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第1話 魔境に売られた花嫁

 北へ向かう街道の果てに、壁があった。


 最初は山の稜線かと思った。灰色の空との境目に、それより暗い灰色がわだかまっている。馬車が丘をひとつ越えるたびにそれは大きくなり、やがて稜線ではありえない直線と、直線の上に等間隔で並ぶ櫓の影が見分けられるようになった。


 壁だ。人間が積んだ壁が地平を塞いでいる。


「フォートセバーンの城壁です。今夜には着きますよ、お嬢様」


 馬車の窓越しに、護衛の騎士が声をかけてきた。頬に古い傷のある、熊のような大男だった。リディアは膝の上で手を重ねたまま、小さく頭を下げるにとどめた。


「……ありがとうございます」


「壁が見えてからが長いんですがね。なにせでかいもんで」


 男は笑い、馬を先へ進めた。悪意のない笑い方だった。それがかえって、リディアには落ち着かない。


 ――笑いながら近づいてくる人間は次に何かを要求する。


 頭の中の帳簿が勝手に開く。十八年の冷遇で骨まで染みた計算。リディアはそれを恥じるでもなく、ただ窓の外へ目を戻した。


 王都を発って、十日になる。


 リディア・フォン・グレイヴァルド。グレイヴァルド侯爵家の三女――ということに、なっている。実際には当主の血を一滴も引いていないことを屋敷の全員が知っていて、誰も口に出さず、そのくせ全員の目つきが毎日それを語っていた。奥様の罪の子。灰鷹館(かいようかん)の汚れ。陰口は聞こえるように囁かれるものだと、リディアは物心つく前から知っている。


 その厄介者に、縁談が来た。


 相手はフォートセバーン辺境伯レオンハルト・アッシュフォード。


 王国の北東の果て、魔物のひしめく魔境を唯一の壁として塞ぐ、王国最強の辺境伯。御年二十二にして、その剣は単騎で魔物の群れを沈黙させるという。


 そして――王都の社交界で、その名は決して祝福と共には語られない。


 曰く、黒狼伯は笑わない。曰く、黒狼伯は舞踏会で令嬢に囲まれても一言も発さず、視線ひとつで泣かせた。曰く、逆らった部下を魔境に置き去りにした。曰く、あの領地では人の命が銅貨より軽い。曰く、曰く、曰く。


 噂の九割は尾ひれだと、リディアとて頭では分かっている。けれど残りの一割を否定できる材料を彼女は何ひとつ持っていなかった。確かなことはただひとつ。まともな家なら、娘をやりたがる相手ではないということだ。


 だからこそ、灰鷹館はリディアを差し出した。


 縁談の書状が届いた日のことはよく覚えている。応接間に呼ばれたリディアに、義父は――侯爵は書状を放って寄越した。読め、とも言わなかった。


「辺境伯家からだ。お前をと名指しでな」


 侯爵の声には愉快さと不快さが等分に混ざっていた。厄介者を体よく処分できる愉快さと、その厄介者が侯爵家の格に釣り合う縁を得てしまう不快さと。


「魔境の花嫁か。君にお似合いだよ」


 ソファに寝そべった次兄のファビアンが笑顔のまま言った。「ほら、君は丈夫なのが取り柄だろう? 王都の令嬢じゃ三日で音を上げる土地だ。適材適所というやつさ」


「騒ぐな、ファビアン」


 長兄のアルノルトは書類から目も上げなかった。「――家格に不足はない。断る理由もない。それだけの話だ」


 リディアに、諾否は訊かれなかった。訊かれるとも思っていなかった。


 彼女が口を開いたのはただひとつのことのためだ。


「……お受けします。ですから、エミリアを連れて行くことをお許しください」


 あの時の侯爵の目をリディアは忘れられない。


 琥珀色の瞳がすっと細くなった。値踏みでも嘲笑でもない、もっと粘つく何かがその奥で動いて――それから侯爵は口の端だけで笑った。


「ならぬ。四女まで出せば外聞が悪い」


「外聞なら、むしろ――」


「二度は言わぬ」


 交渉の余地は最初からなかった。あるふりすら、してもらえなかった。


 馬車が轍を踏んで揺れ、リディアは目を伏せた。


 出立の朝、エミリアは門の内側までしか見送りを許されなかった。侍女もつけられない妹は姉が繕った古い外套を着て、白い息を吐きながら、それでも笑おうとしていた。


「お姉様。私は大丈夫ですから」


 十六歳の妹はそう言った。大丈夫、が口癖の子だった。熱を出して寝込んだ夜も、食事を忘れられた日も、兄たちに廊下で嘲られた後も、あの子はいつも、ごめんなさいと大丈夫ですだけで生きてきた。


 大丈夫なものか。


 リディアがいなくなった灰鷹館で、誰があの子の食事を確かめるのか。誰が薪を運ぶのか。熱を出した時、誰が薬草を煎じるのか。使用人たちは指一本動かさない。それどころか――


 考えるほどに、指先が冷えていく。リディアは自分の手に目を落とした。令嬢の手ではない。水仕事のあかぎれと、包丁の小さな傷と、針の跡。この手で妹の生活を守ってきた。その手が届かない場所に、妹を置いてきた。


 私はエミリアを見捨てたのではないか。


 ――違う。リディアは唇を引き結ぶ。順番が逆だ。私が断れば、縁談は「グレイヴァルド家の娘」の誰かに残る。侯爵が次に差し出すのはエミリアかもしれなかった。魔境に売られるのが姉妹のどちらかひとりなら、私であるべきだ。それだけの話。


 それだけの話だと、十日間、毎晩自分に言い聞かせている。言い聞かせなければならない時点で、それだけの話ではないのだった。


 膝の上には畳んだ毛布がある。


 迎えの馬車に、最初から積まれていたものだ。毛布が二枚、足元に湯たんぽ、宿場ごとに新しい湯。護衛の騎士たちは無骨だが休憩のたびに温かい茶を持ってきた。


 ご丁寧なことだ、とリディアは思う。


 商品は傷ませずに運ぶものだから。


 毛布の柔らかさに、うっかり感謝しそうになるたび、リディアはそう思い直すことにしていた。優しさには値札がついている。値札のない優しさをくれたのは死んだ母と、エミリアだけだ。この毛布の代金を自分がこれから何で支払わされるのか――考えると、指先の冷えは膝から胃の腑まで這い上がってくる。


 頭の中の帳簿に、リディアは几帳面に記帳する。借方、毛布二枚。湯たんぽ一つ。宿場ごとの温かい茶。貸方は、どの行も空欄のまま。書かれていない対価は、いくらでも高く化ける。それもあの家で覚えた計算のうちだった。


 黒狼伯が婚約者を迎える。名指しで。


 厄介者と知られた娘を名指しする理由など、ろくなものであるはずがない。侯爵家への当てつけか、体のいい人質か、それとも――王都の夜会で、扇の陰の令嬢たちが囁いていた言葉が蘇る。「あの方に嫁ぐくらいなら死んだ方がまし」「魔物と暮らすようなものよ」「初夜に食い殺されても、誰も調べに行かないでしょうね」。


 食い殺されるのはご免だ。


 けれど、婚約者として迎えられた以上、妻として扱われることは――強引にであろうと――覚悟しなければならないのだろう。リディアは毛布の端を握った。抵抗すれば、破談。破談になれば、次はエミリアかもしれない。ならば選択肢は最初からない。耐えることなら、慣れている。あの屋敷で身につけたたったひとつの特技だ。


 ――耐えて、生き延びて、いつか。


 いつか、何ができるのかはまだ分からなかった。


 馬車が速度を落とした。


 気づけば城壁は空を覆うほど近くにあり、開かれた大門の下を荷馬車と人の列が流れ込んでいく。リディアの馬車が門をくぐる時、頭上の石の厚みが日の光を一瞬断って、腹の底に響く暗さが通り過ぎた。


 そして――音が押し寄せてきた。


 怒鳴り声。笑い声。金物を打つ音。荷を下ろす男たちの掛け声。どこかで犬が吠え、それより遠くで、獣とも人ともつかない歓声がどっと沸く。窓の外を毛皮を着込んだ髭面の男が大股に横切った。腰に剣。頬に傷。その後ろを竜の鱗のようなものを山と積んだ荷車が軋みながら行く。露店の軒先には名も知らぬ魔物の牙や角が無造作に吊るされて値札をつけられていた。


「闘技場が跳ねた頃合いですな」護衛の騎士が馬上から言った。「賑やかでしょう、お嬢様」


 賑やか。その言葉の選び方に、リディアは返事ができなかった。


 王都の市場はこんな音はしない。物売りの声にも旋律があり、貴族の馬車が通れば人垣は割れて頭を下げる。ここでは誰も道を譲らない。騎士の馬に平気で「おう、旦那んとこの客かい」と声を飛ばし、騎士も「そうだ、轢かれる前にどけ」と返す。すれ違う人間の半分は帯剣し、三割は顔か腕に傷があり、そして全員が声が大きい。


 怖い、と思った。


 理屈ではなく、肌がそう言った。ここは人の命が銅貨より軽い土地。噂の一割はきっと本当だ。リディアは背筋を伸ばし、膝の上の手を重ね直した。怖いと思った時ほど、姿勢を正す。俯いたら負けだと、灰鷹館で覚えた。


 街路が上りにかかり、喧噪が少しずつ背後へ遠のいていく。


 やがて馬車は黒ずんだ石積みの塀に沿って進み、鉄柵の門の前で停まった。


 門扉の向こうに、屋敷が見えた。


 王都の基準で言えば、質素な屋敷だった。彫像もなく、噴水もなく、壁面を飾る蔦の一本すらない。ただ石が厚く、窓が深く、屋根には煙突が――数えるのも馬鹿らしいほどたくさんの煙突が立って、そのほとんどから白い煙が上がっていた。


 ……暖炉の多い家。


 頭に浮かんだ感想はそれだけで、それが感想として正しいのかどうかも分からなかった。


 門番が護衛と二言三言交わし、鉄柵が内側へ開かれていく。蝶番の軋む音がやけに大きく聞こえた。


 リディアは膝の上で、自分の手を強く握った。


 ――私は今日、魔境に売られる。


 泣かない。俯かない。何を要求されても、取り乱さない。それがグレイヴァルド家で生き延びた私の、たったひとつの財産で、これから先もきっとそれだけが私を守る。


 エミリア。姉さんは大丈夫よ。あなたよりずっと、頑丈にできているから。


 馬車が門をくぐった。

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