第51話 壊れた帳簿
崩れたのはマルタが先だった。
「わ、私は……私は指図された通りに……!」
「マルタ!」
「奥様付きの侍女頭が勝手にお嬢様方の薪を減らせるはずがございません! 冬のはじめに、毎年、旦那様のお言葉があったのです。『あの部屋には家の金を使うな』と! ハインツ様がそれを私共に……!」
悲鳴のような証言は書記官の筆が三本同時に走る音に、呑まれていった。ハインツは最後まで声を荒げなかった。ただ、細い目を開いて、主の背中を見ていた。二十数年、忠実に仕えた背中は一度も振り返らなかった。やがて家令は低く、乾いた声で言った。
「……口座の、補充の指示書がございます。全て、旦那様の署名入りで。……処分せよとのご命令でした。ですが――旦那様。家令と申しますのは命じられても、家の書類を捨てられぬ性分でございまして」
その瞬間の、オスヴァルトの顔をリディアは見た。
怒りではなかった。狼狽でも、まだなかった。それは勘定の合わない帳面を見る顔だった。忠実は無償で無限に湧くと信じていた男が忠実の側にも帳簿があったと知った顔。彼はゆっくりと立ち上がり、何かを言おうとして、裁定の間を見渡した。味方を探す目だった。目は傍聴席の息子たちの上を滑り、アルノルトの動かない顔で止まり、滑り落ちた。
「静粛に」
主席裁定卿の声が石の天井に響いた。
「……侯爵。裁定の前に、最後に問う。申し開きがあるか」
オスヴァルト・フォン・グレイヴァルドは立ったまま、長いこと黙っていた。
その沈黙はリディアの知っているどの沈黙とも、違っていた。
◇
「……申し開き」
やがて、侯爵は言った。呟きに近かった。
「申し開き、とは。……何をだ」
彼は裁定卿を見た。書記官を見た。壇の高さを見た。自分がいま、どこの席に立たされているのかを確かめるような目だった。
「私は二十七で家を継いだ。グレイヴァルドは軍功の家だ。血統、規律、忠誠――それを預かって、二十年、守ってきた。前の妻は病で死んだ。次の妻は」
声が一段、低く落ちた。
「次の妻は私を裏切った。騎士風情と通じて、家の血に泥を混ぜた。社交界が何と囁いたか、ご存じか。妻を喰う館。未亡人を作る屋敷。……私が何をした。私は騙された側だ。侮辱された側だ。それでも私はあの女の産んだ娘二人を屋敷に置いてやった。寛大にも、だ。飢えて死なせたか? 凍えて死なせたか? 死なせておらん。現に、二人とも、あの通り生きている」
彼はリディアの方へ、手を上げた。証拠を示す手つきだった。生きている、ということが彼の帳簿では養育の実績として記帳されているのだった。
「薪が三本? 皿が二枚? ……家には序列というものがある。序列を教えるのも、しつけのうちだ。私は恥晒しの種を外へ出さぬよう、内で管理した。家門を醜聞から、守った。娘の身柄を取り戻そうとしたのも、後見人の当然の務めだ。それの、どこが」
言葉はそこで初めて、つかえた。
裁定の間の静けさがようやく彼の耳に届いたのだ、とリディアは思った。誰も頷いていなかった。誰も筆を止めていなかった。二十年、彼の言葉に頷いてきた種類の人間がこの石の間には一人もいなかった。
「私は……」
侯爵はもう一度、言った。今度は誰に向かってでもなかった。
「私は家を守っただけだ」
それは嘘ではなかった。
リディアには分かった。分かってしまうことがこの十八年でいちばん、静かに恐ろしかった。この人は演じていない。困惑は本物だった。彼の帳簿の中では全ての数字がいまも正しく合っているのだ。裏切られたのは自分で、寛大なのは自分で、守ってきたのも自分。その帳簿を彼は二十年、一度も検算しなかった。検算してくれる人間を全員、序列の下に置いたから。
憎むべき男を見るつもりで、リディアは壊れた帳簿を見ていた。
「――裁定を申し渡す」
主席裁定卿の声は乾いたままだった。
「一つ。グレイヴァルド侯爵オスヴァルトの、四女エミリアに対する後見の権を剥奪する。後見は王命により、婚礼までの間、辺境伯レオンハルト・アッシュフォード卿に移す。三女リディアの身柄についても、同様とする。
一つ。家令ハインツ、侍女頭マルタ。虐待の実行ならびに隠蔽、および誘拐に用いられた口座の運用につき、身柄を拘束。沙汰は取り調べの後に申し渡す。
一つ。侯爵本人については誘拐教唆の疑いにつき取り調べを継続する。取り調べの間、宮廷における一切の職と席次を停止し、家門には王宮の監察を付す。
――以上。閉廷」
木槌の音が一度、石の天井に響いた。
◇
退廷の間際は耳鳴りのように騒がしかった。
マルタは連行の衛士に両脇を支えられ、まだ何かを叫んでいた。指図された、指図された、と。ハインツは無言で歩いた。裁定の間を出る一歩手前で、家令は一度だけ足を止め、二十数年仕えた屋敷の方角――に、頭を下げたのかどうか、リディアには分からなかった。ただの、老人の姿勢の崩れだったかもしれなかった。
傍聴席ではファビアンがいち早く立ち上がっていた。
その顔にはもう次の表情が用意されつつあった。僕は何も知らなかった、僕も父の被害者でね――近いうちに社交界のどこかで披露される顔の仕込みが始まっているのが遠目にも分かった。昨夜の敗戦を一晩でなかったことに加工する男は父の失墜を半日で加工するだろう。あれはあれで、生き延びていく。踏みつけられる側の誰かをまた探しながら。
アルノルトは最後まで、座っていた。
立ち上がったのは広間がほとんど空になってからで、その時、リディアと目が合った。長兄は目を逸らさなかった。逸らさないまま、何かを言いかけて――言葉は形にならなかった。使用人の真似事がよく似合うな、と言った口はその真似事の記録が家門を裁くのをいま見届けたばかりだった。先に目を伏せたのは兄の方だった。彼は一礼とも会釈ともつかない角度で首を動かし、足早に去った。傷のついた家名がこれから彼の肩に載る。それがどれほどの重さか、リディアは知らないし、知る係でもなかった。




