第5話 毛布の山の向こうから
裏庭の物干し場には冬の到来を控えた毛布の山が荷車二台分積まれていた。
「これ全部、今日中に干して叩いて取り込みます。夜露に当てたら奥様転じて鬼のクラリスが出るので、時間との勝負です」
「奥様はまだいません」
「あ、言い返した」
ミレイユはにやりと笑い、毛布の端をリディアに放って寄越した。二人がかりで広げ、張り渡した縄にかけ、次を広げる。リディアの手は考えるより先に動いた。角と角を揃え、縄に均等に振り分け、風向きを見て厚手を風上に。三枚目を干し終えたところで、ミレイユの手が止まっているのに気づいた。
「……なんですか」
「いや。リディア様、それ、どこで覚えたんですか。あたしより速いんですけど」
「王都では令嬢の嗜みのひとつです」
「嘘だあ。王都の令嬢って、ハンカチより重いもの持ったら死ぬんじゃなかったでしたっけ」
「……偏見です。死にはしません。気絶で済みます」
「あはは! なにそれ」
ミレイユは声を上げて笑い、リディアは自分の言った冗談に自分で驚いていた。皮肉はリディアの得意技だ。ただしそれはいつも、刺すための皮肉だった。誰かを笑わせるために使ったのはエミリア以外には初めてかもしれなかった。
毛布叩きの棒を振るいながら、ミレイユはよく喋った。
厨房のまかないは干し肉のスープが一番であること。騎士団の副団長は奥さんに頭が上がらないこと。カイは女の子に免疫がなくて、ノエルに袖をまくって腕を見せられただけで飲み物を吹いたこと。旦那様は書類仕事が嫌いで、セバスさんに追い立てられて執務室に連行されること。喋りながらも手は止まらず、話題は毛布の埃と一緒に、後から後から舞い上がった。
「リディア様って、王都だとどんな感じだったんです? 夜会でばーっと踊ったり?」
「……踊りません。壁の花にも、なりません。招かれないので」
「え、なんで。もったいな。その顔で?」
「顔の問題では――」
言いかけて、やめた。母の噂。罪の子。招かれない理由を数え上げれば、埃より多い。リディアは毛布に棒を振り下ろした。ぱん、と乾いた音がして、埃が冬の光に散った。
「……あー、なんか、まずいこと訊きました?」
「いいえ。別に」
「そうですか? ならいいけど」ミレイユはあっさり引き下がり、それからリディアの顔をひょいと覗き込んだ。「でもリディア様、今の顔、旦那様と同じ顔ですよ」
「……どういう意味ですか」
「訊くな、って眉間に書いてある顔。お二人とも、眉間に筆でも飼ってるんですか?」
かちん、と来た。
この五日、溜まりに溜まっていたものもあった。要求されない不安。持ち場のない焦り。読めない屋敷。そこへ来て、この娘は初対面から今日まで、一貫して、遠慮というものがない。
「あなた」リディアは棒を下ろし、まっすぐミレイユに向き直った。「私が誰か、分かっているの?」
「もちろん。うちの旦那様の婚約者様でしょ?」
「なら、なぜそんな口が利けるの」
我ながら、氷の声が出た。灰鷹館で身につけた、相手を三歩下がらせるための声だ。マルタでさえ、この声を出せば一瞬は怯んだ。
ミレイユは怯まなかった。
それどころか、少し首を傾げて、大真面目に考える顔をして、言った。
「え。……怒ってる顔より、そっちの方がかわいいから?」
「……は?」
「あ、違う、逆。素で喋ってくれてる時の顔の方が澄ましてる顔よりかわいいから、って言いたかった。今の怒った顔も、取り澄ましたやつよりは全然いいです。生きてる感じして」
リディアは二の句が継げなかった。
氷の声は通じなかった。それどころか、かわいい、で返された。十八年生きてきて、リディアの威嚇がここまで完全に不発に終わったのは初めてだった。怒りの行き場がなくなって、宙ぶらりんのまま、リディアはただ立っていた。
「……あのですね」ようやく絞り出した声は情けなく揺れていた。「私は怒っているのですけれど」
「はい。すみません」ミレイユは素直に頭を下げた。「口の利き方がなってないのはほんとです。セバスさんにも週一で怒られてます。でも」
顔を上げたミレイユは笑っていた。
「敬語で三歩下がって、腫れ物みたいに扱われるのと、あたしみたいなのに遠慮なく絡まれるの、リディア様はどっちが息できます?」
答えられなかった。
答えは決まっていたからだ。この五日で一番呼吸が楽だったのは間違いなく、毛布を叩いていた今日の午後だった。
「……絡まれる方、です」
白状すると、ミレイユは「でしょ?」と、当然のように笑った。
日が傾く頃には毛布はすべて取り込まれ、二人は物干し場の空いた荷車に並んで腰かけて、ミレイユが厨房からくすねてきた焼き菓子を分けていた。くすねる現場を見てしまった以上は共犯である。リディアは観念して菓子を受け取った。
「リディア様ってさ」
ミレイユは暮れかけた空を見ながら、ふいに言った。
「あんたも、優しくされるのが怖いクチでしょ」
菓子をつまむ指が止まった。
「……なぜ、そう思うのですか」
「んー。飯のたびに、皿と人の顔を順番に見るから。誰かの分を減らしてないかって順番に数える目。あれ、癖になってる人の目なんですよ。そういう子、何人も見てきたから」
何人も見てきた。その言葉の後ろに何があるのか、ミレイユは言わなかったし、リディアも訊かなかった。ただ、この娘の遠慮のなさが観察の裏付けを持っていることだけは分かった。
「……直せ、と言うのですか」
「まさか」ミレイユは菓子の最後のひとつをリディアの手に押しつけた。「直んないですよ、そういうの、すぐには。いいんです別に。ここの連中、気が長いんで。旦那様なんか特に。あの人、書類は溜めるくせに、人を待つのだけは異様に上手いから」
だから、と栗色の髪のメイドは荷車から飛び降りて伸びをした。
「ゆっくり慣れてください。あたしはその間、遠慮なく絡みに来るんで」
「……それは脅迫では?」
「うわ、言うようになった」
その時、母屋の方から盆を持ったノエルが裏庭へ出てきた。休憩の茶らしい。ちょうど反対側からは薪の束を担いだカイが通りかかるところで、少年はすれ違いざま、ひょいとノエルへ目をやった。
「ん。髪紐、変えたな。緑、いいじゃん」
「あらぁ」ノエルはのんびりと目を細めた。「よく気づきますねぇ、カイくんは。……そんなに私を見てるんですかぁ?」
「は!? ちげ、見てねえよ! 目に入っただけだろ!」
「目に入っただけで紐の色まで分かるんですかぁ。すごいですねぇ。息をするように口説くんですねぇ」
「口説いてねえ!!」
カイは薪を取り落とし、慌てて拾い、真っ赤な耳で母屋へ逃げていった。ノエルは勝者の顔ひとつせず、のんびりと盆を置いて戻っていく。一部始終をリディアは毛布越しに呆気にとられて見送った。
「……ね? あれです、あれ」ミレイユが親指で母屋の方を指した。「気づく腕は一流、打たれ強さは三流。セバスさんなんて『近い将来、とんでもない女たらしになるのでは』って、本気の顔で心配してるんですから」
「……飲み物を吹くところも、いずれ拝見できそうですね」
「あ、それはもう三回見ました」
ミレイユがけらけらと笑ったその時、裏庭の入口から低い声がした。
「――何をしている」
レオンハルトが立っていた。見回りから戻ったままの姿で、眉間には通常営業の皺。その目が荷車と、菓子の包みと、リディアの手元を順番に見た。
「あ、旦那様。おかえりなさーい。毛布干し、リディア様が手伝ってくれました。超働けます、この方」
「…………そうか」
レオンハルトは何か言いたそうに口を開き、例によって言葉の渋滞を起こし、結局こう言った。
「……手荒れに効く軟膏が医務室にある」
それだけ言って、行ってしまった。
リディアは自分の手を見下ろした。水仕事のあかぎれの残る、令嬢らしくない手。それをあの一瞬で見ていたのか。
「……ね? 気が長くて、目がよくて、説明が下手なんです、うちの旦那様」
ミレイユがにんまり笑って、リディアは返す言葉を持っていなかった。




