第49話 王都、裁定の間
出立の朝は晴れた。
峠の雪が馬車を通すようになった、その三日後である。門前には二台の馬車と騎馬が並び、屋敷は総出だった。行くのは四人――リディア、レオンハルト、セバスティアン、それに頬に古傷のある熊のような騎士。護衛の騎馬が六騎つく。
「セバスさんまで行ったら、屋敷の飯の時間、誰が仕切るんだよ」
「カイ。それは執事の職務の百分の一でございます。残りの九十九も、あなたに置いて参ります」
「聞いてねえぞ、そんなの」
言いながら、カイの目は笑っていなかった。笑っていない目のまま、彼はレオンハルトの前に立ち、先回りして言った。
「言われる前に言っとくぞ。――俺が留守番なら、アンタらは安心して留守にできる。逆は無理だ。だろ?」
「……ああ」
「一言一句、覚えてたからな、あれ。二度も言わせんな、恥ずかしい」
カイはふん、と鼻を鳴らして、それからリディアの方へ顎をしゃくった。
「アンタ。嬢ちゃんのことは心配すんな。街ごと預かる。……アンタはアンタの戦だけしてこい」
「はい。お任せします」
任せます、の一言に、カイは一瞬だけ、真顔になった。真顔の意味を訊く前に、彼はもう猫を追い払う仕草で背を向けていた。任される、ということに、この少年はまだ慣れていないのかもしれなかった。
ガスパルは馬車の車輪を蹴って建付けを検分してから、リディアに酒臭くない息で言った。
「嬢ちゃん。土産はいらねえぞ」
「買いません。物見遊山ではありませんので」
「いや、あるな、一つ」庭師は無精髭を掻いた。「手ぶらで帰ってこい。あの家のもんは恨みも、未練も、勝ち誇りも、何一つ持って帰るな。……ここの庭に植えていいのはここで育つもんだけだ」
深いのか浅いのか分からない格言もどきはいつも通り、荷物の一番上に載った。
最後がエミリアだった。
妹は姉の外套の襟を直した。二か月半前、灰鷹館の朝に、姉が妹の襟を直した手つきと、同じ手つきだった。順番が逆になっていた。
「いってらっしゃい、お姉様」
「……ええ」
「私の九枚、ちゃんと届けてね。それから――」妹は少し背伸びして、姉の耳元で言った。「帰ってきたら、煮込みを作って。熱はないけど」
「熱がなくても作る約束でしたね。承ります」
エミリアは頷いて、それから馬車の脇のレオンハルトを見上げた。怯えはもうどこにもなかった。
「レオンハルト様。お姉様をお願いします」
「ああ」
「あのね、お姉様は平気な顔で無理をなさいます。閣下と、おんなじです」
「…………」
「ですから、おんなじ同士、ちゃんと見張り合ってくださいね」
レオンハルトの眉間に筆が一本立ち、見送りの列のどこかで、ミレイユが盛大に噴き出した。馬車の扉が閉まる寸前まで、屋敷は騒がしかった。騒がしいまま、送り出された。それがこの家の作法だった。
◇
街道は十日、南へ下った。
行きと同じ日数で、まるで違う道だった。十八年住んだ王都から十日かけて北へ運ばれた冬の初めの自分をリディアは馬車の窓越しに、ときどき思い出した。あの時、窓の外は日ごとに寒くなり、心細さは里程標ごとに積もった。いまは逆だった。日ごとに雪は減り、五日目に畑の黒い土が現れ、七日目に川は解けた水で膨れて走っていた。
解けて南へ走る水と、同じ方角へ、馬車は進んでいた。
「……妙な気分です」
「ん」
「この道を私は『売られていく道』だと思っていました。同じ道がいまは」
言葉を探して、窓の外の川を見た。答えの代わりに、向かいの席から、短い声が来た。
「道は変わらん。変わったのはお前だ」
説明の足りない男の、説明の足りない一言だった。リディアは膝の上の書類鞄を少しだけ抱え直した。鞄の中には五十六枚。十八年が日付と名前に整理されて、静かに入っている。心細さの代わりに、重さがあった。重さは悪くなかった。
◇
王都ヴァイスブルクは春の埃の匂いがした。
城門をくぐった時、リディアは自分でも意外なほど、何も感じなかった。正確には――街が記憶より小さく見えた。白亜の王城も、貴族街の尖った屋根も、寸法は変わっていないはずだった。変わったのは物差しの方だと、遅れて気がついた。この街の物差しは血筋と、噂と、体面でできている。その物差しで測られることがもう、怖くなかった。測られて困る値札をもう、下げていなかった。
王宮には翌朝、正面から入った。
裏口も、伝手も、袖の下も使わなかった。国境守護の辺境伯が職権による直上申を携えて正門から入る――それ自体が王宮への最初の口上だった。式部の官吏が三人がかりで応対に出て、レオンハルトの顔を見て青ざめ、セバスティアンの差し出した上申書の分厚さを見て、もう一度青ざめた。
「じょ、上申の要旨は」
「グレイヴァルド侯爵家の家門の異状について。詳細は添付の通り」
セバスティアンは恭しく、しかし一切の受け取り拒否を許さない角度で、綴りを官吏の手に載せた。
「証言五十六枚。証文の写し、十二通。誘拐実行犯六名の調書、一式。……なお六名の身柄は当家が保全しております。王宮のお調べにはいつなりと」
官吏の喉が上下した。辺境伯領からの直上申はこの官吏の在職中、一度もなかったはずである。前例のない書類は前例のない速さで、上へ運ばれていった。
沙汰は三日で下りた。異例の速さだった。
審問、開廷。場所、王宮西翼の裁定の間。当事者たるグレイヴァルド侯爵オスヴァルト、ならびに家令ハインツ、侍女頭マルタに召喚状。証人として、辺境伯レオンハルト・アッシュフォード、ならびに――リディア・フォン・グレイヴァルド。
召喚状の自分の名をリディアは宿の灯りの下で、長いこと見ていた。
フォン・グレイヴァルド。書類の上ではまだ、あの家の名が付いている。この名で呼ばれて、あの家の証言台に立つ。それでいいのだ、と思った。あの家の名を名乗ったままの私が証言するから、刃が通る。名を捨ててからではそれは外からの石つぶてに過ぎない。内側にいた者の名のまま、内側の帳簿を開く――それが係の最後の職務だった。
「……三日後、ですね」
同じ召喚状の写しは今ごろ、貴族街の奥の灰色の館にも届いているはずだった。
二十年、書類の上で人を殺してきた男が生まれて初めて、書類に呼び出される側に回った夜だった。
◇
裁定の間は石の匂いがした。
王宮西翼の天井の高い広間である。正面の壇に裁定卿が三人。白髪の主席裁定卿を中央に、左右に書記官が並び、壁際には傍聴の席が二列。窓は高い位置にしかなく、春の光は床に届く前に灰色になった。灰鷹館の廊下と、同じ色だった。この色の中で育った、とリディアは思った。この色の中で、終わらせる。
被告側の席に、三人がいた。
オスヴァルト・フォン・グレイヴァルドは完璧な礼装で座っていた。所作は完璧で、背筋は完璧で、目つきだけが記憶のままだった。その斜め後ろにハインツ。細い目は伏せられ、痩せた手は膝の上で組まれている。マルタはきつく結い上げた髪の生え際まで白くして、座っていた。
傍聴席の最前列に、兄が二人、並んでいた。
アルノルトは彫像のように動かなかった。ファビアンは笑っていなかった。そんな次兄の顔をリディアは初めて見た。
「――開廷いたします」
主席裁定卿の声は乾いていた。
「辺境伯レオンハルト・アッシュフォード卿の直上申に基づく、グレイヴァルド侯爵家の家門異状の審問である。上申の柱は七本。順に検める」




