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第4話 猫よりは働けます

 リディアの朝は夜明け前に始まる。


 誰かに起こされるからではない。十年かけて体に刻まれた習慣が空の白む前に勝手に目を開けさせるのだ。灰鷹館(かいようかん)では使用人たちが起き出す前だけが姉妹が誰にも見咎められずに厨房を使える時間だった。


 フォートセバーンに来て、五日になる。


 リディアはその朝も、夜明け前に目を覚まし、寝台を整え、上掛け三枚の皺をひとつ残らず伸ばし、暖炉の灰をかき出して新しい薪を組み、床を見回し――拭くべき汚れひとつ見つからないことを確認して、窓辺の椅子に腰を下ろした。


 やることがない。


 空が白み、屋敷が目を覚ましていく音をリディアは椅子の上で聞いていた。厨房の煙突から煙が立ちのぼる。井戸の滑車が軋む。裏庭で騎士たちの朝駆けの掛け声。誰かの鼻歌――たぶん庭師だ、昨日も同じ節を歌っていた。メイドたちの足音が廊下を行き交い、ミレイユの「おっはよーございまーす」という挨拶とも騒音ともつかない声が壁越しにくぐもって届く。


 賑やかな家だ。そして、その賑わいのどこにも、自分の持ち場がない。


 朝食の席で、レオンハルトは既に食べ終わりかけていた。


「早いな」


「辺境伯様こそ」


「城壁の見回りがある。……ゆっくり食え」


 それだけ言って、彼は立ち上がった。二本の剣を提げ、大股に出ていく。この五日、会話はいつもこの調子だった。短く、要件のみ。夕食の席ではもう少しだけ言葉数が増えるが増えた分は大体カイとメイドたちが埋めていく。


 強引に閨へ引き込まれる気配はあれきり、ない。


 それどころか、あの男はリディアの部屋のある棟に近づきさえしなかった。約束は守られている。守られすぎていて、それはそれで薄気味悪い――というのがリディアの正直なところだった。


 食後、リディアは意を決して執務室のセバスティアンを訪ねた。


「お仕事をいただけませんか」


 老執事は帳簿から顔を上げ、銀縁眼鏡の奥で瞬きをした。


「と、仰いますと」


「何でも構いません。繕い物でも、銀器磨きでも、帳簿の写しでも。一通りのことはできます。ただ部屋にいるだけというのはその……性に合いません」


 我ながら、令嬢の台詞ではなかった。嫁ぎ先で下女の仕事を寄越せと言う婚約者がどこにいる。けれど五日間の空白はリディアの神経を確実に削っていた。働いていない人間に寝床と食事を与え続ける家などない。あるとすれば、それは施しで、施しには必ずあとで利子がつく。


 セバスティアンは少しの間リディアを見つめた。値踏みの目ではなかった。強いて言えば、医者が患者を診る目に近かった。


「リディア様」


「はい」


「当家に来られてから五日、リディア様は毎朝ご自分で寝台を整え、暖炉を掃除しておられますね」


 ぎくりとした。「……お気づきでしたか」


「メイドたちの仕事が朝から消えておりますので。ノエルなどは『私、要らない子です?』と嘆いておりました」


「そ、それは申し訳ないことを……」


「冗談でございます。あの者はあの顔で存外図太うございますゆえ」セバスティアンは眼鏡の位置を直した。「リディア様。お仕事を差し上げるわけには参りません。旦那様より、リディア様には当面ゆっくり過ごしていただくように、と申しつかっております」


「……私は」


 言葉が勝手に口をついた。


「働かない人間がいていい場所なんて、ないのです」


 口にしてから、遅い、と思った。これは言いすぎだ。これでは身の上を明かしているのと同じだ。リディアは慌てて姿勢を正し、「――と、いうのが私の性分でして」と、取ってつけたような言葉で蓋をした。


 セバスティアンは何も聞かなかったような顔で、静かに一礼した。


「ではこう申し上げましょう。リディア様のお務めはこの屋敷に慣れていただくことでございます。屋敷の間取りを覚え、使用人の顔と名前を覚え、街の空気を知り、フォートセバーンの冬支度を学ぶ。当家の女主人となられる方にはそれだけで当面、手一杯の仕事量かと存じます」


「…………」


「なお、リディア様」老執事は去り際に付け加えた。「当家では施しに利子はつきません。先代の代からの家風でございます」


 心を読まれた。


 リディアは自室に戻り、窓辺の椅子に座り直して、頭の中の帳簿を開いた。


 この五日で受け取ったもの。食事が十四回。湯浴みが五回。薪が――数えていないと言えば嘘になる。一日およそ六本。上掛け三枚、山羊乳五杯、香草の湯、繕う必要のない新しい部屋着が二枚。対して、支払ったもの。何もない。閨の務めは断られ、家の仕事は断られ、差し出せるものを何ひとつ受け取ってもらえないまま、借りだけが複利で積み上がっていく。


 施しに利子はつきません、とあの執事は言った。


 信じられるものか、とリディアは思う。――正確には思おうと、した。けれどあの老執事の目は嘘をつく者の目ではなかったし、この五日、この屋敷の誰ひとり、リディアに何かを要求しなかった。それが恐ろしい。要求されれば支払えるのに、請求書の来ない借金ほど、恐ろしいものはないのに。


 ――皆、何が目的なの。


 その時、部屋の扉がノックと同時に開いた。ノックの意味がない。


「リディア様ぁ、いた! ねえねえ、今ちょっといいですか。……って、うわ」


 ミレイユだった。栗色の髪のメイドは部屋に一歩入るなり、目を丸くして立ち止まった。


「なんですかこの部屋。ぴっかぴかじゃないですか。うちらの出る幕どこ?」


「……暇、でしたので」


「暇なら!」ミレイユはずんずんと歩み寄ってきて、リディアの手を断りもなく取った。「あたしの仕事、手伝ってくださいよ。今から裏庭で、冬用の毛布を全部干すんです。猫の手も借りたいの。リディア様、猫より働けるでしょ?」


 リディアは目を見開いた。


 この五日間、誰もが「ゆっくりなさってください」と言った。この娘だけが手伝えと言った。


「……ええ」気づけば、答えていた。「猫よりは働けます」

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