第46話 雪解けの音
屋敷はその夜、いつもの倍の音量で騒がしかった。
無事の帰還を確かめる騒がしさである。ミレイユは自分の武勇伝――絶叫一回、突き飛ばし一回――を夕食の席で都合五回語り、回を重ねるごとに追っ手の人数が増えた。クラリスは「六人です。増えません」と訂正し続け、ノエルは「ミレイユの声、屋敷まで聞こえましたよぉ。窓が震えてました」と燃料を注いだ。料理長は全員の皿を問答無用で山盛りにし、「怖い目に遭った日は腹から埋めるんだよ」と宣言した。
その騒ぎの真ん中で、エミリアが身を乗り出した。
「あのね、あのね、私、見たの! 詰所の窓から! カイさんが屋根の上を、こう、しゅっ、て! しゅって!」
「嬢ちゃん、擬音が多い」
「だって本当にしゅってしてたんだもの! カイさん、あんなに強かったの!? 私、カイさんはお話が上手な人だとばっかり……!」
「お話も上手なんだよ、俺は」
カイは林檎を齧りながら、いつもの軽口で受け流した。受け流された質問をリディアは夜更けの厨房の裏で、もう一度だけ拾った。焼き林檎の礼を届けに行った先で、彼は独りで短剣の手入れをしていた。双つの刃を几帳面に、布で。
「……その短剣はどこで」
「ん? ああ」カイは手を止めず、刃の腹を灯りに透かした。「親父の形見。……残ったのは、これ二本だけ。研ぎ方は、ジジイに叩き込まれた」
それだけだった。
それ以上は語られず、リディアも訊かなかった。この街の作法はもう身についている。過去は一晩に一滴まで。ただ、几帳面に布を使う手つきが雪の丘で墓石の溝を掻いていた誰かの手つきと、少しだけ重なって見えた。
◇
「――吐き始めています」
翌朝の執務室で、セバスティアンが報告した。
「六人のうち、口の軽い者から順に。雇い主の名は末端は知りません。ですが金の流れは王都、繋ぎの男の人相は一致して三人が証言。頭目に至っては前金の額と、成功報酬の受け取り場所まで」
「受け取り場所は」
「王都の、とある両替商でございます。……灰鷹館の家令ハインツめが年に四度、決まって出入りする店でございました」
執務室の空気が一段、冷えて締まった。
レオンハルトは机の上の調書を見下ろした。昨日までと、机の上の風景が変わっていた。剣の手入れ道具の代わりに、書類箱。地図の代わりに、証言の束。
「カイの調べと、掃除女の証言と、昨日の六人。……線が繋がってきたな」
「はい。ですが旦那様、まだ『侯爵本人』には届きません。ハインツで、一枚壁がございます」
「壁は崩す。ここからは剣の戦ではない。……書類の戦だ」
その言葉をリディアは机のこちら側で聞いた。聞きながら、白い帳面の上に手を置いた。悪評の記録。検分の記録。そして昨日、罠の記録が加わった。刃の出どころを刺しに戻る日が思っていたより早く、近づいている。
「私の帳面も、その戦列に加えてください」
「……ああ」レオンハルトは頷いた。「最初から、そのつもりだ」
◇
その夜、リディアは医務室にいた。
昨日の分の記録がまだ終わっていなかったのである。本日の傷、と書きかけて、日付を直す。昨日の傷。ミレイユ、左肘擦過、処置済み。クラリス、なし。カイ、なし。エミリア、なし――ただし夜間の観察を要す、と書いて、その一行を結局、線で消した。妹は昨夜、鍵を一度も確かめずに眠った。観察は要らなかった。
自分の欄が残った。
右手、なし。左手、なし。膝、打撲なし。……震え、半刻。リディアはそこまで書いて、ペンを止めた。震え、半刻。これは傷の欄に書くべき項目なのか。それとも。
扉が控えめに叩かれた。
「……起きているか」
レオンハルトだった。夜着の上に上着を羽織った、見回りの途中の格好で、彼は戸口に立っていた。手には布に包んだ細長いものが一つ。
「研ぎ屋が仕上げた」
布の中身はあの小刀だった。刃は打ち直したように光り、柄には新しい革が巻き直されていた。皮剥ぎ用の古い小刀に施す手当てとしては明らかに、過剰だった。
「……ずいぶん、立派になって帰ってきましたが」
「研ぎ屋が張り切った。文句はそっちへ言え」
「料理長が返してくれなくなります」
「なら、お前が持て」
その言い方があまりにも当然の帳尻のように置かれたので、リディアは反論の時機を逃した。逃してから、これは反論すべき事案だったのかどうかも、分からなくなった。小刀を検分するふりをして、俯く。刃に、医務室の灯りが映った。
「……昨日の」
レオンハルトが言った。戸口に立ったまま、入っては来ずに。
「囮の件だ。次はやめろ」
来た、と思った。カイに予告された叱責だった。リディアは小刀を置いて、背筋を伸ばした。
「お断りします」
「…………」
「あの場ではあれが最適でした。妹に付く敵を減らし、私は地図のある場所へ敵を引く。勘定は合っています。閣下も、同じ勘定をなさるはずです。……いいえ、なさっています。『俺が行けば、他の者が死なずに済む』――あなたの、いつもの勘定と、同じものです」
沈黙が長かった。
いつもの渋滞ではなかった。反論を探して、見つからず、探し直して、また見つからない――自分の帳簿を突きつけられた者の、沈黙だった。やがてレオンハルトは片手で自分の眉間をぐ、と揉んだ。この男が困り果てた時にだけ出る、珍しい仕草だった。
「……理屈は合っている」
「はい」
「合っているから、腹が立つ」
「はい」
「……せめて」
彼は眉間から手を離した。猛禽の目がまっすぐに、こちらを見た。
「せめて、俺の届く場所でやれ。それだけだ」
言い捨てて、彼は行こうとして、思い出したように付け足した。
「……無事で、よかった」
それだけを置いて、扉が閉まった。
リディアはしばらく、動けなかった。
それから、帳面に目を落とした。震え、半刻。書きかけの欄の下で、心臓が静かに、速かった。昨日、広場で見た半歩を思い出す。手首の骨の音。踏み折られた剣。あの強さは怖い。今でも怖い。あの人の怖さの底が自分にはまだ見えていない。
けれど。
この人は怖い。けれど、その怖さは私たちを傷つけるためではなく、守るためにある。昨日、囮に走った自分をこの人は「理屈は合っている」と認めて、そして腹を立てた。認める公正さと、腹を立てる何かとを両方、寄越した。届く場所でやれ、と言った。届く場所に、いてほしいのだ。この、説明の絶望的に足りない人は。
速い鼓動をリディアは帳簿をつける目で検分した。
この科目の名前を係はもう、知っている気がした。知っていて――まだ、書かなかった。書いてしまえば、この帳面はもう、ただの医務記録には戻れない。もう少しだけ、この鼓動は記録外に置いておく。
震え、半刻、の欄だけを線で消して、リディアは帳面を閉じた。
◇
白い帳面にはその夜、こう記した。
罠、一件、不発。生け捕り、六名。証言、王都へ繋がる線、あり。当方の損害、擦過傷数件と、スカート一着。……反撃の支度、整いつつあり。
窓の外で、また、屋根の雪の落ちる音がした。
朝までに幾つも続くだろう、その音を聞きながら、リディアは思った。雪解けはもう、誰にも止められない。灰色の鷹の館の、長い長い冬も――たぶん、同じだった。




