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第2話 求めん!

 車寄せに馬車が停まり、扉が外から開かれる。


 差し出された護衛の手を借りて降り立ったリディアはまず屋敷の玄関前に並んだ人々を見た。


 整列、と呼ぶには少しばかり形が崩れていた。


 中央に、姿勢のいい老紳士がひとり。白髪の混じった髪を撫でつけ、銀縁の眼鏡の奥の目は穏やかに伏せられている。彼の立ち姿だけは王都の一流の屋敷に置いても通用しそうだったが問題はその両脇だった。メイド服の少女が三人。ひとりは背伸びをするようにこちらを覗き込み、ひとりは彫像のように直立し、ひとりは――よく見ると、半分眠っているように見えた。


 覗き込んでいた栗色の髪のメイドがリディアと目が合った瞬間、ぱっと顔を輝かせた。


「うわ、ほんとに来た」


「ミレイユ」


 老紳士が声量を変えずに名前だけを呼んだ。栗色の髪のメイド――ミレイユと呼ばれた少女は首をすくめたが悪びれた様子は特になかった。


 老紳士は改めて一歩進み出ると、深く、美しい礼をした。


「ようこそお越しくださいました、リディア様。当家の執事を務めております、セバスティアン・クロウと申します。長の道中、お疲れでございましょう」


「……丁重なお出迎え、痛み入ります」


 リディアは淑女の礼を返した。何百回と練習させられた――否、誰にも教われず、母の古い作法書を盗み見て独学した礼だ。角度に狂いはないはずだった。


「メイドのミレイユです! てか近くで見るともっと綺麗ですね、その髪――」


「クラリスと申します。以後、お世話を務めさせていただきます」


「ノエルです。……ふふ」


 立て続けの三人に、リディアは礼の姿勢のまま一瞬固まった。


 最初の挨拶で容姿に触れるメイド。完璧な角度で頭を下げる黒髪のメイド。そして最後のおっとりした声の、ふわふわした薄茶の髪のメイドに至っては挨拶の途中で笑った。何がおかしかったのか、まるで分からない。


 ――試されている?


 リディアの頭が自動的にそう処理した。灰鷹館の使用人たちも、表向きの礼と陰の値踏みは常に別だった。新入りの令嬢がどこまで礼を欠かさず、どこで襤褸を出すか。きっとこの屋敷でも、私の一挙一動は今夜のうちに主人へ報告される。


「本来であれば旦那様が真っ先にお出迎えすべきところ、直前まで城壁の見回りが入っておりまして。間もなく――」


 セバスティアンがそこまで言った時、玄関の扉の奥から足音が近づいてきた。


 重い足音ではなかった。むしろ静かな、無駄のない歩調。なのにその音が近づくにつれ、玄関前の空気が目に見えて引き締まっていくのが分かった。ミレイユが姿勢を直し、ノエルの眠たげな目が薄く開く。


 扉の陰から現れたその人を見た瞬間、リディアの背筋を冷たいものが駆け上がった。


 大きい。まず、そう思った。長身の護衛の騎士たちと並んでなお、頭ひとつ抜けている。黒い上着は装飾のひとつもない実用一辺倒の仕立てで、肩や胸の厚みをまるで隠していない。夜の色の髪は無造作で、その下の顔は――


 怖い、という言葉しか出てこなかった。


 整ってはいるのだろう。おそらくは。けれど眉は険しく寄り、口は真一文字に結ばれ、そして双眸がこちらを射抜いていた。獲物を検分する猛禽の目だ、とリディアは思った。夜会で令嬢を視線ひとつで泣かせたという噂は誇張でも何でもない。これは泣く。普通の令嬢なら泣く。


 その男がまっすぐこちらへ歩いてくる。


 リディアは無意識に一歩引きそうになる足を床に縫い止めた。俯いたら負けだ。逃げたら、破談だ。


 視界の端に、男の腰のものが映った。


 剣が二本。


 一本は左腰に。柄の革が黒ずむまで握り込まれ、鞘のあちこちに細かい傷の走った、明らかな実戦の剣。そしてもう一本、腰の後ろに回すように佩かれた剣は――黒い。鞘も柄も、光を吸うような黒一色で、傷ひとつなかった。装飾めいて見えるのに装飾がなく、実戦の剣の隣にあるのに、およそ使われた気配がない。


 屋敷の中でまで帯剣する主人。しかも二本。ここはそういう土地で、これはそういう男なのだ。観察は一瞬で終わり、結論は恐怖に上乗せされた。


 男はリディアの三歩手前で止まった。


 三歩。手は届かないが剣なら届く距離――と、考えてしまう自分が嫌になる。


「レオンハルト・アッシュフォードだ」


 低い声だった。地の底から響くような、と形容される類の。


「リディア・フォン・グレイヴァルドでございます。この度は――」


「長旅だったな」


 口上はひと言で断ち切られた。


 リディアは開きかけた口を閉じた。挨拶を遮られた。婚約の口上を最後まで言わせないというのはつまり、そういう儀礼はこの際どうでもよいという意思表示か。ならば何がどうでもよくないのかと言えば――考えたくなかった。


「部屋は用意してある」


 レオンハルトは言った。


「食事も温かいものを出す。湯も使え」


 それきり、黙った。


 沈黙が落ちた。


 リディアは待った。続きを待った。部屋を用意した、食事を出す、湯を使え――で? その後に何を要求されるのか。頭の中では帳簿が既に新しい頁を開いて、対価の欄を空けて待ち構えている。対価の提示を、条件の通告を、待った。


 来なかった。


 レオンハルトは黙ったまま、リディアを見下ろしている。眉間の皺は深くなる一方で、口は結ばれたまま動かず、猛禽の目は瞬きも少なく、ただじっと、こちらに据えられている。


 ――何なの。


 何なのだ、この沈黙は。値踏みか。品定めか。それとも返答を試されているのか。「ありがたき幸せ」とでも言えばいいのか。それとも黙って頭を下げるのが正解か。分からない。この男の顔からは何ひとつ読み取れない。読み取れる情報が怖い、しかない。


 背後でメイドの誰かが身じろぎする気配がした。セバスティアンが何か言いたげに息を吸ったのも分かった。けれど誰も、この沈黙を割ってはくれなかった。


 十秒。あるいはもっと。


 永遠にも思える無言の対峙の果てに、リディアは理解した。理解した、と思い込んだ。


 この男は言葉を必要としていないのだ。部屋、食事、湯。飼うものに与える三点を通告し、あとは沈黙で「分かっているな」と告げている。名指しで婚約者を求めた男が婚約者に求めるものなど、最初からひとつしかない。


 ならば。


 怯えて目を逸らして、後からじわじわと追い詰められるくらいなら――先に、こちらから言ってやる。取り乱さず、対等に、契約の条件を確認するように。それだけが私に残された唯一の虚勢だ。


 リディアは顎を引き、菫色の目で正面から黒狼伯を見据えた。


   ◇


「妻としての務めを求められるのであれば――拒みません」


 声は震えなかった。そこだけは自分を褒めてやりたい、とリディアは思った。


 背筋を伸ばし、顎を引き、両手を体の前で重ねたまま。まるで取引の条件を読み上げる商人のように、一語一語、はっきりと。


「今宵からでも、お申し付けください。抵抗はいたしません。ただ、ひとつだけお願いがございます。私がその……務めを果たしている限り、グレイヴァルド家に残した妹には累が及ばないように――」


「待て」


 低い声が割り込んだ。リディアは口を閉じ、通告の続きを待つ姿勢を取った。


 レオンハルト・アッシュフォードは固まっていた。


 猛禽の目がわずかに見開かれている。真一文字だった口が何かを言いかけた形のまま止まっている。彫像のような静止が二秒、三秒――やがてその彫像はぎこちなく口を開いた。


「……務め、とは何の話だ」


「ですから」リディアは正確を期した。「閨の」


「求めん!」


 屋敷が震えた気がした。


 それは咆哮に近かった。玄関ホールの高い天井に反響して、シャンデリアの硝子がちりちりと鳴った。リディアは反射的に半歩下がり、下がってから、自分が今まで一度も下がらなかったのにここで下がったことに気づいた。


 黒狼伯は叫んでいた。あの黒狼伯が。魔物より恐ろしいと噂される男が耳まで赤くして。


「……求めん。何も、求めん。そういうことのために、呼んだんじゃない」


「……は」


「部屋は別だ。お前の部屋と、俺の部屋は別だ。廊下も、別――いや廊下は同じだが棟が」


 説明は後半に行くほど崩壊した。


 リディアは呆然と立ち尽くしていた。頭の中で、十日間かけて積み上げた覚悟が音を立てて崩れていく。崩れた後に何が残るのかが分からなくて、それが一番、怖かった。怒鳴られたことよりも、この男が耳まで赤いことよりも、自分の予測が根底から外れたことが。


 沈黙を破ったのはこらえきれなかった笑い声だった。


「あっはははは! だっ、旦那様、耳! 耳まっか!」


 ミレイユが腹を抱えていた。メイドとして完全に失格の姿勢で、主人を指差して。


「ミレイユ、指を差すものではありません」クラリスが静かに窘め、それから真顔のまま主人に向き直った。「旦那様。旦那様の説明不足です」


「……何がだ」


「全部です。お迎えの口上を遮り、御用件も仰らず、無言で十秒以上も花嫁様を睨み続ければ、どのような誤解をされても文句は言えません」


「睨んではいない」


「睨んでました」「睨んでましたね」「睨んでたじゃないですかー、思いっきり」


 三人の声が重なった。レオンハルトの眉間の皺がさらに深くなる。今のリディアにはそれが不機嫌ではなく狼狽の皺なのだと、辛うじて分かった。分かってしまうと、余計に混乱した。


「大丈夫ですよ、リディア様」


 ふわり、と隣に来たのはノエルだった。眠たげな目が安心させるように細められる。


「旦那様は女性を襲えるほど器用ではありません」


「おい」


「事実です。旦那様、先月の視察で酌婦さんに袖を引かれた時、真顔で『任務中だ』って断ってましたよね。お相手は椅子を勧めただけなのに」


「……あれは」


「はい?」


「……何でもない」


 王国最強の辺境伯が十七かそこらのメイドに言い負かされて目を逸らした。


 リディアはまだ一言も発せずにいた。展開が速すぎる。この屋敷の会話は速度も、方向も、温度も、彼女の知っているどの会話とも違う。灰鷹館で使用人が主人にこんな口を利いたら、その日のうちに荷物をまとめさせられる。ここでは主人がやり込められて、誰も凍りついていない。それどころか――笑っている。


「皆様、その辺りに」


 静かな声とともに、セバスティアンが進み出た。ようやくまともな仲裁が入る、とリディアは思った。老執事は主人の傍らに立ち、恭しく一礼して、言った。


「旦那様。第一印象は最悪でございます」


「セバスティアン」


「ようございますか、旦那様。本日という日のために、私は申し上げて参りました。まず笑顔、次に労いの言葉、御用件は文章の形で、と。旦那様が実行なさったのは労いのひと言のみ。挙句、初夜の誤解で怒鳴り声。この失点、取り返すのに半年はかかるものと覚悟なさいませ」


「……飯の時に、話す」


 レオンハルトは押し出すようにそれだけ言うと、身を翻した。逃げた、という表現がこれほど似合う退場をリディアは見たことがなかった。大股に廊下の奥へ消えていく直前、彼は一度だけ足を止め、振り向かずに言った。


「……その、何だ」


 沈黙。一同が待つ。


「妹の件は累が及ばんように、しておく」


 足音が遠ざかっていった。


 リディアはその背中が消えた廊下の奥をしばらく見つめていた。


 閨の務めは全力で拒否された。なのに、務めと引き換えに願ったことだけが引き換えなしで拾われた。取引を持ちかけて、対価だけ受け取りを拒まれ、商品だけ先に渡された。そんな商談があるだろうか。帳簿のどの欄に書けばいいのかすら、分からない。


 ――何なのだ、この男は。


「リディア様ぁ」


 気づけば、ミレイユがすぐ横でにんまりと笑っていた。


「今宵からでも、って。攻めますねえ」


「なっ……あ、あれはそういう意味では」


「どういう意味ですー?」


「ミレイユ。リディア様は長旅でお疲れです」クラリスが割って入り、リディアは救われたと思ったがクラリスは生真面目な顔のまま続けた。「からかうのは湯浴みと夕食が済んでからになさい」


「後でなら良いのですか!?」


 声が裏返った。裏返ってから、口を押さえた。こんな声を出したのは何年ぶりだろう。


 三人のメイドが顔を見合わせて笑った。悪意の匂いを探したが見つからなかった。探し方が悪いのだと、リディアはまだ思っていた。

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