第7話 お世辞なら結構です
風邪は二日で抜けた。
三日目の夕方、リディアは借りていた杯を返しに厨房へ下りた。礼のひとつも言うのが筋だと思ったのだ。ノエルに訊くと、生姜湯の生姜を利かせたのは料理長だという。
厨房は戦場だった。
巨大な竈に大鍋が三つ。演習帰りの騎士団の一隊が今夜屋敷で慰労の夕食を摂るとかで、いつもの倍の量が同時進行していた。恰幅のいい中年女の料理長が怒鳴り、下働きの少年が芋の皮剥きに追われ、パン窯の前では誰かが粉まみれになっている。
「杯をお返しに――」
「そこ置いといて! ……ああっ、この忙しい時に、香草の束はどこだい!」
リディアの目が竈の大鍋を捉えた。
煮立ちすぎている。灰汁が回る。あと数十秒で、スープが濁る。
――気づいた時には体が動いていた。
杯を置き、袖を留め、鍋の火から薪を一本引き抜いて火勢を落とし、壁の玉杓子を取って灰汁を三度、掬った。ついでに隣の鍋の腸詰めが鍋底に貼りつきかけていたので、木べらで剥がして、位置を入れ替えた。
「――って、お嬢様!?」
料理長が目を剥いていた。
「申し訳ありません、勝手に」我に返ったが手は木べらを離さなかった。「ですが灰汁が回る寸前でした。……それと、香草の束でしたら、先ほどから粉袋の陰に落ちています」
厨房が一瞬、静まった。
料理長は粉袋の陰から香草を拾い上げ、鍋を覗き、灰汁の消えた澄んだスープの面を確かめ、それからまじまじとリディアを見た。
「……あんた、杓子の使い方といい、火の見方といい、現場のそれだよ。王都の令嬢ってのは料理も嗜みなのかい」
嘲りの気配に、身構えた。令嬢のくせに。使用人の真似事。何百回と浴びた言葉の型が来る――はずだった。
「ちょうどいい、猫の手も借りたい! お嬢様、その鍋、任せていいかい!」
……この屋敷の人間はどうして皆、猫と比べるのか。
リディアが頷くより早く、下働きの少年が「うちの猫、鍋番できるんですか」と真顔で訊き、料理長の怒声が飛び、厨房は戦場に戻った。そしてリディアはその戦場の一角に、いつの間にか持ち場をもらっていた。
鍋をかき混ぜ、味を見る。北の味だ。塩が強く、体は温まるが後半で舌が疲れる。リディアは棚の酢を少量と、香草の軸の部分を刻んで放り込んだ。下町の薬師の婆に教わった知恵だ。塩の角が取れ、味の底が伸びる。
「……おい、味が変わった。何した」
「酢を匙半分。それと香草の軸です。葉より軸の方が煮込みには合います」
「軸だぁ? あんなの捨てるもんだろ」
「王都の下町では捨てません。……騙されたと思って、味を」
料理長は玉杓子で一口すすり、目を見開き、無言でもう一口すすった。
「…………明日から軸も取っときな!」
それが採用の返事らしかった。
夕食の献立の端に、リディアはもう一品、小さな鍋を任された。余り物の根菜と塩漬け肉の切れ端でいい、まかない風のもので構わないと言われ、手が覚えている料理を作った。芋と豆を柔らかく煮て、パン粉と焦がしバターを散らした、寒い夜の煮込み。考えて選んだ献立ではなかった。気づいたら、それになっていた。
――エミリアの、好物だ。
熱を出した妹に、何十回と作った。具を細かくするのは寝込んだ子でも噛めるように。バターを焦がすのは食欲のない子の鼻を先に説得するために。鍋をかき混ぜながら、リディアは一瞬だけ手を止め、それから何事もなかったように、火加減に戻った。
◇
その夜の食卓は騎士たちの分をあらかた出し終えた後の、いつもの顔ぶれだった。
主座にレオンハルト。カイ。給仕につくメイドたち。皿が並び、その中に、あの小さな煮込みも紛れていた。リディアは黙っていた。まかないが交ざっただけだ。誰の作か、わざわざ言うことでもない。
言うことでもなかったのに。
「あ、そうそう旦那様」配膳を終えたミレイユがにっこりと言った。「その芋のやつ、リディア様が作ったんですよ」
「――ミレイユ!?」
「え、だって料理長が『絶対言え』って」
リディアは匙を持ったまま固まった。主座を見られなかった。灰鷹館の食卓が頭を過ぎった。一度だけ、エミリアの誕生日に菓子を焼いて、それがファビアンに知れた時のこと。――貴族令嬢というより料理女だね。笑顔のまま刺すあの声と、周りの使用人たちの、忍び笑い。
あの時と同じ沈黙が食卓に落ちていた。レオンハルトが煮込みに匙を入れる音がした。一口。二口。三口目の音の後、低い声が言った。
「美味い」
リディアは顔を上げた。
レオンハルトはこちらを見ていた。眉間に皺。真一文字の口。つまり通常営業の、あの怖い顔のままで、皿と彼女を交互に見て、もう一度言った。
「美味い。……こういうのは初めて食った。柔らかいのに、味が底にある」
目の奥が一瞬で熱くなった。
まずい、と思った。こんな、こんなことで。たかが煮込みで。たかがひと言で。十八年、涙より速く動かしてきた口が鎧の反射で、勝手に動いた。
「……お世辞なら、結構です」
声は精一杯の平坦を保った。「余り物で作った、まかないです。侯爵家では令嬢の恥と呼ばれた芸です。お気遣いいただくような――」
「お世辞ではない」
レオンハルトは真顔だった。眉間の皺ひとつ動かさず、彼はきっぱりと言った。
「明日も食いたい」
リディアの、口が止まった。
お世辞は受け流せる。嘲りは弾き返せる。けれど「明日も」は――明日もこの食卓に自分の皿が並ぶという意味の言葉はどの鎧の、どの継ぎ目から入ってきたのか、分からないうちに、胸の一番柔らかい場所に届いていた。
「あ、ずるい、あたしも明日食べたい」「私もお願いします」「俺、今おかわりしていい? これ」
カイが早くも鍋の残りに手を伸ばし、ミレイユとノエルが便乗し、クラリスが「配分を守りなさい」と割って入り、食卓はいつもの騒がしさに戻っていく。その喧噪の中で、リディアはうつむいて、匙を握り直した。
泣いていない。断じて、泣いていない。ただ、湯気が目に染みただけだ。
「……別に」
小さな声は喧噪に紛れて、たぶん誰にも届かなかった。
「……作るのは明日でも、明後日でも、構いませんけれど」
届かなかったはずだった。けれど主座の男が煮込みの最後の一匙を口に運びながら、わずかに――ほんのわずかに、眉間の皺を緩めたのをリディアは見ていないふりをした。
◇
その夜、リディアは文机に向かい、出せない手紙の下書きに、初めて続きを書いた。
――エミリア。姉さんは少しだけ元気です。
今日、あなたの好きな煮込みを作りました。ここの人たちは変わっていて、令嬢が鍋を混ぜても、誰も笑いません。それどころか、明日も食べたいと言うのです。変わっているでしょう。本当に、変わった土地です。
いつか、あなたにも。
そこまで書いて、リディアはペンを置いた。その先はまだ書けなかった。書けるようになる方法を明日から、探すのだ。




