第50話 帳簿は嘘をつきません
午前は外側から進んだ。
証文の写しが読まれた。二十年前、エヴェリーナの実家の負債が婚礼の同月に灰鷹館の帳簿から消えている記録。十六年前の検分記録の不審、三箇所――事故死とされた騎士の「遺体」を検めた医師の署名が当日王都にいなかった医師のものであること。
誘拐実行犯六名の調書が読まれた。前金の額。繋ぎの男の人相。成功報酬の受け取り場所たる両替商。そして王宮の印によって開かれた、両替商の台帳。
「台帳によれば、当該の口座は家令ハインツの名義。原資は年に四度、灰鷹館より補充されている」
「発言を」
オスヴァルトが立った。声は冷たく整っていた。
「その口座は家政の運用のため、家令に一任したものです。運用の中身までは当主は関知しません。忠実と信じた家令が万一その金で不埒を働いたのであれば――」彼は振り返りもせずに言った。「それは家令の罪であり、監督の甘さは認めましょう。だがそれだけのことです」
ハインツの伏せた目が一度だけ、主の背中を見た。二十数年仕えた家令を主は振り返りもせずに、壁の外へ置いたのだった。
壁だ、とリディアは思った。セバスティアンの言った通りの場所に、言った通りの壁が立った。外からの証拠はここで止まる。家令の独断――その一言は外からは崩せない。
◇
午後の最初の証人は意外な方角から現れた。
「バルテル伯爵夫人。証言席へ」
衣擦れの音も優雅に、夫人は進み出た。冬にフォートセバーンの雪道を歩いた人と同じ人物とは思えない、完璧な王都の装いだった。
「夫人は昨年来、社交界において、グレイヴァルド家に関わる風説の流布に接しておられる。仔細を」
「はい。この冬に入ってから、幾つかの茶会で、繰り返し同じお話を伺いましたの。グレイヴァルドの三女は辺境伯に取り入った、四女も母親の血を引いている、アッシュフォードは醜聞を政治の種にしている――出所の分からぬお話にしては言い回しがどの茶会でも一言一句、揃っておりましたこと」
「出所に、心当たりは」
「わたくしの席まで、その『お話』を運んでいらしたのはいつも同じ筋の方々でしたわ。灰鷹館の、遠縁と、お出入りの」
夫人は扇を開き、静かに閉じた。
「わたくし、確かめない話を運ばない主義ですの。ですから冬に、自分の足でフォートセバーンへ参りましてよ。……見て参りましたわ。取り入ったと言われた娘が街の者に名前で呼ばれるところ。囲われていると言われた娘が辺境伯の隣で客をあしらうところ。王都の物差しでは測れないものを測れないままに」
夫人は初めてリディアの方を見た。
「見たままを報告しているだけですのよ。……申しましたでしょう。報告のしがいはございますこと、と」
どちらの意味の報告か、あの雪の日には言わなかった人がいま、王宮の石の間で言った。敵でも味方でもなく、ただ、目盛りの正確な物差しとして。リディアは浅く、深く、頭を下げた。夫人は受け取った会釈を扇の陰に仕舞って、席へ戻った。
◇
「――次の証人」
主席裁定卿が書面から目を上げた。
「リディア・フォン・グレイヴァルド」
立ち上がる時、膝が小さく震えた。
震えながら書いても、いい? ――妹の声を思い出した。いい、と姉は思った。震えながら立っても、いい。止まりさえ、しなければ。証言席までの十二歩をリディアは背筋を伸ばして歩いた。歩きながら、視界の端に、原告席のレオンハルトが見えた。彼は身じろぎもせず、こちらを見てもいなかった。ただ、そこにいた。届く場所に。
「証人は当家門の三女である。……証言の前に、確かめる。証人と侯爵家の間には恨みの因が数多あろう。証言に、私情はないか」
「ございます」
リディアははっきりと言った。裁定の間が微かにざわめいた。
「私情なしに、あの家の十八年を語れる者はこの世におりません。ですから私は私情を全て、宿に置いて参りました。ここで申し上げるのは日付と、場所と、名前と、数量のみです。私情と違って、それらは突き合わせて検められますので」
主席裁定卿の白い眉が僅かに動いた。
「……始めよ」
リディアは五十六枚の写しの、最初の頁を開いた。
「支給の記録から申し上げます。灰鷹館の家政簿の上で、私と妹に支給されたことになっていたものと、実際に届いたものの、差でございます」
声は揺れなかった。読み上げたのは帳簿だった。冬季の薪、帳簿では日に十本、実際は三本。雪の夜は二本。食事、帳簿では三度、実際は二度、遅れること常。侍女、帳簿では各一名、実際は零名。年ごとに、季節ごとに、数字は淡々と積まれていった。糾弾の言葉は一つもなかった。一つもないことが裁定の間を静かにしていった。感情は書かない。割れない刃だけが進んでいく。
「――証人。その数字をなぜ十年分も記憶している」
「覚える以外に、身を守る方法がなかったからでございます」
リディアは頁をめくった。
「次に、指揮の系統を申し上げます。先ほど侯爵は家政の運用は家令に一任しており、当主は関知しないと仰いました。……十年前の冬の夜のことを申し上げます。妹が高熱を発しました。当時六歳。私は八歳。私は家令ハインツに、医者をと願い出ました。家令の答えは――『旦那様のお許しがありません』」
伏せられていたハインツの目が上がった。
「薪を三本に減らしたのは侍女頭マルタの指図ですが客人の前で用いる釈明の言葉は家令が用意しておりました。『お嬢様方がご自分でなさるとおっしゃいましたので』。使用人たちに『余計な世話をするな』と命じたのも家令です。ですがその家令が医者一人、自分の裁量では呼べないのです。あの家では薪の一本も、皿の一枚も、当主の許しなしには動きません。――家令に一任された家政など、あの家には最初から存在しないのです」
石の間がしん、と冷えた。
外からの証拠が止まった壁の内側を内側にいた者の声が通り抜けた瞬間だった。
「以上は私一人の記憶ではございません。妹の記録九枚、解雇された掃除女の証言、薪商人の納入台帳、両替商の台帳と、日付は全て照合済みです。納入台帳によれば、薪は帳簿通りの数、屋敷には入っております。北棟に届かなかった七本はどこかへ消えました。帳簿は嘘をつきません。嘘をつくのは――」
リディアは顔を上げた。
「帳簿を書く手と、それを検めない目だけでございます」




