第6話 針の音と、雨の日の熱
翌日から、リディアの「務め」に、講義がひとつ加わった。
「本日は屋敷の冬支度についてご説明します。フォートセバーンの冬は王都の常識で備えると人が死にます」
教師役はクラリスだった。黒髪をきっちりと結い上げたメイドは帳面を小脇に、屋敷の貯蔵庫から薪小屋、リネン室、医務室までを順に案内しながら、淀みなく数字を並べていった。
冬の間に屋敷が消費する薪の量。塩漬け肉と根菜の備蓄。雪で街道が閉ざされた場合の兵糧の計算。凍傷の初期処置。水道が凍る前に済ませるべき仕事の一覧。
リディアは借りた帳面に、それらを片端から書き留めた。二度ほど質問をした。薪の乾燥期間と、備蓄の傷み分の見込みについて。クラリスはそのたび、わずかに目を見開いた。
「……的確なご質問です。管理をなさっていた方の質問です」
「……昔、少し」
灰鷹館の姉妹の暮らしは配給の計算でできていた。月初に届く薪を何本ずつ使えば月末まで保つか。傷みかけの野菜はどの順で食べるか。リディアにとって在庫の計算は教養ではなく生存技術だった。
クラリスは有能だった。
それは三日も一緒に過ごせば、嫌でも分かった。屋敷の鍵の在り処をすべて把握し、使用人たちの持ち場の穴を先回りして埋め、ミレイユの脱線を一言で軌道に戻し、セバスティアンが不在の間の指揮を当然のように任される。そして――
「旦那様は湯冷めをなさるので、夜の湯は熱めに。ただしご本人は温度に無頓着なので、こちらで調整します」
「旦那様は薬湯を飲みません。苦いからではなく、『自分に効く薬は勿体ない』という理屈です。理屈になっていないので、スープに混ぜます」
「旦那様の外套の左肩は剣の鞘で擦れて綻びやすいのです。七日に一度は確認を」
旦那様、旦那様、旦那様。
クラリスの口から流れる細部の知識はどれも正確で、実用的で、そして――手入れされた庭のように、丹精の跡があった。
その手つきを見てしまったのは四日目の昼だった。
リネン室の前を通りかかると、扉が細く開いていて、クラリスが窓際で針を動かしていた。膝の上にあるのは黒い外套。左肩の綻び。彼女は繕っていた。それだけなら、仕事だ。けれどリディアにはその針目が読めた。強度だけなら五針で済む綻びに、彼女は表から見えない細かさで、倍の針を入れていた。誰にも気づかれない場所を誰にも気づかれない丁寧さで縫う。その横顔の静けさは仕事の顔ではなかった。
リディアは音を立てずにその場を離れた。
離れてから、自分の心臓が嫌な速さで打っていることに気づいた。
――ああ、そうか。この人は。
夕刻、リネン室に呼ばれた。冬用の寝具の繕いを「手伝っていただけるなら」とクラリスの方から申し出てきたのだ。ミレイユから「猫より働ける」の評判が伝わったらしい。窓際に並んで座り、二人で針を動かした。クラリスの針目は端正で、リディアの針目は速かった。しばらくは糸の擦れる音だけがした。
沈黙に耐えかねたのはリディアの方だった。いや――耐えられなかったのは沈黙ではなく、昼間から喉に痞えている問いの方だ。回りくどい探り合いは性に合わない。
「クラリス」
「はい」
「あなたは旦那様をお慕いしているのではありませんか」
針が止まった。
一瞬だった。クラリスの手は次の瞬間にはもう動いていて、針目はひとつも乱れなかった。ただ、答えまでに、三針分の間があった。
「……どこで、お分かりに」
「外套の、針目で」
「そうですか」クラリスは目を伏せた。「……針は正直ですね」
否定も、狼狽も、涙もなかった。それが逆に、この想いの年季を物語っていた。
「はい。私は旦那様をお慕いしています」
クラリスは針を動かしながら、静かに言った。
「ですがそれとリディア様を傷つけることは別です」
「……意味が分かりません」
リディアの声は自分でも驚くほど尖った。
「分かりません。あなたの方がずっと前からあの方の傍にいて、あの方のことを何もかも知っていて、この屋敷の誰からも信頼されていて――私は家の都合で送られてきただけの、あの方の名前しか知らない女です。あなたの方が」
よほど、あの人の隣に相応しい。
最後まで言えなかったのは言えば自分が何を認めることになるのか、分からなかったからだ。悔しさなのか、後ろめたさなのか、それとも、もっと別の――名前をつけたくない何かなのか。
クラリスは針を止め、初めて、まっすぐリディアを見た。
「リディア様。私はこの屋敷に置いていただいている理由を毎日、仕事で作り続けている人間です」
静かな声だった。
「相応しいかどうかを決める権利は私にはありません。ですがひとつだけ確かなことがあります。旦那様はご自分で決めたことを違える方ではない。その旦那様があなたを迎えると決めた。ならば」
クラリスは居住まいを正した。針を置き、両手を膝に揃え、主に誓う騎士のような目で、言った。
「旦那様があなたを迎えたのなら、私はあなたを支えます」
リディアは動けなかった。
敵意なら、受け止め方を知っている。嫉妬なら、嘲笑なら、無視なら、灰鷹館で百通りの受け流し方を覚えた。けれどこれは――恋敵に向かって背筋を伸ばして誓われる誠実はどう受け取ればいいのか、教わったことがない。
「……あなたは」ようやく出た声は掠れていた。「悔しくはないのですか」
「悔しいです」
即答だった。クラリスは針を取り直し、何事もなかったように縫い物へ戻った。
「ですので、リディア様。早く旦那様の湯の温度と、薬湯の混ぜ方と、外套の綻びの場所を覚えてください。私の知っていることをあなたがすべて覚えてしまうまでは――悔しさの持って行き場がありませんから」
それは宣戦布告のような、餞別のような、リディアの十八年の辞書のどの頁にもない言葉だった。
「……善処、します」
「はい。あと、リディア様。そこの針目、三つ曲がっています。お直しを」
「…………厳しくありませんか?」
「支えると申し上げました。甘やかすとは申しておりません」
窓の外はもう暮れていて、リネン室の灯りの下、二人の針の音だけがしばらく続いた。不思議と、気まずさはなかった。
◇
その週の終わり、フォートセバーンに初めての冷たい雨が降った。
朝から、頭の芯が重かった。
十日の旅と、慣れない土地の緊張がいまさら束になって取り立てに来たらしい。喉の奥が腫れぼったく、指先だけが妙に熱い。リディアはいつも通り夜明け前に起き、いつも通り寝台を整え、いつも通り朝食の席に着いた。顔には出していないつもりだった。
「リディア様、今日はお部屋で休んでらしてくださいね」
配膳に立ったノエルがスープを置きながらおっとりと言った。
「……なぜですか。平気です」
「はい。では平気なまま、休んでらしてください」
「話が繋がっていません」
「繋がってますよぉ。平気なうちに休むから、平気のままで済むんです」
ノエルはにこにこと笑っている。眠たげな目はしかし、リディアの顔色から食の進み具合まで、全部見ている。リディアはスープを普段通りの速さで飲み干すことで反論に代えたがその「普段通りの速さ」を作るのに意識を使った時点で、負けは決まっていたのかもしれない。
午前のうちは逃げ切った。
リネン室で繕い物を三枚。クラリスの講義の復習で帳面を一冊。だが昼を過ぎた頃、廊下の空気がやけに冷たく感じられ、午後の講義を聞くリディアの相槌が半拍ずつ遅れ始めた。
「――リディア様」
気づけば、目の前にノエルが立っていた。手には湯気の立つ杯。生姜と蜂蜜の匂いがした。
「お薬です。飲んだら、お部屋へ」
「平気です。それより午後の――」
「平気な人は」
ノエルはリディアの言葉を柔らかく、まっすぐに断ち切った。
「そんな顔、しませんよ」
声はいつも通り、のんびりと甘かった。なのにその一言は毛布叩きの棒より正確に、リディアの鎧の継ぎ目を打った。
「……どんな顔をしていると言うのですか」
「『これくらいで休んだら、居場所がなくなる』っていう顔です」
リディアは杯を受け取った。受け取る以外に、その一言への返し方がなかった。
生姜湯は熱く、蜂蜜は喉の腫れに染みた。部屋に連行され、寝台に押し込まれ、上掛けを三枚かけられた。ノエルは暖炉に薪を足し、椅子を引き寄せて、当然のように編み物を始めた。
「……仕事はいいのですか」
「これが仕事です。旦那様が『ついていてやれ』って」
「……っ、へ、辺境伯様に、知られたのですか」
「はい。朝食のあと、真っ先に。『リディアの顔色がおかしい。薬師を呼ぶか』って、廊下でうろうろしてらっしゃいました」
「薬師!? 大袈裟です、ただの疲れです!」
「私もそう申し上げました。『風邪の引き始めです、寝れば治ります』って。そしたら旦那様、ものすごく難しいお顔で『そうか』って仰って、それから医務室の軟膏と、解熱の薬草と、蜂蜜の壺を抱えて廊下に立ってらしたので、回収しておきました」
ノエルは編み棒を動かしながら、こともなげに続けた。
「旦那様は怖い顔をしているだけの、不器用な大型犬ですから。飼い主が寝込むと、扉の前をうろうろするんです」
「か、飼い主ではありません……」
反論の声は我ながら弱かった。熱のせいだ。熱のせいにした。
しばらく、編み棒の音と、雨の音と、薪の爆ぜる音だけがした。うとうとと浅い眠りに落ちかけては浮かぶのを繰り返すうち、ふと、枕元の文机が目に入った。便箋。インク壺。そして、一通も入っていない文箱。
視線に、気づかれた。
「お手紙」ノエルは編み物から目を上げずに言った。「毎朝、指の横にインクがついてます。でも、出すお手紙は一通もない。……妹さん、ですか?」
心臓が跳ねた。
「……どうして」
「ミレイユから聞きました。妹さんを灰鷹館に置いてこられたって。それで、毎晩書いては出せずにいらっしゃるんだろうなあって」
「…………」
「侯爵家に、アッシュフォードの封蝋の手紙が届いたら、妹さんの立場が悪くなる。だから出せない。合ってます?」
何もかも、見抜かれていた。
リディアは天井を見上げた。書いた。毎晩、書いた。エミリア、元気ですか。こちらは変わった土地です。食事は温かく、人は騒がしく、怖い人は怖い顔をしているだけでした――書けば書くほど、これを読むあの子が冷えた北の部屋でどんな顔をするかを思って、封をする手が止まった。姉だけが温かい場所にいると知らせる手紙など、暴力と何が違うのか。
「……平気です」
声が勝手に出た。いつもの、癖の。
「妹は賢い子ですから。私がいなくても、上手くやります。だから、平気――」
「平気な人は」
ノエルの声は二度目も、同じ速さで、同じ柔らかさだった。
「そんな顔、しませんよ」
リディアは目を閉じた。閉じた瞼の裏が熱かった。熱のせいだ。もう一度、熱のせいにした。
「……ノエル。あなたは意地悪です」
「はい。よく言われます」
「平気だと、言わせてくれないのですから」
「言わせてあげてもいいんですけどねえ」編み棒の音は止まらない。「平気って言葉は言うたびに、ちょっとずつ嘘が上手になるんです。上手になりすぎると、自分でも、平気なのか平気じゃないのか、分からなくなります。……そうなると、けっこう、面倒なんですよぉ」
「……詳しいのですね」
「私、平気なふりは得意ですから。得意な人ほど、人のは見抜けるんです」
その先を、ノエルは言わなかった。編み棒の音は変わらず、雨の音も変わらず、ただ暖炉だけがぱちりと爆ぜた。
眠りに落ちる間際、リディアは口の中で小さく言った。
「……少し、疲れました。旅から、ずっと」
平気です、ではない言葉を口にしたのはこの屋敷に来て、初めてだった。
「はい」
ノエルの声が笑った気配がした。
「よく言えました」




