第3話 温かい部屋は、まだ信じない
湯は熱かった。
たっぷりとした湯船に、香草まで浮かべられていた。リディアは肩まで浸かりながら、この湯の対価について考え、考えているうちに指がふやけ、ふやけた指を見て、灰鷹館では水で髪を洗っていた冬の朝を思い出し、それ以上考えるのをやめた。
食堂に案内されたのは日がすっかり落ちてからだった。
長い食卓の主座にレオンハルトが既に着いていて、リディアの席はその右隣に用意されていた。末席ではなく、対面ですらなく、隣。座る前から間合いを測ってしまう自分に嫌気が差しつつ、リディアは着席した。
皿が次々と運ばれてくる。
湯気の立つ豆と腸詰めの煮込み。焼きたてのパン。芋のスープ。骨付きの肉。どれも王都の晩餐のような手の込んだ細工はない。ただ、量が多く、そして全部が熱かった。
リディアはスープの皿から立ちのぼる湯気をしばらく見つめた。
温かい食事が出てくる。当たり前のように。誰の分も減らされず、誰の分も冷めていない。灰鷹館の厨房係は姉妹の皿だけ配膳台の隅に置いて冷やしてから運ばせた。温かいものを口にしたければ、自分で厨房に立つしかなかった。だから、料理を覚えた。
「口に、合わんか」
低い声に、我に返った。レオンハルトがこちらを見ていた。眉間に皺。だがもう、あれが標準装備であることは学習している。
「いえ。……いただきます」
スープを一匙、口に運んだ。
芋と、玉葱と、たぶん鶏の出汁。塩は強め。バターがひと欠け落としてある。北の料理だ。凝ってはいないが寒い土地で体を温めることだけを考えた、正しい味だった。
喉の奥が少しだけ狭くなった。リディアは黙って二匙目を運び、それを誤魔化した。
「話をする」
レオンハルトがナイフを置いた。来た、とリディアは背筋を伸ばす。玄関で先送りにされた「話」。今度こそ条件の通告か。
「婚儀は急がん」
「……はい」
「お前が慣れてからだ。それまで、この屋敷で好きに過ごせ。不自由があれば言え。以上だ」
以上だ、と言われても。
リディアは手の中の匙を握り直した。情報が足りない。決定的に足りない。慣れるとは何にか。好きに過ごせとはどの範囲でか。そもそも――
「……ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか。辺境伯様」
「言え」
「なぜ、私なのですか」
匙を置き、正面から訊いた。「グレイヴァルド家に縁談を求めるにしても、私よりふさわしい……血筋の確かな縁者は他におります。私の噂は辺境まで届いていないわけではないでしょう。それを名指しで。理由をお聞かせください」
レオンハルトはすぐには答えなかった。
猛禽の目がリディアを見て、それから一度、手元の皿に落ちた。何かを言いかけて、やめて、選び直す気配。この男の沈黙が「威圧」ではなく「言葉を探す渋滞」であることも、今日一日で学習しつつある。それでも、返ってきた答えは短かった。
「……いずれ、話す」
「今ではいけないのですか」
「今言っても、お前は信じん」
断言だった。リディアは言い返そうとして、できなかった。図星だったからだ。この男が今どんな理由を並べても――同情でも、政略でも、酔狂でも――自分はその裏を三通りは疑うだろう。
「腹が減ってると、人の話は余計に信じられんものだ。だから、食え」
レオンハルトはそう言って肉を切り分け始め、会話は打ち切られた。理屈になっているようななっていないような理屈だったが不思議と、嘘の匂いだけはしなかった。
その時、食堂の扉が勢いよく開いた。
「くっそ寒……あ、飯まだあるよな? 城壁の交代待ってたら遅れた――」
入ってきたのは少年だった。
黒髪に、鋭い灰色の目。リディアと同じ年頃か、少し下。小柄で、細い。そして顔の造作だけが場違いなほど整っていた。磨いて夜会に立たせれば、王都の令嬢の扇が二、三本は落ちる類の顔である。当人がその値打ちに一文も気づいていないことは着崩れた襟元と寝癖から知れた。なのに歩き方だけが妙に静かで、足音がほとんどしなかった。少年は空いた席にどかりと座りかけ、そこで初めてリディアに気づいて、動きを止めた。
「……アンタが噂の花嫁?」
「初めまして。リディア・フォン・グレイヴァルドと申します」
「ふうん」
灰色の目が無遠慮にリディアを眺めた。値踏みの視線には慣れている。ただ、この少年のそれは着ているものや装飾品を見る目ではなく、もっと別の――立ち合いの間合いでも測るような目だった。
「カイだ。よろしく」少年はあっさり視線を外し、パンに手を伸ばした。「てかレオン、玄関まで聞こえたぜ。『求めん!』って。何を求めてねえの?」
「黙って食え」
「え、何。何をだよ。気になるだろ」
「カイ」
落ち着いた声とともに、セバスティアンが給仕の指揮を執りに食堂へ入ってきた。途端、少年の背筋が三割ほど伸びた。
「……失礼しました。いただきます」
「よろしい」
リディアは思わず二人を見比べた。主人には「レオン」で、執事には敬語。この屋敷の序列は一体どうなっているのか。
「あー、ええと、リディア様? だっけ」カイはパンをちぎりながら、行儀と不作法の中間くらいの調子で言った。「アンタ、運がいいよ。ここの飯、砦の連中が休暇のたびに食いに来ようとするくらいには美味いから」
「……そのようですね」
「あと、レオンは顔こえーけど、慣れると顔がこえーだけだから」
「慣れても怖いままなのですね」
言ってから、しまった、と思った。初対面の、それも主人の身内かもしれない相手に、皮肉が素で出た。
カイは一瞬きょとんとし、それから吹き出した。
「はっ、いいじゃんアンタ。気に入った」
主座で、レオンハルトが何か言いたげに眉間の皺を深くし、結局何も言わずに肉を口へ運んだ。給仕に立つミレイユがノエルと目配せして笑いを噛み殺しているのが視界の端に見えた。
そのミレイユが皿を替えに来たついでに、すれ違いざま声を落とした。
「リディア様。こいつ、顔だけは良いんで。顔だけはお気をつけて」
「聞こえてんだよ!? 何に気をつけんだよ!?」
「ほら、こういうとこですよー」
カイが噛みつき、ミレイユは取り合わず、主座の眉間の皺がもう一段だけ深くなった。
騒がしい食卓だった。
銀器の音だけが響く灰鷹館の晩餐とは何もかもが違う。ここでは給仕のメイドが会話に交ざり、少年が主人に軽口を叩き、執事の咳払いだけが唯一の法だった。
リディアは温かいスープを飲みながら、皿の中身が減っていくのをどこか遠くから眺めるような気持ちでいた。
温かい。美味しい。騒がしい。そして、誰も私を値踏みしない。
――帳簿が、合わない。
今日一日で借方ばかりが頁を埋めて、貸方は白いままだ。こんな帳簿があるものか。差額はいつか必ず、利子をつけて取り立てられる。
――だから、怖い。
こんなものに慣れてしまったら、取り上げられた時に立てなくなる。優しさの後払いの請求書ほど高くつくものはないと、あの屋敷で骨まで教わってきたのだから。
◇
「こちらがリディア様のお部屋になります」
クラリスが扉を開けた瞬間、まず暖気が頬に触れた。
暖炉に、火が入っていた。誰かが夕食の間に整えたのだろう、薪は太いのが二本、崩れないように組まれて、静かに燃えていた。広い寝台には毛織りの上掛けが三枚重ねられ、窓には厚いカーテン。卓の上には水差しと、蜂蜜を溶かした温かい山羊乳まで置かれている。
「暖炉の薪は廊下の端に積んであります。夜中に足りなくなれば、鈴を鳴らしていただければ誰かが参りますが――」クラリスはそこで少しだけ言葉を選んだ。「……ご自分でくべられる方だと、お見受けしましたので、場所だけお伝えしておきます」
「……ええ。自分でできます」
「ではおやすみなさいませ」
一礼して下がりかけたクラリスの後ろから、ミレイユがひょいと顔を出した。
「リディア様、あったかくして寝てくださいね。ここの冬、王都より二枚は重ね着の世界なんで。あと、なんかあったら遠慮なく叫んでいいですから。旦那様が来たら、とか」
「ミレイユ」
「冗談ですって。おやすみなさーい」
扉が閉まり、足音が二つ、笑い声の余韻と一緒に遠ざかっていった。
リディアは部屋の真ん中に、ひとりで立った。
静かだった。けれど灰鷹館の静けさとは違う。耳を澄ませば、階下からかすかに皿を洗う音がして、どこか遠くでカイの抗議する声とミレイユの笑い声がして、家がまだ生きて動いている気配が床板越しに伝わってくる。静寂ではなく、ただ、自分の周りだけ声が休んでいる。そういう静けさだった。
窓辺に寄り、カーテンの隙間から外を見た。
南向きの部屋だった。
眼下に中庭らしい闇があり、その向こうに街の灯が散らばり、さらにその先は夜に溶けている。あの闇のずっと先、幾つもの丘と街道を越えた果てに、王都がある。
――南向き。
灰鷹館でリディアとエミリアに与えられていたのは北側の客間を改装した部屋だった。日は差さず、隙間風が入り、薪は月の割当てが決まっていて、真冬にはいつも足りなくなった。だから姉妹は寒い夜、ひとつの寝台で丸くなって、互いの足を温め合って眠った。エミリアの足はいつも氷のようで、温めているうちに、先に眠ってしまうのはいつも妹の方で。
リディアは燃える暖炉を振り返った。
太い薪が二本。誰も数えていない薪。鳴らせば誰かが来る鈴。三枚の上掛け。蜂蜜入りの山羊乳。
――私だけ、温かい部屋にいる。
その瞬間、一日中張り詰めていた何かが音もなく軋んだ。
エミリアは今頃、あの北の部屋にひとりでいる。今夜の薪は足りているだろうか。夕食は温かいうちに――いいえ、そもそも、忘れられずに運ばれただろうか。熱を出しても、もう煎じてやれる者はいない。廊下に足音がするたび、あの子はひとりで、肩を震わせているかもしれない。姉が繕った古い外套を着て、大丈夫、と口の中で唱えながら。
そして、あの琥珀色の目。
エミリアを連れて行くことを拒んだ時の、侯爵の、あの粘つく目つき。あれが何なのか、リディアには名前がつけられない。つけられないことがずっと、喉に刺さった棘のように抜けない。
目の奥が熱くなった。
リディアは唇を噛み、旅の鞄を開けた。着替えが数枚。針と糸の裁縫箱。そして一番底に、布でくるんだ古い本――母の作法書。表紙の擦り切れた、母がまだ小さな貴族の娘だった頃の教本。リディアが礼儀作法のすべてを盗み学んだ、たった一冊の師。
それを胸に抱えて、リディアは寝台の端に腰を下ろした。
泣かない。そう決めている。泣くのは何かを諦めた者のすることだ。
だから、これは涙ではなく――ただ、目の縁から一粒だけ零れたものは暖炉の火が眩しかったせいだ。そういうことにして、リディアは手の甲でそれを拭った。
考えろ。泣く暇があるなら、考えろ。
この縁談が何であれ、あの黒狼伯の目的が何であれ、ひとつだけ確かなことがある。私は今、侯爵家の外にいる。生まれて初めて、あの屋敷の外に。そして相手は侯爵ですら断れなかった辺境伯だ。この立場は――使える。
妻としての立場でも、婚約者としての立場でも、何でもいい。この家で信を得て、足場を固めて、いつか。
いつか、必ず、エミリアをあの屋敷から出す。
方法はまだ分からない。何年かかるかも分からない。あの男が信じるに足るのかどうかすら、まだ分からない。それでも、初めて「いつか」に手が届きそうな場所に、私は立っている。
私が幸せになる必要はない。そんなものは最初から勘定に入れていない。
ただ、エミリアが笑って生きられる場所を。それだけが私がこの魔境で手に入れるべき、唯一のものだ。
リディアは作法書を枕元に置き、灯りを消した。
暖炉の残り火が天井に柔らかな影を揺らしていた。目を閉じると、慣れない上掛けの重みが誰かに背中を撫でられているようで、少し泣きそうになった。
――魔境に売られた娘はこうして最初の夜を生まれて初めての温かい部屋で眠った。
その温かさもまだ誰のことも、信じていないままで。




