になっていた。
「いたぞ! 嬢ちゃんだ!」
「こっちだ嬢ちゃん! 走れ走れ!」
ミレイユの絶叫は市場を三周していた。露店の親父が天秤棒を構えて路地の口を塞ぎ、女房たちが桶の水を撒いて追っ手の足元を凍りかけの泥に変え、どこかの犬が誰に命じられたでもなく吠えながら参戦した。塀を越えて追ってきた男が洗濯綱に首を引っかけ、積み樽に足を取られ、それでもなお崩れない体幹で追いすがってくる。素人の街の妨害を玄人の体が捌いていく。
だがその一つ一つが時間だった。
一歩ぶんの時間。二歩ぶんの時間。リディアは数えていた。妹が詰所に入るまでの時間はもう稼いだ。ミレイユの声が屋敷に届くまでの時間も、稼いだ。あとは――あとは自分が捕まるまでの時間と、助けが来るまでの時間の、競争だった。
競争の途中に、二人目が正面から現れた。
樽の陰から、音もなく。挟まれた。右は壁、左は凍った水路。前後に男。今度こそ、地図に抜け道がなかった。
リディアは壁を背にして、小刀を構えた。
柄は両手で。刃は相手に向けて、脇を締めて。毎日厨房で刃物を使う手は少なくとも、持ち方だけは震えなかった。震えているのは膝で、膝の震えはスカートが隠してくれる。前の男がそれでも一瞬、足を止めた。素人の得物でも、正しく構えられた刃物は素手で取りに行けば必ずどこかが裂ける。玄人ほど、それを知っている。
「……手間ぁ、掛けさせやがって」
白い手の男が布を広げながら、間合いを詰めてきた。甘い匂いが路地に満ちる。もう一人が水路側へ回り込む。呼吸を二つ。取りにくる。分かる。分かっても、防ぐ手が――
上から、影が降った。
◇
音はしなかった。
屋根から降ったものが雪でないと分かったのはそれが着地と同時に横へ流れ、白い手の男の膝の裏と首筋を続けざまに打ったからだった。二つの打撃音だけが半拍遅れて聞こえた。男は声もなく、揃えた薪のように、前のめりに崩れた。
水路側の男が剣を抜いた。抜き切る前に、影はもうその懐にいた。
双つの短剣が閃いた。
リディアの目には過程が見えなかった。見えたのは結果だけだった。抜きかけの剣が凍った水路に落ち、男の体が壁に打ちつけられ、ずるりと雪に沈んだ。三呼吸。挟撃が三呼吸で、消えていた。
「――悪ぃ。遅刻」
カイが短剣を提げたまま、振り返った。
いつもの軽口だった。いつもの声だった。目だけがいつもの何倍も、暗く冷えていた。足音のない歩き方。間合いを測る目。最初の夜に厨房で見た、あの癖の正体が雪の路地に立っていた。
「西の倉で火が出た。……出された、だな。俺をそっちへ吊る餌だ。気づいて戻るのに、二筋ぶん遅れた」
「……妹は」
「詰所。無傷だ。クラリスと熊の旦那が張りついてる」カイは倒れた二人を手早く縛り上げながら、ちらりとこちらを見た。「アンタこそ、なんだよ囮って。上等なことしてくれんなよ、姉ちゃん。レオンに殺される。俺が」
「勘定の上では最適でした」
「その勘定書き、あとで燃やせ」
その時、通りの方角で、蹄の音がした。
◇
頭目は逃げていた。
荷ソリを捨て、仲間を捨て、一人だけ馬を奪って、西の門へ。市場の広場を斜めに突っ切る逃げ道は正しかった。広場は人が多く、人が多ければ騎士は矢を使えず、門までは一直線。傭兵くずれの逃げ方だった。
その一直線の真ん中に、黒鹿毛が立っていた。
広場の人垣が割れていた。詰所の階段の上で、クラリスに肩を抱かれたエミリアが口を両手で覆って、それを見ていた。リディアとカイが広場に駆け込んだのはちょうど、頭目の馬が黒鹿毛の手前で棹立ちになった瞬間だった。
レオンハルトは馬上にいなかった。
いつ降りたのか、雪の上に、ただ立っていた。剣は抜いていなかった。腰の二本、どちらにも、手すら掛けていなかった。
「……退けッ! 退かねえと――」
頭目が馬から飛び降り、剣を抜いて、斬りかかった。
自棄の一撃ではなかった。人を斬り慣れた者の、正確な袈裟だった。リディアの目にも、それは分かった。分かったから、次の瞬間が余計に分からなかった。
レオンハルトは半歩、動いた。
それだけだった。剣風が空を裂き、頭目の手首が大きな手に絡め取られ、めき、と鈍い音がして、剣が雪に落ちた。返す肘が胸に入り、頭目の巨体が雪の上に叩きつけられる。落ちた剣をレオンハルトは踏んだ。折れた。革靴の下で、鋼があっけなく。
「……殺すな」
押さえ込みに殺到した騎士たちへ、彼は静かに言った。
「縛れ。全員だ。手当ても、してやれ。……こいつらには王都で歌ってもらう」
広場がしんとしていた。
やがて、どこかで誰かが息を吐き、その息が伝染して、市場はいつもの騒がしさを恐る恐る取り戻し始めた。「見たか、今の」「半歩だぞ、半歩」「黒狼様よ」――囁きの温度は恐怖と、誇らしさの、ちょうど中間だった。
◇
「お姉様!」
エミリアが詰所の階段を駆け下りてきた。無事の確認は抱き合う速さで済んだ。妹の肩越しに、リディアはこちらへ歩いてくる黒い外套を見た。
「……無事か」
「はい。……無事、です」
答えた声は我ながら、しっかりしていた。しっかりした声のまま、礼をしようとして、できなかった。膝が笑っていた。今ごろになって、盛大に。それから、気づいた。右手がまだ小刀を握ったままだった。指が白くなるほど固く柄に巻きついて、開けと命じても、開かなかった。
レオンハルトは何も言わなかった。
大きな手が伸びてきて、リディアの右手を包み、固まった指を一本ずつ、丁寧に開いていった。親指、人差し指、中指。小刀が雪の上に落ちた。彼はそれを拾い、刃を検めて、一言だけ言った。
「……よく、借りたな。いい刃だ」
「料理長に……研ぎに、出す約束で」
「研ぎ屋には俺が出す」
空になった右手が震え始めた。震えは止まらなかったが恥ずかしくはなかった。妹が左手を握り、カイが背中のどこかで「帰ろうぜ」と言い、黒鹿毛が鼻を鳴らした。雪解けの広場の上で、フォートセバーンの午後の空は何事もなかったような色をしていた。




