第52話 もう、帰らなくていい
「……エヴェリーナ」
その声は出口の手前で、リディアの背中に落ちた。
振り返ると、オスヴァルトが立っていた。衛士が両側に付いていたが彼は歩み寄ろうとはしなかった。ただ、こちらを見ていた。琥珀色の目はリディアを見ていて――リディアを見ていなかった。
「エヴェリーナ。お前はまた、私から」
「リディアです」
静かに、言った。
怒鳴る必要はなかった。皮肉の鎧も、要らなかった。事実だけが割れない刃だった。
「エヴェリーナは私の母です。十年前に、あの家で、心労で死にました。……あなたは最後まで、母を生きている人間として見ませんでした。手に入れた時は家格の飾りとして。裏切られてからは拭うべき泥として。死んでからは――娘の顔の中に、探すものとして」
オスヴァルトの目が僅かに、揺れた。
「母はあなたのものではありませんでした。私も、妹も、違います。……あなたのものだったのはあの冷たい家だけです。ですから、あの家と、お幸せに」
リディアは母の作法書の第一章の礼を正確な角度で、一度だけした。
目上の方への、別れのご挨拶。母の遺した作法で、母を終生檻に入れた男に、別れを告げる。それが娘にできる、最も正しい復讐で――最も正しい、決別だった。
顔を上げた時、オスヴァルトはもう、何も言わなかった。
衛士に促されて歩き出した背中は記憶の中の背中より、ずっと小さかった。戻る場所はここにしかない――いつか妹に投げられたあの言葉は呪いの形をした、この人自身の恐怖だったのだ。家の外に戻る場所のない人間が家の中の序列にしがみつく。その家の名から、いま、王宮の監察の紙が下がった。あの人はこれから、誰も頷かない部屋で、正しさの合った帳簿を独りで繰り続けるのだろう。
気の毒だ、とは思わなかった。
ただ、もう、怖くなかった。それだけをリディアは検分して、確かめて、胸の帳面を閉じた。
◇
王宮の石の廊下は長かった。
歩きながら、リディアは自分の足音を聞いていた。勝った、という味は不思議なほど、しなかった。舌の上にあるのは長い計算を終えた後の、鈍い疲れだけだった。復讐は蜜の味がすると、物語では言う。嘘だ。あれは蜜ではない。ただの、決算だ。決算の日に酔う帳簿係はいない。
隣を大きな足音が歩いていた。
「……閣下」
「ん」
「終わったのでしょうか。私、まだ、実感が」
レオンハルトはすぐには答えなかった。廊下の高い窓から、春の光が斜めに落ちて、二人の影を石の床に並べていた。
「書類は終わった」
やがて、彼は言った。
「実感はあとから来る。……帰り道で、来る」
説明の足りない男の言葉の意味をリディアはこの時はまだ、半分しか分かっていなかった。
残りの半分は翌朝、貴族街の外れの道で、分かることになる。
◇
北へ発つ馬車は貴族街の外れを抜ける道を通った。
偶然ではなかった。御者への指図は昨夜のうちにされていたらしい。街道へ出るには遠回りになるその道筋の意味をリディアは馬車が古い並木に差しかかったところで理解した。並木の先に、灰色の石壁が見えたのだった。
「……停めますか」
尋ねたのはセバスティアンで、答えたのはリディア自身だった。
「少しだけ」
馬車を降りて、リディアは灰鷹館の門の前に立った。
初めて、外側から見る門だった。正確には――帰らなくていい者の目で見る、初めての門だった。十八年住んだ。この門を出たのは片手で数えるほどで、出るたびに、日暮れ前に戻らなければ叱責が待っていた。冬の初めにこの門を出た朝、自分は二度と戻れない場所として振り返った。二か月半前の朝は妹の手を引いて、悪夢の出口として通り抜けた。
いま、門には王宮の監察の封印紙が斜めに貼られていた。
灰色の鷹の紋章の上に、白い紙が一枚。それだけのことで、館は様変わりして見えた。怖い屋敷ではなかった。大きくて、冷たくて、静かなだけの、古い石の箱だった。窓のほとんどに鎧戸が下り、人の気配は薄い。使用人の幾人かはもう暇を出されたか、自分から逃げたのだろう。
リディアは北棟の三階の窓を見上げた。
妹の部屋の窓。建付けが悪く、隙間風の鳴る窓。検分の帳面に「窓建付け不良」と書いた、あの窓。……直っただろうか、と考えかけて、やめた。もう、私の係ではない。あの窓の隙間風はもう、誰の背中も冷やさない。あの部屋で誰かが震える夜はもう、来ない。
それだけの、ことだった。
それだけのことに、十八年と、五十六枚と、王宮の裁定が要ったのだった。
胸の中は静かだった。憎しみの席が空いて、勝ち誇りも座らず、ただ、風が通っていた。広すぎる空白の感じをリディアは知っていた。望まれて生まれたと知った日の、帳簿の一番古い頁と、同じ風だった。空白に何を書くかはまだ決めていない。決めていないままでいられることがたぶん、自由と呼ばれるものだった。
背後で、雪解けの泥を踏む足音がした。
レオンハルトは隣に並んで、同じ館を見上げた。何も言わなかった。急かしもしなかった。人を待つのだけは異様に上手い。この人は待つことについては王国最強なのだった。
「……閣下」
「ん」
「もう、帰らなくていいんですね」
「ああ」
答えは即座に来た。
「帰る必要はない」
それから彼は半歩、門に背を向けた。
「――帰るぞ。うちに」
同じ「帰る」をこの人はこういうふうに使う。リディアは頷いて、灰色の門に、最後の一瞥もくれなかった。くれずに済む自分を馬車に乗り込みながら、静かに検分した。実感は帰り道で来る。あの言葉の残り半分はこれだった。終わりの実感は終わった場所では来ない。帰る方角に足が向いた瞬間に、来るのだ。
馬車が動き出し、並木が流れ、灰鷹館は窓の後ろへ退いていった。
リディアは振り返らなかった。
◇
北への十日は春を追い越す旅だった。
王都で咲きかけていた花は五日目の宿場では蕾に戻り、七日目には芽になり、それでも、雪はもうどこにもなかった。街道は荷馬車で混み始めていた。雪解けを待っていたのは罠だけではない。商人も、旅人も、季節そのものも、いっせいに北へ動き出していた。
フォートセバーンの城壁が見えたのは十日目の昼だった。
冬の初めに見上げた時、この黒い壁は檻の壁に見えた。いまは遠くからでも、壁のこちら側とあちら側の空気の違いが分かる気がした。門柱の上に、小さな影が立っているのが見えた。旅の初めに屋敷の門柱にいた影が今日は街の門の上にいた。影は大きく手を振りもせず、ただ、ひらりと消えた。屋敷へ、報せに走ったのだ。
果たして、屋敷の門前は総出だった。
「おかえりなさーい!! リディア様ぁー!!」
ミレイユの声は相変わらず、街の半分に届く音量だった。荷を降ろす間もなく、細い身体が飛びついてきた。エミリアだった。姉の外套に顔を埋めて、妹は笑いながら少しだけ泣いた。
「おかえりなさい、お姉様」
「ただいま……ただいま、です」
言い慣れない言葉はまだ舌の上で四角かった。四角いまま、温かかった。
「怪我、ない? 全部、届いた? 私の九枚も、ちゃんと」
「働きました。あなたの九枚は」リディアは妹の目を見て言った。「鍵の音の数まで、裁定卿が読み上げました。掃除女の証言と、一つも違わなかった。……あなたの二か月半があなた自身の手で、あの家を終わらせたのです」
エミリアは目を見開いた。
それから、泣き笑いの顔のまま、一度だけ、大きく頷いた。守られてるだけの子じゃ、いたくない――あの言葉が実績になった瞬間の顔を姉は帳面のいらない場所に、記録した。
「セバスさん。留守の報告。屋敷、異常なし。街、異常なし。飯の時間は――まあ、だいたい守った」
「『だいたい』の内訳は後ほど伺います」
「げ」
カイとセバスティアンの応酬に、ノエルののんびりした声が重なり、料理長が「今夜は宴だよ! 文句のあるやつは厨房に言いな!」と怒鳴り、ガスパルが早くも酒瓶を掲げた。騒がしかった。出て行った時と同じ音量で、屋敷は騒がしかった。この騒がしさの中に帰ってくるために、あの静かな石の間で戦ったのだと、リディアは荷物より先に、その音を受け取った。
その夜、約束通り、煮込みを作った。
熱のない妹のための煮込みである。具を細かく、焦がしバターで。鍋を混ぜる横で、エミリアが味見の匙を握って待ち構え、ミレイユが「あたしも係!」と割り込み、厨房は定員を超えた。レオンハルトは三杯食べた。四杯目をよそいかけて、料理長に「明日もあるよ」と止められ、眉間に筆を一本立てた。それを見て、エミリアが声を上げて笑った。
笑い声を数える係はもう、数えなかった。
数えきれないものは記帳しない。帳簿の作法である。
◇
寝る前に、リディアは白い帳面を開いた。
悪評の記録に始まり、検分の記録、罠の記録、証言の記録と続いてきた帳面の、最後の白い頁に、短く書いた。
裁定、下る。後見権、剥奪。家令・侍女頭、拘束。当家門への監察、開始。……刃の出どころ、刺し終わり。
少し考えて、その下に、一行を足した。
本帳、これにて決算。以後の頁は白いまま、白い帳面として仕舞う。
インクを乾かして、帳面を閉じ、文箱の底に納めた。出せない手紙を溜めていた、あの文箱である。空だった箱はいまは役目を終えた帳面の静かな置き場所になった。枕元には母の作法書と、木彫りの黒狼。窓の外には騒がしい屋敷の夜の残り火。それで、全部だった。過去の欄は全部、閉じた。
明日からは白い頁だけがある。
リディアは灯りを消す前に、少しだけ窓を開けた。
夜気はもう刺さなかった。雪の匂いの消えた風に、湿った土と、芽吹きの青い匂いが混ざっている。中庭の隅では温室の硝子が星明かりを鈍く返していた。春に咲くものの世話は全部冬のうち――なら、ガスパルの仕込んだ春がもうすぐ、あの硝子の下から出てくるのだろう。雪解けの東の通りには春の市が立つ。今日より騒がしい、と約束された市だ。今度はみんなで行ける。
白い頁に書くことなら、いくらでも思いついた。
春の市の買い物の目録。妹の稽古の進み具合。医務室の薬草の棚卸し。それから――婚礼の支度、という科目を思い浮かべた途端に頬が勝手に熱くなったので、それは頁のずっと後ろへ回した。急ぐことはない。期限を切ってくる債権者はもう、この世のどこにもいない。取り立てられる借金も、値踏みされる家名も、数えなければ眠れない廊下の足音も、ない。
あるのは明日の朝食の献立と、擦り傷の申告と、騒がしい食卓だけだった。
それがこれからの、私の帳簿。
窓を閉め、灯りを消す。闇の中で、木彫りの黒狼の小さな輪郭がしばらく目の裏に残った。眠りに落ちる間際、リディアは気づいた。明日が来るのが楽しみだ。こんなに静かな気持ちで朝を待つ夜を十八年の帳簿のどこを繰っても、見つけられなかった。
初めての科目は検算しないことにした。
どうせ明日からも、毎晩、同じ数字が立つのだから。




