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追わせない

「ルシアンさんは……連れていかれました……!」


 ハインの声が、川音に呑まれかけた。誰も、すぐには動けなかった。セレスは目を見開いたまま、呼吸を忘れたように固まっていた。濡れた袖を握る指先だけが、小さく震えている。ノルも同じだった。翠穿《すいせん》を肩に掛けたまま、顔から表情が抜け落ちている。エディンは、ゆっくりと息を吐いた。それから、俯いた。藤色の髪が頬に落ちて、その表情を隠す。けれど、肩の線だけはいつものように柔らかくなかった。


 レイスは険しい顔で、ハインを見ていた。責める目ではない。けれど、何かを測るような、何かを必死に飲み込むような目だった。アルドだけが、唖然としていた。ハインの言葉が、頭の中で形にならない。連れていかれた。誰が。ルシアンが。誰に。どこへ。なぜ。思考が、ぐちゃぐちゃに絡まった。胸の奥で、何かが嫌な音を立てた。


「……何が」


 声が、掠れた。アルドは一歩踏み出した。


「何があった!」


 怒鳴り声が、川辺に叩きつけられた。ハインの肩が跳ねる。彼は泥と土に膝をついたまま、額を地面に擦りつけるようにして震えていた。首筋には細い傷があり、そこから乾ききらない血が一筋、襟元へ落ちている。


「すみません……すみません、私が……私が、足手まといに……」


「それは後でいい!」


 アルドが叫ぶ。レイスが横から腕を伸ばしかけたが、止めなかった。今のアルドを、止める言葉がないと分かっていた。


「何があったか言え! ルシアンはどこだ!」


 ハインは唇を噛んだ。血が滲むほど噛んで、それでも震える声を絞り出した。


「……合流地点に、着いたんです」


 川の音が、少しだけ大きく聞こえた。


「ルシアンさんと、二人で……」


         ◇


「ここが合流地点?」


 ルシアンは川辺に立ち、周囲を見回した。森の中を抜けた先に、流れの速い川があった。幅は広すぎない。だが水量は多く、岩にぶつかった水が白く砕けながら、南へ流れている。ハインは荷馬車から飛び降りると、息を整える間もなく頷いた。


「はい。ここで積荷を積み替えて、川下に流します。馬で引くより早く移動できますし、追跡の線も切れます」


「なるほどね」


 ルシアンは、川面へ目を向けた。流れは速い。けれど、暴れているわけではない。浮かべるものを選べば、十分使える。


「赤鎖も前に似たようなことをしてたの」


「そうなんですか?」


「うん。荷が多いと、道だけじゃ逃げきれないんでしょうね」


 ルシアンはそう言って、荷馬車へ振り返った。箱は多い。織物、工芸品、食料、道具。ハインが南へ運ぶはずだった荷。黒豹が生きるための足場にもなる荷。アルドたちが来るまでに、動かせる状態にしておかなければならない。


「急ごう。アルドたちが来た時に、すぐ移動できるように」


「はい。急ぎましょう。ルシアンさん、旋風魔法で少し手伝っていただけますか」


「もちろん」


 ルシアンは左手を上げた。指輪に淡い光が灯る。その光を見ただけで、ハインの肩から少し力が抜けた。ルシアンは、それに気づいて小さく笑った。


「大丈夫。荷を吹き飛ばしたりはしないから」


「そ、それは信用しています。少しだけ怖いですが」


「正直だね」


 その時だった。


「黒豹のルシアンだな」


 背後から声がした。低い声だった。大きくはない。それでも、森の空気を一瞬で冷やす声だった。ルシアンとハインは振り向いた。木々の間に、人影が立っていた。一人ではない。黒灰色の外套を纏った者たちが、いつの間にか川辺を囲んでいる。顔は深く隠されていた。足音も、気配も、直前までほとんどなかった。ルシアンの喉が、わずかに動いた。


「灰……冠《はいかん》……」


 黒灰色の外套の一人が、ぴたりと動きを止めた。


「何故その名を知っている」


 ルシアンは答えなかった。ハインも、息を呑んだまま固まっていた。外套の男は、しばらくルシアンを見ていた。


「まあいい。お前には来てもらう」


 ルシアンは左手を前へ出した。指輪に灯った淡い光が、薄く強まる。


「行くわけないでしょ」


 声は震えていなかった。


「どうせ殺されるなら、ここで死ぬまで戦う」


「殺しはしない」


 外套の男は、淡々と言った。


「我々に下された命令は、お前の連行だ。暗殺ではない」


「それを、信用しろと?」


「我々がその気なら、もうお前は死んでいる」


 ルシアンは言い返さなかった。言い返せなかった。それが、はったりではないと分かったからだ。周囲の気配が薄すぎる。見えている数より、いる。風が読めない。木々の隙間にいるはずなのに、枝も葉もほとんど揺れていない。逃げる隙がない。


「大人しく付いてくるつもりはないのか」


「ない」


「そうか」


 男が、短く言った。


「なら」


 次の瞬間、ハインの喉元に刃が当てられた。ルシアンの目が見開かれる。


「……いつの間に」


 ハインの背後に、別の外套の男がいた。片膝を折らされ、腕を捻られ、首筋に短剣を押し当てられている。ハインの顔から血の気が引いていた。それでも、悲鳴は上げていなかった。


「その男を殺す」


 外套の男は、感情のない声で言った。


「そいつの殺害禁止命令は出ていない。我々にとっては、生きていようが死んでいようがどうでもいい男だ」


「やめなさい」


 ルシアンの声が低くなる。指輪の光が強くなった。だが、ハインの首に刃が沈む方が早い。それを、ルシアンは理解してしまった。


「いや、違うな」


 男が続ける。


「その男は我々の組織名を知った。殺す理由ができた」


 刃が、ほんの少し動いた。ハインの首筋から、血が一筋流れた。ルシアンの顔が青くなる。


「だが、お前が大人しく付いてくるなら、特別に見逃してやってもいい」


「私は」


 ハインが、震える息で言った。


「私は、足手まといにならない」


 その場にいた全員の視線が、ハインへ向いた。ルシアンも、灰冠たちも。ハインは首に刃を当てられたまま、必死に顔を上げた。


「ルシアンさん。私のことは、気にしなくていいです。戦うべきです」


「ハインさん……」


「しばらく耐えれば、アルドさんたちが来てくれます。この人たちは、それを恐れているから、今この交渉を持ちかけているはずです」


 言葉は震えていた。けれど、折れてはいなかった。商人の目だった。恐怖で喉を塞がれても、なお損得と時間を見ようとする目。


「……ほう」


 外套の男が、わずかに声を変えた。


「非戦闘員にも関わらず、この状況でよくそこまで見る。本当に頭が回るんだな。ハインとやら」


 ハインの目が大きく開いた。


「……なぜ、私の名を」


 男は答えなかった。ハインの問いを、無視した。


「ルシアン」


 男はただ、ルシアンを見た。


「ここでお前がハインを見捨てて戦っても、我々なら一分もあればお前を制圧できる」


 ルシアンは周囲を見た。木の影。外套。刃。ハインの血。川の音。指輪に込めた魔力が、指先で揺れている。


「はったりじゃ……ないみたいね」


「ああ」


 男は頷いた。


「お前の選べる道は二つに一つだ」


 短剣が、ハインの首筋にさらに近づく。


「ハインが殺された上で無理やり連れ去られるか。このまま大人しく付いてくるか」


 ルシアンは何も言わなかった。考えた。必死に考えた。風槍を撃つ。間に合わない。水で刃を弾く。相手の手首が先に動く。自分を盾にする。ハインまでは距離がある。叫ぶ。アルドたちには届かない。戦う。ハインが死ぬ。従う。自分が連れていかれる。それでも、ハインは生きる。沈黙が落ちた。川の音だけが、ずっと流れている。


「……分かった」


 外套の男が、小さく言った。ハインの目が揺れる。外套の男が、片手を上げた。


「やれ」


 ハインが地面へ押しつけられた。短剣に力が入る。ハインは、きつく目を閉じた。覚悟したように。ルシアンの中で、何かが千切れた。


「待って!!」


「待て」


 男の声と同時に、短剣の動きが止まった。ハインの喉が震える。ルシアンは左手を下ろした。指輪の光が、ゆっくりと薄れていく。


「条件がある」


「言ってみろ」


「ハインさんと積荷に手を出さないこと。灰冠の名を知ったハインさんを、処理対象から外すこと。アルドたちを見逃すこと」


 ルシアンは、息を吸った。吸った息が、胸の奥で痛んだ。


「私を連れて、全員この場から離れること。見張りを付けないで」


 外套の男は、少し黙った。


「……多いな」


「呑めないなら、今ここで自害する」


 空気が変わった。周囲の外套たちの気配が、わずかに硬くなる。


「なんだと」


「殺害禁止命令が出てるんでしょ。私に死なれたら、あなたたちは困るはず」


 ルシアンは男を見た。怯えていないわけではなかった。手は震えている。足も、動きそうにない。けれど、目だけは逸らさなかった。外套の男が、浅く息を吐いた。


「……分かった。いいだろう。全て呑もう」


「なら、付いていく」


「ルシアンさん!」


 ハインが叫んだ。押さえつけられたまま、土に爪を立てる。


「駄目です! 殺されないとしても、何をされるか分かりません! 死ぬより辛い目に遭う可能性もあるんです! 絶対に駄目です!」


 ルシアンは、ハインの方を向いた。無理に笑った。いつものように、誰かを安心させる時の顔だった。


「アルドたちに伝えて」


 ハインの息が止まる。


「私のことは、絶対に追わないでって」


「ルシアンさん……」


「あと」


 ルシアンは少しだけ目を伏せた。


「今までありがとうって」


 ハインの顔が歪んだ。


「大変だったし、みんなとずっと一緒にいたかったし、後悔もたくさんあるけど」


 声が、ほんの少し震えた。それでも、最後まで言った。


「幸せだったって」


「うっ……うぅ……」


 ハインが泣いた。土に額を擦りつけながら、声を殺しきれずに泣いた。ルシアンは、もう一度だけ微笑んだ。


「ちゃんと伝えてね、ハインさん」


「……はい」


 ハインは嗚咽の合間に、必死で答えた。


「必ず、伝えます……」


「ありがとう」


「もういいか」


 外套の男が言った。ルシアンはハインから目を離した。


「ええ。行きましょう」


 男が、わずかに首を動かす。


「……おい」


「はっ」


 次の瞬間。短い刃が、馬の喉を裂いた。びひぃ、と。苦しげな断末魔が、川辺に響いた。荷馬車を引いてきた馬が、前脚を折るように崩れ落ちる。血が土に広がった。ルシアンが振り返る。


「なにを……!」


「馬の生死は、条件に入っていなかった」


 外套の男は、何も変わらない声で言った。ルシアンは唇を噛んだ。血が滲むほど、強く。


「……ぐっ」


「行くぞ」


 黒灰色の外套たちは、音もなく動き出した。ルシアンは最後に一度だけ、ハインを見た。ハインは顔を上げられなかった。上げたら、縋ってしまう。止めてしまう。そして、何もできない自分を、もっと思い知る。ルシアンの足音が遠ざかる。外套の気配が、森の奥へ溶けていく。川の音だけが残った。


         ◇


「……それで」


 ハインの声は、潰れていた。


「ルシアンさんは、森の奥へ……」


 誰も口を開かなかった。セレスは両手で口元を押さえていた。目に涙が溜まっているのに、瞬きすらできずにいる。ノルは俯いたまま、翠穿の銃身を握りしめていた。指が白くなるほど強く。エディンは、死んだ馬の方を一度だけ見た。


「馬を殺すとは、念には念を入れてるわねぇ」


 その声は、いつものように伸びていた。けれど、柔らかくはなかった。ハインが土の上で頭を下げる。


「すみません……私が……人質に取られたせいで……」


「お前のせいじゃない」


 レイスが言った。短い声だった。だが、そこに迷いはなかった。


「その状況で灰冠が相手なら、どうにもならない」


「でも……」


「ハイン」


 レイスの声が、少し低くなる。


「お前は生きて伝えた。ルシアンが残した言葉を、俺たちに届けた。それを無駄にするな」


 ハインは、何も言えなかった。ただ、土に落ちる涙だけが増えていく。アルドは、森を見ていた。ルシアンが消えたという、暗い木々の奥を。一歩、踏み出す。


「アルド」


 レイスが呼んだ。その声が届くより早く、金属の音が鳴った。ノルが翠穿を構えていた。三つの銃口が、アルドへ向いている。セレスが息を呑む。


「ノル……?」


 アルドが振り向いた。顔は、怒っていなかった。怒りよりもずっと危ういものが、そこにあった。


「どういうつもりだ、ノル」


「アルドこそ、どういうつもり」


 ノルの声は掠れていた。それでも、銃口は下がらない。


「追う」


「ルシアンは追うなと言った」


「知るか。追う」


「追わせない」


 セレスが一歩、ノルの横へ寄った。


「ノル、待って。今は――」


「待たない」


 ノルはアルドから目を逸らさなかった。


「ルシアンは、その身を呈して私たちを守ってくれた」


「だから追う」


「だから追わせない」


 アルドの手が、震えた。


「どけ」


「どかない」


「ノル」


「どかない」


 短い言葉が、刃のように返る。ノルの頬を、涙が伝った。それでも、翠穿は揺れなかった。


「それに……」


 そこで初めて、声が崩れた。


「もう……間に合わない」


 アルドの目が揺れた。その一言が、一番深く刺さった。間に合わない。ルカの時も。ゴードの時も。バルトの時も。いつも、届かなかった。今度こそと、思ったのに。また。


「……お前が」


 アルドは力なく呟いた。


「お前が、俺を撃てるのか」


 ノルは唇を噛んだ。翠穿の銃口が、ほんの少し震える。


「……撃てない」


 アルドの右手に、蒼い炎が灯った。小さな火ではない。怒りと痛みをそのまま燃やしたような、大きな蒼炎だった。


「おい、アルド!」


 レイスが叫ぶ。セレスが一歩下がる。ハインが顔を上げる。エディンの目が細くなる。


「あああああああああああああああ!」


 アルドは右腕を大きく払った。蒼炎が森へ放たれる。轟音。風が裂け、木々の間を蒼い炎が走った。森の奥が、一瞬だけ昼のように明るくなる。炎は湿った地面を舐め、倒木を焼き、枝葉を焦がした。けれど、人の気配はない。悲鳴もない。返事もない。ただ、蒼い光だけが燃え上がり、やがて風に散っていく。アルドは肩で息をしていた。拳を握りしめたまま、何度も、何度も息を吐く。ノルは銃を構えたまま泣いていた。


 撃てないと言ったくせに、下ろせない。下ろしたら、アルドが行ってしまう。アルドはゆっくりとノルへ近づいた。ノルは動かなかった。アルドは翠穿の銃身に手を添えた。力ずくではなかった。壊れものを扱うように、ゆっくりと下ろさせた。


「悪かった……」


 ノルは首を横に振った。


「ううん」


 それだけだった。セレスが泣きながら唇を噛んでいた。レイスは森から川へ視線を移す。エディンは、もう一度だけ馬の亡骸を見て、それから積荷へ向いた。ハインは震える手で、泥のついた顔を拭った。ルシアンが残したもの。ハイン。積荷。追うなという言葉。ありがとうという言葉。幸せだったという言葉。それら全部が、今この場に重すぎるほど残っていた。アルドは奥歯を噛みしめた。森を見る。川を見る。仲間を見る。


 それから、低く言った。


「急ぐぞ」


 誰も、すぐには返事をしなかった。けれど、全員が顔を上げた。アルドは、川下へ視線を向ける。


「川を下る」

お読みいただきありがとうございます。

今回から第五章です!まだまだ続きますのでお付き合いよろしくお願いします!

引き続き明日の20時頃更新予定です。

続きが気になる!と思ってくださった方は、ぜひ【★評価】や【ブックマーク】で応援をよろしくお願いします!

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