第48話 二人の机
証言の書き方には作法があった。
「感情は書かれませんように」
初日の夜、セバスティアンは談話室の机に紙束を揃えながら、そう言った。
「お辛かった、悔しかった、悲しかった――それらは全て、審問の場では『恨みによる誇張』の疑いに化けます。書かれるのは事実のみ。日付、場所、人名、数量。感情の入らない事実だけが割れない刃でございます」
「……つまり、帳簿ですね」
「左様でございます」
「なら、得意分野です」
リディアは袖をまくった。実際、最初の数日は得意分野だった。
書き方はこう決めた。まず年で区切る。年の中を季節で区切る。季節の中に、項目を立てる――食事、薪、衣類、侍女、医者、そして、言葉。支給されたことになっていたものを左に、実際に届いたものを右に書く。左右の差がそのまま罪の寸法になる。
左、冬季の薪、日に十本。右、三本。雪の夜は二本。
左、食事、一日三度。右、二度。遅れること常。忘れられること、月に数度。八歳の冬、丸一日忘れられた日が三日――日付は覚えている。母の喪が明けた月だった。
左、侍女、姉妹に各一名。右、零名。「お嬢様方がご自分でなさるとおっしゃいましたので」――侍女頭マルタが客人の前で用いた定型の言葉。実際には命じられて誰も来なかった。命じたのは誰か。侍女頭である。黙認したのは誰か。家令ハインツである。ハインツが使用人に言った言葉、「余計な世話をするな」。聞いた場所、東の配膳室の前の廊下。聞いた時期、母の死んだ年の秋。リディア、当時八歳。
ペンは進んだ。進むことが恐ろしいほどだった。
忘れていなかった。何ひとつ、忘れていなかった。日付も、皿の数も、廊下で目を逸らした使用人の顔も、目を逸らす直前の一瞬の迷いも。厨房係のベルトが皿に盛る前に鍋から取り分けて減らしたことも、その皿がいつも冷めていたことも、冷めた芋を温め直す竈の借り方も。忘れたと思っていたものは一つもなかった。帳簿係は貸し倒れを消さない。消したつもりの頁も、めくれば全部、残っていた。
「リディア様ぁ、夜食でーす。料理長が頭を使う夜は甘いものだって」
ミレイユが盆を運んでくる。談話室の扉はいつも通り開け放してある。作法であり、保険であり――このごろは命綱でもあった。開いた扉から屋敷の音が入ってくる。厨房の鍋の音、ノエルの眠たげな鼻歌、カイが廊下で猫に説教する声。書いているのは灰鷹館の十八年でも、書いている場所はアッシュフォード邸なのだと、音が思い出させてくれる。
「あ、そうだ。あたしの証言も要ります? 絶叫一回、突き飛ばし一回」
「それはもう調書に載っています。六回目の武勇伝は結構です」
「ちぇ」
ノエルは湯気の向こうから帳面を覗き込んで、のんびりと毒を吐いた。
「わあ。ひどい家ですねぇ。……リディア様、今夜のぶんを書き終わったら、ちゃんと湯たんぽを抱いて寝てくださいね。ひどい家のことを書いた手は冷えますから」
おっとりした毒舌はいつも通り、いちばん深いところに正確に届いた。手は冷えた。書いても書いても、指先だけがあの北棟の廊下の温度に戻っていくのだった。
◇
エミリアが談話室に来たのは四日目の昼だった。
リディアは反射的に、書きかけの頁を伏せた。伏せてから、遅かったと知った。妹はまっすぐに机の前へ来て、伏せられた紙と、姉の顔とを順番に見た。
「……お姉様。私にだけ隠し事をする時、左の眉が下がるの、知ってた?」
「知りません。初耳です」
「私は知ってるの。十六年、見てきたもの」
エミリアは胸の前に、一冊の帳面を抱えていた。見覚えがあった。灰鷹館の朝に、リディアが検分の記録を書きつけた、あの帳面だった。妹に渡してあった。渡したことを少しだけ後悔した。
「セバスティアンさんに聞いたわ。王宮に出す証言をお姉様が書いてるって。……私も書きます」
「エミリア」
「私の検分の記録、ここにあるでしょう? 打撲はなし、あかぎれ五つ、薪は残り三本――お姉様が書いてくれたもの。でもこれ、最後の朝の分だけよ。その前の二か月半は私しか知らないわ。お姉様が行ってしまってからの灰鷹館は私しか、知らない」
「あなたは思い出さなくて、いいのです」
声が素に落ちた。落ちたことに、自分で気づいた。
「あなたはやっと、鍵を確かめずに眠れるようになったばかりです。やっと、夜中に三つ編みを編まずに眠れるように――あの二か月半をいま紙の上でもう一度歩かせるなんて、私は」
「お姉様」
エミリアは遮った。遮り方が静かだった。
「お姉様はいつも、私の分まで痛がるのね」
「…………」
「前に、言ったでしょう。守られてるだけの子じゃ、いたくないって。震えてても、いい? って聞いて、私、ちゃんと立てたでしょう? ……あれと、同じ。私の二か月半は私のものよ。私が自分の手で、終わらせたいの。だから」
妹は帳面を机の上に置いた。姉の紙束の、すぐ隣に。
「震えながら書いても、いい?」
リディアは長いこと、妹の顔を見ていた。
菫色の目は潤んでいた。潤んだまま、逸れなかった。この目を姉は知っていた。知っているどころではない。毎朝、鏡の中で見てきた目だった。
「……クラリスに頼んで、稽古の時間を半分、こちらに回してもらいます。書き方の作法は私が教えます。感情は書かない。日付と、場所と、名前だけ」
「うんっ」
「泣いたら、その日は終わりにします。翌日に回す。いいですね」
「うん。……お姉様も、よ?」
「私は泣きません」
「お姉様も、よ」
妹は繰り返して、姉の隣の椅子に、当然の顔で座った。その日から談話室の机は二人分になった。姉の頁の左右には支給と実際が、妹の頁には二か月半の夜の数と、鍵の音の数が並んでいった。
◇
手が止まったのは七日目の夜だった。
妹はもう休ませた後で、談話室にはリディア一人だった。書いていたのは十年前の冬――母が死んだ年のエミリアの高熱の夜のことだった。
左、医者。侯爵家の姉妹が高熱を出した場合、往診、即日。
右。
右の欄が書けなかった。
事実だけを書く。作法は分かっている。右、医者、来ず。理由、家令ハインツ曰く「旦那様のお許しがありません」。以上、二行。二行で済む。済むはずの二行の手前で、ペンが動かなくなった。
あの夜の寒さが手に戻ってきていた。六歳の妹は火のように熱く、八歳の姉の手は氷のように冷たく、廊下は長く、頭を下げた先の家令の顔は退屈そうだった。退屈そうだった、は感情か、事実か。書けない。あの夜、姉は生まれて初めて人に土下座というものをして、それでも医者は来ず、朝までかかって、下町で聞き覚えたやり方で熱を下げた。それが全ての始まりだった。薬草の煎じ方も、看病も、係も――全部、あの夜、医者が来なかったから始まった。
ペン先が紙の上で、小さく震えていた。
インクが一滴、日付の横に落ちて、丸く滲んだ。
足音が来た。
いつもの、階段の軋む音を確かめるような、重い足音だった。開け放した扉のところで音は一度止まり、それから、入ってきた。レオンハルトは何も言わなかった。何も言わずに机を回り、リディアの隣の椅子――昼間は妹が座っている椅子を引いて、腰を下ろした。手には、自分の書類の束。彼はそれを机に置き、一枚目を取って、読み始めた。
それだけだった。
何も訊かれなかった。進んだか、とも。手が止まっているな、とも。大丈夫か、とも――この人はそういうことを訊かない人だった。訊く代わりに、夜の見回りの経路を変えて、書類をここへ運んでくる人だった。隣で紙のめくれる音がする。それだけのことが部屋の温度を一度だけ上げた。
「……閣下は」
「ん」
「お仕事中では」
「場所は選ばん」
それきり、会話は絶えた。絶えたまま、不思議と、気詰まりではなかった。リディアは滲んだインクの丸を見下ろし、それから隣の男の手元を見た。彼が読んでいるのは騎士団の名簿らしかった。留守中の街の警備の割り振り。この人はこの人の戦支度を私の隣へ持ってきた。説明は例によって、絶望的に足りない。足りないが――もう、誤読はしなかった。
リディアはペンを取り直した。
右、医者、来ず。理由、家令ハインツ曰く「旦那様のお許しがありません」。なお当夜、姉が民間の処置にて解熱。以後十年、姉妹に医者が呼ばれた記録は零。
書けた。
書き終えて、息を吐くと、隣から、ぼそりと声がした。
「……厨房に、火が残っていた」
机の端に、いつの間にか、湯気の立つ椀が置かれていた。蜂蜜入りの山羊の乳だった。就寝時の定番をこの時間に、この男が自分で運んできたのだ。盆も使わず、椀一つを無骨に掴んで。
「料理長が起きていた」
「嘘をおっしゃい。料理長はとっくに休んでいます」
「…………」
「……いただきます」
甘い乳は指先から温めてくれた。北棟の廊下の温度がゆっくりと、手から抜けていった。
◇
証言は十日で成った。
姉の分が四十二枚。妹の分が九枚。白い帳面から悪評の記録が三枚、検分の記録が二枚。セバスティアンが外部の証言と突き合わせ、日付の照合に三晩をかけた。掃除女の証言と妹の頁は鍵の音の数まで一致した。買収で作った証言は互いに矛盾するが事実は矛盾しない。五十六枚の紙束はどこから斬りつけても、切り口が同じだった。
最後の一枚を綴じた夜、リディアは白い帳面に、短く記した。
証言、成る。五十六枚。震えて中断した日、姉妹合わせて四日。ただし翌日に必ず再開。……刃の出どころへ、刺しに戻ります。
窓の外では軒の滴の音がいつの間にか、側溝を走る水の音に変わっていた。
雪解けが街道の南から、灰色の鷹の館へ向かって、歩き出していた。




