第47話 証言という戦い方
執務室の机から、剣の手入れ道具が消えて、十日が経った。
代わりに机を占めているのは書類箱三つと、証言の束と、王都の地図である。街道の地図ではない。貴族街の区割り図だった。どの通りに誰の屋敷があり、どの筋に両替商が店を構え、王宮のどの門から請願が入るのか――剣を吊るしていた壁の釘に、いまは畳んだ図面が掛かっている。
窓の外の音も、変わった。
屋根の雪の落ちる音はもう数えるほどしかしない。代わりに、軒先から滴の落ちる音が朝から絶え間なく続いている。ぴ、ぴ、と規則正しいその音をリディアは指を折って数えるのをやめた。数えても仕方がない。雪解けはもう、誰にも止められないのだ。こちらにとっても――あちらにとっても。
机の端では灰色の猫が書類箱の一つを寝床と決めて丸くなっていた。
「旦那様。小口の取引先が調書の上で営業しております」
「構わん。重石になる」
レオンハルトは目も上げずに言った。猫は開き直った顔で尻尾を巻き直した。定期報告はこのところ毎日ある。屋敷の誰かが言い出した――戦の支度をしている部屋にはああいうのが一匹いた方がいい、と。誰も猫を追わなくなった。
その戦支度の卓に、セバスティアンが一冊の綴りを置いた。
「では現在の戦列を申し上げます」
銀縁の眼鏡を押し上げ、老執事は綴りを開いた。声はいつも通り丁重だった。読み上げる内容だけが丁重ではなかった。
「柱は七本。一、二十年前、エヴェリーナ様を強引に娶った経緯。実家筋の没落と引き換えの、事実上の取り立てであった証文の写し。二、十六年前、ルシアン・ベルフォード様を事故死と偽って王都より追放した件。当時の検分記録に不審の残る箇所、三つ。三、リディア様とエミリア様への、十年に及ぶ冷遇の証言。四、使用人ぐるみの虐待と、その隠蔽。五、エミリア様への、後見の名に値せぬ執着。六、社交界における悪評の流布工作。七――」
セバスティアンは頁を一枚繰った。
「先日の、誘拐未遂への関与でございます」
執務室は静かだった。滴の音だけが続いていた。
「六人の証言は揃いました。前金の額、繋ぎの男の人相、成功報酬の受け取り場所。受け取り場所の両替商には灰鷹館の家令ハインツめが年に四度、出入りしております。ここまでは線が一本で繋がっております。――ですが」
「ハインツで、止まるか」
「はい。家令が独断でやったこと、と言い張られれば、侯爵本人の首元にはあと指一本、届きませぬ」
カイが窓枠から腰を上げた。この十日、彼は屋敷と街とを日に何度も往復している。雪の緩んだ屋根はもう走れないから、地面を走る。地面を走る彼をリディアは初めて見た気がした。
「繋ぎの男は街を出た。南だ。雪解け前の峠を無理して越えた――よほど急ぎの報告らしい。しくじりました、ってな」
「ならば灰鷹館はもう知っておりますな。罠が不発に終わり、六人が生きて捕らわれたことを」
「知ってるだろうよ。で、次を考えてる。六人の口を塞ぐか、証言ごと握り潰すか、先に泣きつく相手を見つけるか。……なあ、レオン。悠長に書類なんか積んでる場合か? 俺なら」
「カイ」
レオンハルトは短く遮った。
「剣なら、俺が行けば済む。行って、済ませて――それで、あの家の名だけが残る。名が残れば、いつかまた、誰かの後見人を名乗る。同じことを別の娘にやる」
彼は机の上の証言の束に、手を置いた。
「根を断つ。だから、書類の戦だ」
「……分かってるよ。分かってて言ってんだ」
カイは頭を掻いて、窓枠に戻った。分かっていて言う、というのがこの少年の優しさの型であることをリディアはもう知っている。剣で済むなら一晩で済むのに、という苛立ちはそのまま、姉妹のために苛立ってくれているということだった。
「セバスティアン。直上申の支度は」
「整っております。国境守護の職にある辺境伯には貴族家門の異状を王宮へ直に上申する権限がございます。上申が受理されれば、王宮は審問の場を開かねばなりません。両替商の帳簿も、王宮の印があれば開きます。ハインツめの壁は王宮の査察が崩しましょう」
「受理される見込みは」
「柱が七本もあれば、王宮も無視はできませぬ。……ただし、旦那様」
セバスティアンはそこで初めて、綴りを閉じた。
「審問は開かせるだけでは勝てませぬ。灰鷹館は名門。使用人の口はいくらでも金で作り直せますし、掃除女の証言一つなら、『解雇を恨んだ者の讒言』の一言で消されます。外から集めた証言は外からしか、あの家を撃てませぬ。あの家の腹の中を撃てる証言は――」
老執事は言葉を切った。
切って、リディアの方を見なかった。見ないという形で、見た。レオンハルトも、目を上げなかった。机の一点を睨んだまま、動かなかった。眉間の筆が深い。この部屋にいる全員が同じ一つの結論を手にしていて、誰もそれをテーブルの中央に置きたがらなかった。
だから、リディアが置いた。
「私が書きます」
滴の音の間に、自分の声は思ったよりも静かに落ちた。
「あの家の帳簿の上で、私とエミリアに何が支給されていたことになっていたか。実際には何が届いていたか。薪の数、食事の皿数、侍女の頭数。マルタが客人の前でどんな嘘を用意し、その嘘をハインツがどう黙認したか。誰が命じ、誰が実行し、誰が廊下で目を逸らしたか――名前と、場所と、時期。全部、覚えています」
「…………」
「忘れられたら、どんなによかったかと思うくらい、覚えています。私は十八年、あの家の帳簿の裏側で生きてきました。あの家を内側から知る人間はこの世に、私とエミリアの二人しかいません」
レオンハルトがようやく目を上げた。
「……書けば、思い出すことになる」
「はい」
「十八年ぶんを一度、全部だ」
「はい。存じています」
リディアは背筋を伸ばした。鎧の継ぎ目が軋む音を自分で聞いた。それでも、この言葉だけは継ぎ目からではなく、まっすぐ胸の真ん中から出したかった。
「以前、申し上げました。私の十八年をお使いください、と。あの時あなたは私に『隣に立て』とおっしゃいました。……隣に立つというのはこういう日のためです、閣下。盾の内側で守られている者の記憶は証言になりません。隣に立っている者の記憶だから、刃になるんです」
沈黙は長かった。
いつもの渋滞かどうか、リディアには判別がつかなかった。レオンハルトは机の上の証言の束を見て、壁の区割り図を見て、それから書類箱の上の猫を見た。猫は何の役にも立たない顔で寝ていた。何の役にも立たないものが一つ部屋にあることがたぶん、この十日、この部屋の全員を少しずつ救っていた。
「――セバスティアン」
「はい」
「紙を。上等なのを束で。ペンも、替えの先も」
「昨日のうちに、リディア様のお部屋に運んでございます」
「…………」
「執事でございますので」
レオンハルトは眉間を揉んだ。それから立ち上がり、机を回って、リディアの正面に立った。猛禽の目がまっすぐに、こちらを見下ろした。怖い目だった。この怖さの勘定なら、もう、済んでいる。
「リディア」
「はい」
「頼む」
ひと言だった。ひと言に、この男は全部を入れてくる。頭を下げも、飾りもしなかった。ただ、当主が戦友に武器を頼む時の顔で、彼はそう言った。リディアはその受け取り方をもう知っていた。
「お任せください。……係ですので」
「傷を数える係がいつから証言の係になった」
「本日づけです。辞令は結構です。自分で出しましたので」
窓の外で、ひときわ大きく、雪の塊が屋根を滑り落ちる音がした。今年最後の一つかもしれない、と思わせる、重い音だった。カイが窓の外へ目をやって、ふん、と鼻を鳴らした。
「……罠は仕掛ける側が期限を切った時は期限より早く来る。俺がそう言ったの、覚えてるか」
「覚えています」
「今度はこっちが仕掛ける側だ」レオンハルトの相棒はにやりと笑った。「期限は雪解け。――向こうが切った期限だ。きっちり、期限より早く行ってやれ」
その夜から、リディアの部屋の灯りは屋敷でいちばん遅くまで点いているものになった。
上等な紙の束の一枚目に、彼女はまず、こう書いた。
グレイヴァルド侯爵家における十八年の記録。記録者、リディア。
家名は書かなかった。




