奪われたもの
峡谷の出口。広がり始めた空の下に、王都討祓軍第三部隊が並んでいる。先頭にはロザリア。その隣にはクライス。背後には、百人近い隊員たち。動かせる全人員に近いだろう。かつて同じ王都討祓軍に属していた者たちが、黒豹の行く先に立っていた。
「ようやく見つけたわよ」
ロザリアの声は、乾いた風の中でもよく通った。
「黒豹」
アルドは緋喰刃の柄に手を置いた。背後には荷馬車がある。ハインが手綱を握り、ルシアンがその横に立っている。馬は疲れていた。荷馬車も傷を負っている。積荷は、フィランツ村で仕入れた工芸品に変わっている。その全てを、ここで捕まえられるわけにはいかない。レイスが、低く息を吐いた。
「捕縛か」
「ええ」
ロザリアは薄く笑う。
「できれば大人しくしてほしいわね。こちらも、あなたたちを殺すつもりはないの」
「信用できるか」
アルドが言った。
「あら、失礼ね」
「追ってきた時点で十分だ」
ロザリアの笑みは崩れない。だが、その目だけが、少しだけ冷たく細くなった。
「こちらも仕事なのよ」
「こっちも逃げるのが仕事だ」
アルドは一歩、前へ出た。その横で、レイスが素早く周囲を見る。隊列。人数。地形。峡谷の出口は狭い。背後には荷馬車。前には第三部隊。まともに戦えば、荷馬車が巻き込まれる。逃げるなら、今しかない。レイスは視線だけでアルドに合図した。アルドはわずかに頷く。次の瞬間、レイスの声が飛んだ。
「ルシアン、ハインを連れて抜けろ!守れ!」
ルシアンの顔が一瞬だけ強張る。だが、迷いはしなかった。
「分かった!」
ハインも手綱を握り直す。ロザリアの背後で、第三部隊の隊員たちが動いた。
「通すな!」
クライスの声が響く。隊員たちが荷馬車の進路を塞ごうと広がる。
「通す!」
アルドが踏み込んだ。
「蒼炎壱式 乱火」
蒼い火球が、地面を走るように散った。隊員たちの足元を焼く。直撃はさせない。だが、進路を割るには十分だった。数人が跳び退く。その隙間へ、セレスが走った。
「水地弐式 滑床」
荷馬車の進む先の地面だけが滑るように整う。馬の脚が引っかからない。車輪が石を噛まない。ルシアンが手を伸ばした。
「旋風壱式 追風」
風が馬の脚に沿う。疲れ切った馬が、もう一度力を得たように前へ出た。
「行け!」
アルドが叫ぶ。ハインが手綱を鳴らした。荷馬車が動く。第三部隊の隊員が前へ出ようとした瞬間、ノルの翠穿が火を吹いた。三発。風をまとった弾丸が、隊員たちの足元と武器の先を正確に撃ち抜く。隊列が崩れた。その横を、荷馬車が抜ける。
「レイスさん!」
ハインが叫んだ。
「例の場所で!」
「分かった! 急げ!」
レイスが即座に返す。荷馬車は峡谷の出口脇を抜け、森へ向かって走っていった。ロザリアの目が細くなる。
「逃がしたわね」
「逃げてもらった」
アルドが緋喰刃を抜いた。
「ここから先は、俺たちが相手だ」
第三部隊が動いた。まず、クライスが前へ出る。その背後から二十人ほどの隊員が、アルドの正面に広がった。右側では、さらに多い隊員がレイスを囲むように散る。三十人。少なくとも、それに近い数。左では、セレスとノルの退路を塞ぐように隊列が伸びた。二十人ほど。そして、ロザリアはまっすぐエディンだけを見ていた。彼女の後ろに、十五人ほどの隊員がつく。
エディンは大剣を肩に預けた。いつもの笑みはない。
「ずいぶん手厚い歓迎ねぇ」
「あなたには、そのくらい必要でしょう?」
ロザリアが言った。
「元先輩」
エディンの目が、わずかに細くなる。だが、返事はしなかった。戦闘が始まった。アルドの前に、クライスが立つ。細い剣を抜き、片手で構える。背後の隊員たちは、左右に広がりながら距離を測っていた。捕縛用の縄、短槍、魔法媒体。殺すためではない。動きを止めるための配置だった。
「アルド隊長」
クライスが言った。
「抵抗しないでください」
「もう隊長じゃない」
「では、アルド」
「それも気に入らねぇな」
アルドは緋喰刃を構えた。刃に蒼炎が灯る。
「そこをどけ」
「できません」
「なら押し通る」
アルドが踏み込んだ。蒼炎が横へ走る。隊員たちが一斉に散った。クライスは正面から受けない。半歩ずれ、アルドの剣筋を読んで剣を添える。斬撃そのものを止めるのではなく、角度をずらす。蒼炎が地面を焼いた。アルドの足元へ、捕縛縄が二本飛ぶ。彼は跳んだ。
「旋風壱式 踏風」
足裏に風が弾ける。体が斜めへ滑り、縄を避ける。そこへ短槍が三本。アルドは緋喰刃で一本を弾き、左手に雷を走らせた。
「雷荷壱式 閃打」
雷が短槍を伝い、隊員の腕を痺れさせる。倒れはしない。だが、武器を落とした。
「隊列を詰めろ!」
クライスの声が飛ぶ。隊員たちが再び間合いを埋める。アルドは舌打ちした。強い。一人一人は黒豹ほどではない。だが、第三部隊は連携が上手い。前に出る者、引く者、魔法で足場を崩す者、縄を投げる者。役割がはっきりしている。それに、気配が薄い。しかも、殺しに来ていない。殺しに来ないからこそ、厄介だった。こちらも殺すわけにはいかない。
正面を突破するには、火力を絞る必要がある。
「面倒だな」
アルドは低く呟いた。それでも、蒼炎は消えない。右側では、レイスが三十人近い隊員に囲まれていた。地形は悪い。背後は峡谷の壁。前方と左右から隊員が詰めてくる。感知はできない。だから、目で拾うしかない。
「雷流弐式 絡縛」
雷を帯びた水が地面を走り、前列の足を絡め取る。数人が膝をつく。その隙に、レイスは右へ移動する。だが、そこには別の隊員が待っていた。捕縛網が広がる。
「旋風弐式 刃風」
風の刃が網の端を切る。完全には断てない。だが、形は崩れた。レイスはその下を抜ける。横から短剣が来る。レイスは体を捻り、腕を取って投げた。背後から魔力が走る。大地魔法。足元が盛り上がる。
「大地壱式 沈床」
レイスが先に地面へ魔力を流した。盛り上がろうとした地面が沈み、術式が崩れる。隊員の顔に驚きが浮かぶ。
「厄介だな」
レイスは淡々と言った。
「だが、読める」
しかし、読めても数が多い。三十人。全員を同時には止められない。右を止めれば左が来る。前を崩せば背後に回られる。レイスは呼吸を整えながら、少しずつ隊列を乱していく。焦れば捕まる。止まれば囲まれる。左側では、セレスとノルが背中合わせに近い位置で戦っていた。セレスが前へ出る。ノルが岩の上へ移動する。
「ノル、上は?」
「右の岩陰、二人。左後ろ、弓。正面、捕縛網」
「助かる」
セレスは流涙と地咬を抜く。前から来た隊員の剣を流涙で受け、地咬で地面を切るように魔力を流した。
「大流参式 泥鎖」
泥の鎖が前列の足を絡める。隊員たちが止まった瞬間、ノルの翠穿が鳴る。風を纏った三発の弾丸が、捕縛網の留め具だけを撃ち抜いた。網が落ちる。セレスの横へ、別の隊員が飛び込む。
「セレス、左!」
「分かってる!」
セレスは体を半回転させ、短剣で腕を叩く。斬らない。骨を折らない。だが、武器を落とさせる。ノルは感知を使っていた。まだ粗い。距離も短い。だが、見えない岩陰の動きが分かる。それだけで、射撃は変わった。
「旋風壱式 導弾!」
弾丸が岩の影を曲がる。隠れていた隊員の足元に着弾し、石を弾いた。隊員が飛び出す。そこへセレスの泥鎖。
「便利すぎる」
セレスが言った。
「私もそう思う」
ノルは短く答えた。だが、二人も押されていた。二十人を相手に、守る範囲は広い。セレスは魔力を使い続け、ノルは弾も消費していく。息が乱れ始めていた。そして、後方。エディンの前に、ロザリアがいた。ロザリアは武器を抜いていない。指先に魔力を薄くまとわせ、隊員たちへ合図を送っている。十五人ほどの第三部隊員が、エディンを囲んでいた。
「あらぁ」
エディンは大剣を構える。
「あなた、直接来ないの?」
「来るわよ」
ロザリアは微笑む。
「あなたが嫌がる形でね」
隊員たちが一斉に動いた。縄。拘束具。足止めの魔法。殺傷ではない。捕縛に特化した動き。エディンは大剣を振る。重い刃が空気を裂き、前列をまとめて下がらせた。その足元に、ロザリアの魔力が走る。地面が細く割れた。踏み込みの位置がずれる。
「相変わらず嫌らしいわねぇ」
「褒め言葉として受け取るわ」
ロザリアは笑う。エディンは体勢を崩しかけたまま、大剣の柄を地面に叩きつける。
「大地弐式 岩枷」
岩が足元から盛り上がり、迫っていた隊員の足を止める。次の瞬間、上から拘束網。エディンは風をまとわせて大剣を振り上げた。網が裂ける。だが、その向こうにロザリアがいた。細い針のような魔力が、エディンの肩を狙う。エディンは首を傾けて避ける。髪の一房が切れた。ロザリアの目が笑う。
「昔より鈍った?」
「あなたは昔から性格が悪いわねぇ」
「お互い様でしょう」
エディンの笑みは戻らない。ロザリアの声にも、笑みの奥に冷たいものがあった。戦いは続いた。黒豹は押し返す。第三部隊は崩されても、すぐに隊列を組み直す。捕まえに来る。逃がさないために、囲む。時間が削れていく。日が傾き始めた。峡谷の影が濃くなる。アルドはクライスの剣を弾きながら、背後の森を見た。ハインとルシアンは、もうかなり離れたはずだ。そうでなければ困る。
だが、第三部隊はまだ止まらない。
「クライス!」
アルドが叫ぶ。
「こんなことしてる場合か!」
「こちらの台詞です!」
クライスが返す。
「あなたたちが大人しく戻れば済む話です!」
「戻れるわけねぇだろ!」
蒼炎が弾ける。隊員たちが下がる。そこへ、遠くから低い唸りが聞こえた。最初に反応したのはノルだった。
「夜骸」
短い声。その場にいた全員の空気が変わった。峡谷の影。岩の奥。森の境目。黒い輪郭が、いくつも這い出してくる。雑級。低級。そして、中級。肋骨のような突起を背に持つ、長い胴の獣。もう一体は、前脚が異様に太く、顔が潰れた犬のような形をしていた。第三部隊の隊員たちが一斉に構えを変える。
「夜骸だ!」
「中級がいる!」
ロザリアの舌打ちが聞こえた。
「本当に、面倒な場所ね」
夜骸は、人間の都合を待たない。黒豹も第三部隊も関係ない。生きているものへ向かってくる。最初に雑級の群れが突っ込んだ。第三部隊の隊員が二人、捕縛縄を構えたまま反応が遅れる。アルドが踏み込んだ。
「蒼炎壱式 蒼火球」
蒼い火球が雑級を焼いた。隊員が目を見開く。
「礼はいらねぇ」
アルドはすぐにクライスへ向き直る。クライスも、別の雑級を斬り伏せた。
「こちらも言うつもりはありません」
「そうかよ」
二人は同時に動いた。夜骸を斬る。その直後、また互いの間合いへ戻る。共闘ではない。だが、夜骸を放置すれば全員が死ぬ。戦場は乱れた。レイスの周囲では、第三部隊の隊員たちが夜骸対応に散り、包囲が緩んだ。レイスはその隙を逃さない。
「雷流参式 鳴瀑」
雷を帯びた水流が地面を走り、低級の脚を打つ。動きが止まった夜骸を、第三部隊の隊員が斬った。その隊員がレイスを見る。レイスは視線を返さず、別の隊員の足元へ絡縛を走らせた。
「油断するな」
隊員が転ぶ。敵を助けた次の瞬間、敵を止める。戦場はそういうものになっていた。セレスとノルの側にも、中級が迫った。前脚の太い夜骸が、地面を抉りながら突進してくる。
「ノル、目!」
「分かってる」
ノルの翠穿が吠えた。三発。一発目は外れた。中級が頭を振ったからだ。二発目が頬を裂き、三発目が片目を潰す。中級が吠えた。その足元へ、セレスが短剣を突き立てる。
「大流参式 泥鎖」
泥の鎖が太い前脚へ絡む。だが、力が強い。鎖が引きちぎられる。
「硬い!」
「もう一回」
ノルが次弾を装填する。その横から、第三部隊の隊員が飛び込んだ。
「伏せろ!」
セレスに叫ぶ。隊員は夜骸へ斬りかかった。しかし、中級の尾が横から振られる。セレスは咄嗟に滑床を地面へ流した。隊員の足元が滑り、尾の直撃を避ける形で体が倒れる。結果として、助かった。隊員は地面に転がりながら、セレスを見た。
「礼は」
「いらない」
セレスは短く返す。
「後で捕まえようとするんでしょ」
「……任務なので」
「だよね」
ノルがぼそりと言った。後方では、エディンとロザリアの戦場にも夜骸が割り込んでいた。長い胴を持つ中級が、岩壁を這うように近づく。ロザリアが指を振った。
「先にあれを落とすわよ」
「命令?」
「提案」
「嫌な提案ねぇ」
エディンは大剣を構え直す。中級が跳んだ。エディンの大剣が受ける。重い衝撃。足元が沈む。ロザリアの魔力が中級の背へ走り、動きを一瞬だけずらした。そこへエディンが大地魔法を叩き込む。
「大地参式 岩杭」
岩杭が腹を持ち上げる。中級が暴れる。ロザリアの隊員たちが左右から拘束具を投げ、夜骸の脚を絡める。エディンが大剣を振る。首の根元を断った。中級が崩れた瞬間、ロザリアの針のような魔力がエディンへ向いた。エディンは大剣を盾にして受ける。火花のような魔力が散った。
「本当に油断ならないわねぇ」
「あなた相手に油断なんてするわけないでしょう」
夜は深くなっていった。盗賊はいない。だが、第三部隊と夜骸がいる。黒豹は逃げられない。第三部隊も引けない。夜骸は減っても、影から次が来る。疲労が積み重なる。蒼炎が何度も峡谷の出口を照らした。雷流が地面を走り、泥鎖が夜骸と隊員を絡め取り、翠穿の銃声が岩壁に響いた。ルシアンはいない。だから治癒はない。小さな傷も、疲労も、すべてその場で積み上がっていく。
アルドの肩に捕縛縄が絡んだ。クライスが踏み込む。アルドは左手に雷を走らせ、縄を焼き切る。その直後、低級夜骸が横から飛びかかる。アルドは緋喰刃を返し、蒼炎で首を斬った。だが、足が一瞬止まる。クライスの剣が、その隙を逃さない。アルドの腕を浅く裂いた。
「っ」
「終わらせましょう」
クライスが言う。
「こっちのセリフだ」
アルドは踏み込んだ。レイスは膝をつきかけていた。鳴瀑を使いすぎた。絡縛も何度も流した。魔力が削れている。それでも、隊員たちはまだ来る。夜骸も来る。
「しつこいな」
レイスは呟いた。目の前の隊員が捕縛具を投げる。レイスは避ける。そこへ別の隊員。さらに右から低級。レイスは右手で隊員を押し返し、左手を地面へ向けた。
「雷流弐式 絡縛」
細い。いつもより細い雷。だが、届いた。低級の脚が止まる。隊員の一人が反射的に夜骸を斬る。その隊員の背後を、別の雑級が狙った。レイスは舌打ちし、短く風を放つ。隊員の体が横へずれ、雑級の爪が空を切った。
「助かった」
隊員が思わず言う。
「捕まえに来ている相手に言う言葉か」
レイスは低く返した。隊員は何も言えなかった。セレスとノルも限界に近かった。セレスの短剣は泥と黒い粘液で汚れている。ノルは頭の中で弾の残りを数え、顔をしかめた。
「あと何発?」
「余裕は無い」
中級は倒した。だが、隊員はまだ残っている。夜骸の残骸を越えて、捕縛網が飛ぶ。ノルが撃つ。網の留め具を弾く。だが、もう一つが横から来た。セレスが流涙で切る。手首に負担が走る。
「っ……」
「セレス」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない声」
「撃って」
「分かった」
ノルは迷わず撃った。弾丸が隊員の足元を削り、前進を止める。二人は互いの隙を埋め続けた。エディンの戦場は、もっと重かった。ロザリアは膝をつかない。隊員たちが倒れても、夜骸が混じっても、彼女だけはエディンを見続けている。
「あなた、本当にしぶといわねぇ」
エディンの声には疲労が滲んでいた。
「あなただけには言われたくないわ」
ロザリアの呼吸も乱れている。それでも目が折れない。エディンが大剣を振る。ロザリアは距離を取る。隊員が二人、左右から入る。エディンは大剣の柄で一人の腹を打ち、もう一人の足元を岩枷で止める。その隙に、ロザリアの魔力が来る。肩。脚。視界の端。嫌な場所ばかりを狙う。
「昔から、そういうところは上手かったわねぇ」
「あなたに褒められると吐き気がするわ」
「あら、ひどい」
「本心よ」
ロザリアの声には、隠しきれない怒りがあった。夜更け。峡谷の出口には、倒れた隊員と夜骸の残骸が散らばっていた。第三部隊の八割近くが、すでに戦闘不能だった。意識を失った者。魔力切れで動けない者。夜骸に負傷させられ、立てない者。黒豹も無事ではない。アルドは肩で息をしていた。レイスは片膝をつきかけ、すぐに立ち直る。
セレスは腕を押さえ、ノルは弾切れに近い翠穿を構え直す。エディンの額にも汗が滲んでいた。だが、まだ終わっていない。クライスが、最後まで立っていた隊員数名とともにアルドの前に出る。ロザリアはエディンの前にいる。残った第三部隊員は少ない。それでも、まだ捕縛の意思は消えていなかった。
「いい加減にしろ」
アルドが低く言った。
「それは、こちらの台詞です」
クライスも息が上がっていた。アルドの蒼炎が、緋喰刃に細くまとわりつく。大きく燃やす余裕はない。だが、まだ燃える。
「蒼炎弐式 蒼炎蛇」
蒼い蛇が地面を這う。クライスは跳んだ。隊員たちは左右へ散る。その一瞬を、アルドは狙った。踏風。半歩ではない。一気に間合いを詰める。クライスの剣が上がる。アルドは緋喰刃の刃ではなく、柄頭を叩き込んだ。胸。息が詰まる場所。クライスの体が揺れる。それでも倒れない。だから、アルドは左手でクライスの肩を掴んだ。
「悪いな」
雷が走った。クライスの体が硬直する。アルドはそのまま、地面へ叩き伏せた。クライスの意識が落ちる。残った隊員たちが動こうとした瞬間、レイスの絡縛が足を止めた。セレスの泥鎖が膝を捕まえる。ノルの最後に近い弾が、捕縛具を弾き飛ばす。隊員たちは倒れた。立っている第三部隊は、もうロザリアだけだった。ロザリアは膝をついていた。息が上がっている。
額に汗が浮き、髪が頬に張りついている。それでも、エディンを睨んでいた。エディンも息を整えている。大剣の切っ先が、わずかに地面へ落ちていた。二人の間に、夜骸の残骸が転がっている。第三部隊員も倒れている。それでも、ロザリアの目だけは諦めていなかった。
「……まだ、やるの?」
エディンが聞いた。ロザリアは答えない。ただ、手に魔力を集めようとする。エディンは低く息を吐いた。
「いい加減、逆恨みで付け狙うのはやめてもらえるかしら。しつこいわ」
その言葉が落ちた瞬間、ロザリアの顔が変わった。疲労も、痛みも、全部を押しのけるほどの怒り。
「あなたがそれを――!」
言葉は最後まで続かなかった。エディンの足が、ロザリアの胸元を蹴った。強すぎない。だが、意識を刈り取るには十分な一撃。ロザリアの体が後ろへ倒れる。地面に落ちた時には、もう意識はなかった。風が、峡谷の出口を抜けていく。誰もすぐには動かなかった。アルドは緋喰刃を鞘に戻すのに、少し時間がかかった。
「急ぐぞ」
声は掠れていた。誰も反論しない。レイスが最後に周囲を見る。第三部隊は追えない。夜骸も、今は来ない。だが、長居はできない。五人は走り出した。走ると言っても、限界に近い体を無理やり動かしているだけだった。森の中へ入る。枝が頬を打つ。足元の土が柔らかくなる。月の光が木々の隙間を落ちる。しばらく走ったところで、アルドが息を切らしながらレイスを見た。
「レイス」
「なんだ」
「さっきの、ハインとのやり取り。例の場所って何だ」
レイスは走る速度を落とさない。
「ここから少し離れたところに、流れの速い川がある」
「川?」
「ああ。そこで積荷を、フィランツ村で買った組立式の浮船に積み替える手筈だった」
アルドの目がわずかに動く。
「あの時の、あれか」
「そうだ」
レイスは短く答える。
「赤鎖が荷を川に流した。腹は立つが、手としては有効だった」
ノルが息を切らしながら呟く。
「真似した」
「学習したと言え」
「同じだ」
「違う」
レイスは続ける。
「積荷を浮船に載せて川を下らせる。川下で用意していた荷車を組み立てて荷を積み替える。痕跡を消しながら近くの村まで運び、そこで別の荷馬車を用意して南へ向かう」
セレスが顔を上げる。
「そんな準備までしてたの?」
「ハインに頼んでいた」
レイスは前を見たまま言う。
「大級を倒した後、その事とハインの名前が第三部隊に伝われば、見つかる可能性は高かった。荷馬車のまま逃げ切るのは難しい。だから、荷を一度流す」
アルドは息を吐く。
「じゃあ、ハインは今頃ルシアンと川下に?」
「いや」
レイスは首を横に振った。
「まずは準備して、あとは下るだけの状態にしておくよう指示している。俺たちがしばらく待っても来ない場合は、暗号を残して先に行くように伝えてある」
「もう下ってるかもしれないのか」
「時間をかけ過ぎた、その可能性もある」
「なら急ぐぞ」
アルドの足に、もう一度力が入る。だが、体は限界に近い。それでも走った。走るしかなかった。森を抜ける。少し開けた場所に出る。そこは、小さな川へ下りる道の手前だった。水音が聞こえる。流れは速い。川面が月光を細く裂いている。そして、その手前に荷馬車があった。ハインの荷馬車だった。アルドは一瞬、息を吐きかけた。あった。間に合った。だが、次の瞬間、その息は止まった。
荷馬車は、綺麗なままだった。傷がない。壊されていない。積荷もそのまま積まれている。箱の位置も、縄の結びも、崩れていない。浮船へ積み替えようとした形跡はない。それどころか浮船が組み立て途中だった。周囲も荒れていない。争った跡もない。荷馬車だけを見れば、何事も起きていないようだった。
「……馬が死んでる?」
レイスの声が落ちた。荷馬車の前。馬が一頭、倒れていた。血が、地面に黒く広がっている。荷馬車には傷がない。積荷にも手がつけられていない。ハインも、そこにいた。地面にうずくまり、両手で顔を覆っている。大きな外傷は見えない。だが、肩が壊れたように震えていた。
「ハイン!」
アルドが駆け寄る。ハインは顔を上げた。目が真っ赤だった。
「アルドさん……」
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、アルドを見た瞬間、さらに崩れた。
「すみません……」
声が震えていた。
「すみません、すみません、すみません……!」
「ハイン、大丈夫だ」
アルドは膝をつく。
「追っては来ない。俺たちは逃げ切った」
「すみません、私が、私が……」
「どうした? 積荷を積み替えるんじゃなかったのか?」
「申し訳ありません、アルドさん、すみません、私のせいです、私が……!」
ハインは狂ったように謝り続けた。懇願するように、頭を下げる。地面へ額がつきそうになる。アルドが肩を掴む。
「ハイン、落ち着け」
「守れませんでした……私が、私が、すみません、どうか、どうか……」
「ハイン」
セレスが駆け寄る。
「怪我は?」
ハインは答えない。ただ謝る。ノルは荷馬車を見た。積荷。縄。箱。何も崩れていない。レイスも周囲を見る。足跡はある。だが、乱れていない。荒らされていない。殺された馬。無傷の荷馬車。無傷の積荷。泣き崩れているハイン。荒らされた形跡が、あまりにも少ない。アルドはそこで、ようやく気づいた。周囲を見回す。ルシアンがいない。荷馬車の横にも。川の近くにも。森の影にも。
感知を広げても付近に人の形はない。どこにもいない。アルドの手が、ハインの肩を強く掴んだ。
「ハイン」
声が低くなる。
「ルシアンはどこだ?」
ハインは息を詰まらせた。涙で濡れた顔を上げる。声にならない声が、喉で潰れる。それでも、言わなければならなかった。
「ルシアンさんは……!」
ハインの声が裂ける。
「連れていかれました……!!」
お読みいただきありがとうございます。
今回で第四章完結になります。まだまだ続きますのでこれからもよろしくお願いします!
最近見てくれる方が増えてきたので引き続き毎日更新続けます!
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