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第8話 初めての街歩き

 発端は朝食の席の執事のひと言だった。


「旦那様。リディア様は当家にお越しになって半月、まだ一度も、門の外へお出になっておられません」


「……そうか」


「本日は午後のご予定がきれいに空いております」


「…………」


「なお、明後日からは雪の予報でございます。今年最初の根雪になるかと」


 外堀という外堀が音もなく埋められていくのが分かった。レオンハルトは黙ってスープを飲み干し、匙を置き、食卓の向かいのリディアを見て、言った。


「街を見る。支度しろ」


 以上、だった。


 主語がない。目的がない。行き先も、供の有無も、帰りの刻限もない。リディアが匙を持ったまま瞬きを二度する間に、当人は席を立ち、大股に食堂を出て行ってしまった。


「……今のは何のご命令ですか」


「命令じゃないですって」給仕に立っていたミレイユが待ってましたとばかりに身を乗り出した。「今のはあれです。デートのお誘いです」


「んなっ……」


「正確には街の視察への随行のお誘いかと存じます」皿を下げながら、クラリスが訂正した。「旦那様の語彙に『デート』はありません」


「どちらにしても、旦那様なりに精一杯お気を遣った結果ですよぉ」ノエルがのんびりと続けた。「ご婚約者様を半月お屋敷から出していなかったことに、今朝がた、ようやく気づかれたので」


「気づいた、のではなく」リディアは横目で執事を見た。「たった今、気づかされたのでは」


「めっそうもございません」


 セバスティアンは涼しい顔で一礼した。この屋敷で一番食えないのは間違いなくこの老人である。


   ◇


 支度はリディアひとりの仕事ではなくなった。


「はいリディア様、こっち! 髪やります、髪!」


「待ちなさいミレイユ、服が先です。……リディア様、恐れながら、その室内向けのお召し物では往来で凍えます。フォートセバーンの外歩きは王都の真冬より寒うございます」


「ねえこれ可愛くないです? この赤いリボンつけましょうよ」


「却下します。人混みと石畳です。歩ける靴、厚い外套、汚れの目立たない色。装飾は最小限」


「クラリスってばそういうとこ堅いー。デートなんですよ?」


「視察です」


「あんまり綺麗にしすぎると、攫われちゃいますしねぇ」


「……さら!?」


「冗談ですよぉ。……半分は」


 どちらの半分が冗談なのかは教えてもらえなかった。


 かくして厚手の外套に歩きやすい編上靴、髪はミレイユの「せめてもの抵抗」でゆるく編まれ、リディアは玄関へ送り出された。廊下で行き合ったカイがその姿を上から下まで眺めて、にっと笑った。


「アンタ、街に出んのか。いいこと教えといてやる。財布は懐の内側な。外っかわのポケットに入れとくのはスリへの献上品って言うんだ」


「……参考になります。あなたは来ないのですか」


「俺が? 野暮は言いっこなしだろ」


 何が野暮なのか、リディアには分からなかった。分からないまま、玄関先で待っていた男の隣に――正確には三歩後ろに――ついた。レオンハルトはリディアの三歩を一瞥し、何か言いかけ、例によって言葉の渋滞を起こし、結局何も言わずに歩幅だけを半分にした。三歩の距離は坂を下りきる頃にはいつの間にか一歩半になっていた。


   ◇


 市壁の内側の大通りへ入った瞬間――音が壁のように押し寄せた。


 荷車の車輪が石畳を噛む音。鍛冶場の鎚の音。呼び込みの声、値切る声、笑い声、怒鳴り声。どれが商談でどれが喧嘩なのか、リディアには判別がつかない。匂いも押し寄せる。焼けた獣脂。香辛料。なめし革。炭と鉄。それらすべての下に、雪の来る前の、冷たく乾いた土の匂い。


 ――なんて、下品で、騒がしい。


 それが正直な第一印象だった。


 王都の目抜き通りをリディアは知っている。磨き上げられた馬車が音もなく行き交い、靴音は控えめで、会話は扇の陰で囁かれ、笑い声は品よく殺される。あの通りでは音を立てないことが身分だった。


 ここでは誰もが全力で音を立てて生きていた。


「お! 旦那じゃないか!」


 最初に声を上げたのは店先に肉の塊を吊るしていた、腕の太いおかみだった。


「今朝いい角鹿が入ったよ! 屋敷に回そうか!」


「……頼む」


「毎度! ――おや、旦那。そちらさんは」


 通りの視線が一斉にこちらを向いた気がした。リディアは反射的に背筋を伸ばした。値踏みなら、慣れている。灰鷹館(かいようかん)で、王都で、十八年浴び続けた視線だ。血筋を測り、噂と照合し、蔑む位置を決める、あの粘つく――


「うちの客だ」


 レオンハルトはそれだけ言った。


「客ぅ? 旦那、あんた、あたしらが知らないと思ってんのかい。王都からお嫁さんが来たって、ひと月も前から街中の噂だよ!」


「へえ、あの人が!」「噂の!」「別嬪じゃねえか!」


 わっと、通りが沸いた。


 リディアは固まった。囁きではなかった。扇の陰でもなかった。全員が本人に丸聞こえの声量で、堂々と噂をしていた。


「嬢ちゃん、よく来たなあ、こんな北の果てまで!」


「旦那は口が利けねえが悪気はねえからな!」


「余計な世話だ」


 レオンハルトが低く言うと、どっと笑いが起きた。領主が笑われている。誰も処罰されない。リディアは呆気に取られたまま、辛うじて会釈を返した。


 何かがおかしい。


 視線は確かに浴びている。頭のてっぺんから爪先まで、遠慮なく見られている。なのに、肌が粟立たない。あの粘つく感じがどこを探しても、ない。見られているのに、値踏みをされていない。そんな視線があることをリディアは知らなかった。


「……あの」


 歩き出してから、リディアは半歩前を行く広い背に訊いた。


「皆さん、辺境伯様を『旦那』とお呼びするのですね」


「騎士団は閣下と呼ぶ。街は好きに呼ぶ」


「よろしいのですか。その、領主に対して」


「呼び方で、街は守れん」


 それきり、だった。相変わらず、言葉はそこで打ち切られる。けれどリディアはその言葉を頭の中の帳面に書き留めた。王都の貴族が聞けば卒倒しそうな言い草だった。あちらでは呼び方こそがすべてで、呼び方のために人が飼われ、序列が組まれ、呼び方ひとつで母は――


 やめた。今日はその帳簿は開かない。


 大通りの先では人相の悪い男たちの一団が道の真ん中で何やら揉めていた。だがレオンハルトの姿を認めるなり、蜘蛛の子を散らすように道の端へ寄った。怖がられてはいる。だがそれは灰鷹館の使用人が主人に払う怯えとは何かが違った。強いて言えば、悪さの現場を親に見つかった子供の顔に近かった。


「……怖がられても、いるのですね。少し安心しました」


「なんの安心だ」


「王都での評判どおりのところも、あるのだと」


 レオンハルトは眉間の皺を深くし、しばらく黙り、それから真顔で言った。


「あれは俺が怖いんじゃない。闘技場の出入り禁止が怖いんだ」


「……はい?」


「あの連中は先週、賭けで揉めて桟敷を三枚割った。次に揉めたら半年の出入り禁止だと、俺が裁定した」


「…………」


 つまりこの街では王国最強の辺境伯の威光は娯楽施設の出入り証より軽いらしい。リディアは笑いを噛み殺すのに、鎧の全強度を必要とした。


 ――下品で、騒がしくて、何もかもが規格外の街。


 通りの先から、香辛料と薬草と、獣の骨を煮る匂いが濃くなってくる。天幕の連なりと人だかりをレオンハルトが顎で示した。


「市場だ。……見るか」


「見ます」


 即答してから、自分の声がわずかに弾んでいたことに気づいて、リディアは咳払いひとつで、それをなかったことにした。

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