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道標

 朝。フィランツ村の宿には、久しぶりにまともな朝の匂いがあった。焼いたパン。温めた野菜の汁。香草を混ぜた卵。干し肉を薄く切って炙ったもの。アルドは椅子に座り、黙ってパンを噛んでいた。体はまだ重い。剣を振れないほどではないが、筋肉の奥に疲労が残っている。向かいでは、レイスが汁を飲みながら地図を見ている。


「食事中くらい地図を置いたら?」


 セレスが言った。


「時間がもったいない」


「体も休めないと、結局もたないよ」


「分かっている」


「分かってない返事」


 ノルがパンを小さくちぎりながら言った。レイスは地図から目を離さない。


「ノーラに言われたくない」


「私は食べてる」


「食べながら寝そうな顔をしている」


「半分寝てる」


「寝るな」


 ルシアンはそのやり取りを聞きながら、少しだけ笑った。ハインは食事を終えてからも、何度も宿の窓の外を見ている。厩の方角だった。


「馬なら、宿の方が見てくれてるよ」


 ルシアンが声をかける。


「はい。分かってはいるんですが」


「心配?」


「心配です」


 ハインは正直に頷いた。


「昨日まで、あの馬たちにも無理をさせましたので」


「後で私も見に行くよ」


「ありがとうございます」


 そこへ、エディンがゆっくりと椅子から立ち上がった。


「さて」


 その声に、全員の視線が向く。


「朝ご飯も食べたし、全員、上に来なさい」


 アルドが眉を寄せた。


「上?」


「女の子部屋よぉ」


「全員?」


「全員」


 レイスが地図を畳む。


「何をするつもりだ」


「上に来れば分かるわぁ」


 エディンはにこにこ笑っていた。だが、反論を許す顔ではなかった。ノルがパンを見下ろす。


「まだ少し残ってる」


「持ってきていいわよぉ」


「いいの?」


「食べながらでなければねぇ」


 ノルは少し考え、残ったパンを口に入れた。セレスが呆れた顔をする。


「結局食べるんだ」


「残すのはよくない」


「そういう時だけ正しいこと言うね」


 アルドは少しだけ警戒した目でエディンを見る。


「また寝ろって言う気じゃないだろうな」


「あら、必要なら言うわよぉ」


「今は起きてる」


「なら、素直に来なさい」


 アルドは少しだけ不満そうな表情で肉を口に運んだ。エディンはその表情を見て、楽しそうに笑っていた。一行は朝食を終えると、女性陣が使っていた部屋へ移動した。部屋は広くない。寝台が三つ、壁際に荷物、中央に小さな卓。七人が入ると、途端に狭くなる。ハインは扉の近くで遠慮がちに立った。


「私は、入口の近くで」


「ハインちゃん」


 エディンが振り向く。


「あなたも中に入りなさい」


「?……わかりました」


 ハインは素直に部屋へ入った。扉が閉まる。そこでようやく、エディンは寝台の一つに腰を下ろした。なぜか、やけに偉そうだった。背筋を伸ばし、片脚をゆるく組み、指を一本立てる。


「では、授業を始めます」


 アルドが顔をしかめた。


「授業?」


「そう。感知の授業よぉ」


 ノルが床に座りながら首を傾げる。


「床?」


「みんなは床」


「エディだけ寝台」


「先生だから」


「ずるい」


 セレスは小さく笑いながら床に座った。ルシアンもその隣に腰を下ろす。レイスは少し不満そうだったが、何も言わずに床へ座った。ハインも慌てて正座に近い姿勢になる。アルドだけは壁にもたれようとしたが、エディンが指先を向けた。


「アルちゃんも、とりあえず聞きなさい」


「俺はできるぞ」


「知ってるわぁ。でも聞いてなさい」


「はいはい」


 アルドは寝台の端に座った。エディンは満足そうに頷き、立てた指をゆっくり揺らす。


「本当はね、感知はアルちゃんみたいに自分で一から体得するのが一番いいの」


 声は軽い。だが、全員の耳を自然に集める声だった。


「自分の魔力を静かにして、空気中にある微細な魔力を拾う。その魔力が通っていない場所の輪郭を、自分の感覚として掴む。これができれば一番綺麗よぉ」


 レイスは黙って聞いている。セレスも真剣だった。


「でも、感知で一番難しいのは一番最初のステップ、空気中にある微細な魔力を知覚するところ。これは理屈じゃないの。感覚の問題」


 エディンはレイスとセレスを順に見た。


「レイちゃんとセラちゃんが苦戦しているように、ここで躓く人は多いわぁ。できる人はすっとできる。できない人は、ずっとできない」


 レイスの眉間に皺が寄った。


「耳が痛いな」


「事実だもの」


 セレスは膝の上で手を握る。


「感じようとしても、自分の魔力しか分からないんだよね」


「そう。それが普通」


 エディンは頷く。


「だから、そこを分かりやすくする方法があるの」


「分かりやすく?」


 ルシアンが聞いた。


「そう。おねぇさんが編み出した、体得を手助けする方法よぉ」


 ノルが瞬きをする。


「ずる?」


「少しだけねぇ」


「いいね」


「いいでしょう?」


 エディンは得意げに笑った。


「前に話したわよね。空気中の魔力と、自分の魔力を本当に繋げることができるって」


 アルドが寝台の端で腕を組む。


「ああ。俺にも言ったやつか」


「そう。それを使うの」


 エディンは指を立てたまま、説明を続ける。


「まず、おねぇさんの魔力を相手に流す。人間の魔力は分かりやすいから、それを感じてもらう」


「分かりやすいんですか?」


 ハインが聞いた。


「分かりやすく流すのよぉ」


「なるほど」


「そのあと、おねぇさんが空気中の魔力と、おねぇさん自身の魔力を繋げる」


 エディンは、指先で空中に細い線を引くような仕草をした。


「そうすると、おねぇさんの魔力が道標になる。その道標を辿れば、空気中の微細な魔力を感じ取りやすくなるわぁ」


 レイスが目を細める。


「つまり、直接空気中の魔力を探すのではなく、まずエディの魔力を目印にするのか」


「そう」


「そして、その先にあるものを覚える」


「ええ。最初は強く流す。少しずつ薄くしていって、最後には流すのをやめる」


 エディンの指が、少しずつ下がる。


「その後、また徐々に強く流して、また薄くする。それを何度か繰り返すの」


「手がかりを出して、消す」


 セレスが呟いた。


「そう。手がかりがある状態とない状態を何度も行き来すると、感覚が残る人がいるのよぉ」


 ルシアンが指輪をはめた手を見る。


「それで、最後に自分だけでやってみるんだね」


「正解」


 エディンはにこりと笑った。


「それで全く何も感じなかったら、センスなし。諦めた方がいいわぁ」


 セレスの顔が引きつる。


「言い方」


「大事なことよぉ。感知は根性や理屈だけでどうにかなるものじゃないから」


 レイスは静かに息を吐いた。


「少しでも感じた場合は」


「可能性あり。鍛錬を続けた方がいい」


 部屋の空気が、少しだけ引き締まった。レイスとセレスは明らかに緊張している。ルシアンは静かに集中していた。ノルは相変わらず表情が薄いが、目だけはいつもより鋭い。ハインは、なぜ自分がこの場にいるのかまだ少し分からない顔をしている。


「じゃあ、実際にやるわよぉ」


 エディンが寝台から立ち上がった。


「アルちゃん以外、輪になって手を繋いで」


 レイスが立ち上がる。セレスも続く。ルシアンとノルも床から腰を上げた。ハインだけが、その場で一度アルドを見た。アルドは暇そうに、さっきまでエディンが座っていた寝台とは別の寝台へ身を投げていた。


「ハインちゃん」


 エディンの声が飛ぶ。


「はい」


「何してるの。あなたもやるのよぉ」


「私も、ですか?」


「もちろん。感知は戦闘能力とは関係ないもの」


 ハインは目を瞬かせる。


「ですが、私は魔法も戦闘も」


「関係ないわ、もし出来るようになれば便利よぉ?早く逃げられる」


「それはすごく役立ちそうです」


 ハインはすぐに頷き、輪の中へ入った。並びは、エディン、レイス、ノル、ハイン、ルシアン、セレス、そしてまたエディンへ戻る形になった。手を繋ぐ。ハインは両隣のノルとルシアンに少し頭を下げた。


「よろしくお願いします」


「手、硬い」


 ノルが言った。


「すみません」


「悪くない」


「ありがとうございます?」


 ルシアンがくすりと笑う。


「力を抜いて、ハインさん」


「はい」


 アルドは寝台の上で、完全に見学の姿勢だった。


「始めるわよぉ」


 エディンが目を閉じた。部屋の中の空気が変わる。最初にそれを感じたのは、アルドだった。寝台に寝転がったままでも分かる。エディンの魔力が、静かに広がっていく。水のように滑らかで。風のように軽く。土のように深く。火のような熱はない。だが、そこにあるだけで周囲の輪郭が変わる。繋がれた手を通して、その魔力がゆっくり流れた。レイスの指がわずかに動く。ノルが瞬きをする。


 ハインは小さく息を呑んだ。ルシアンは目を閉じ、セレスは唇を結んだ。


「これが、おねぇさんの魔力」


 エディンの声は低く、穏やかだった。


「まずは、これだけを感じて」


 温かいわけではない。冷たいわけでもない。ただ、手の内側に細い流れがある。それが腕を伝い、胸の奥へ触れ、また外へ戻っていく。ハインの呼吸が少し浅くなった。


「怖がらなくていいわぁ。押し込んでるわけじゃない。ただ触れてるだけ」


「……はい」


 ハインは小さく答えた。ノルはすでに目を細めている。何かを追っている顔だった。レイスは集中しているが、眉間の皺が深い。セレスも同じだった。ルシアンは比較的落ち着いている。エディンは魔力の流れを少し強くした。輪の中を、一周。二周。三周。全員がその流れを認識したところで、エディンが静かに息を吐いた。


「次」


 空気が、薄く震えた。部屋の中に元々あった何か。窓際。床板の隙間。寝台の布。壁の向こう。そこに散っていた微細なものが、エディンの魔力へ細く結ばれていく。目に見えるものではない。音もない。だが、繋がった瞬間、輪の中にいた全員の表情が変わった。ルシアンが小さく息を吸う。ノルは目を開けた。ハインは一瞬、足元を見た。


「今、繋げたわぁ」


 エディンが言う。


「おねぇさんの魔力を辿って。その先に、空気中の魔力がある」


 レイスの喉が動いた。初めて感じた感覚だった。湯気に触れている感覚に近かった。だが、空気中の魔力そのものを感じているわけではない。感じているのは、あくまで空気に広がっているエディンの魔力だった。


「薄くするわよぉ」


 エディンの魔力が少し弱まる。道標が細くなる。ハインが眉を寄せた。ルシアンは目を閉じたまま、呼吸を整える。ノルは、繋いだ手にほんの少し力を入れた。さらに薄くなる。今度は、手の中の流れが消えかける。道標が見えなくなる。それでも、空気の中に残る微細な流れの切れ目を追う。


「止めるわぁ」


 エディンの魔力が消えた。輪の中から、道標が消える。沈黙。ハインは何も分からなくなったように目を開けた。セレスは唇を噛んだ。レイスは逆に、さらに目を閉じる。ノルだけが、少しだけ首を傾けた。


「……まだ、ある」


 小さな声だった。エディンの口元が少しだけ上がる。


「そう。それ」


 ノルは何も言わない。ただ、目を閉じたまま、空気の中の微かな流れを追っている。エディンは再び魔力を流した。今度は弱く。そこから、少し強く。また薄く。止める。さらにもう一度。強く。薄く。止める。何度も繰り返す。厩の馬が鼻を鳴らす気配。窓の外を小鳥が横切る瞬間。そうしたものが、魔力の揺れと重なっていく。ノルは早かった。手がかりが薄くなるたび、逆に目が鋭くなる。


 ルシアンは途中から、ゆっくりと何かを掴み始めた。ハインは何度も見失った。だが、そのたびにエディンの魔力が戻ると、はっとした顔をした。レイスは静かだった。セレスも静かだった。静かすぎるほどだった。必死に、掴もうとしている。だが、できない。アルドは寝台に寝転がったまま、その様子を見ていた。笑わなかった。茶化しもしなかった。


 自分が偶然のように掴めたものを、レイスたちがどれだけ本気で掴もうとしているか分かったからだった。最後に、エディンが全ての魔力を引いた。


「はい。ここまで」


 繋いでいた手が離れる。部屋の空気が、一気に普通へ戻ったように感じた。ハインは肩で息をしていた。


「……思ったより、疲れますね」


「体が慣れてないのよぉ」


 エディンが言う。


「じゃあ、自力でやってみましょうか」


 全員がそれぞれ少し距離を取った。アルドは寝台の上で起き上がる。


「判定役は?」


「おねぇさんとアルちゃん」


「俺もか」


「できるんだから当然よぉ」


 アルドは頭を掻いたが、拒まなかった。最初に試したのはノルだった。彼女は部屋の中央で目を閉じる。呼吸を一つ。二つ。その直後、眉が少し動いた。


「下に三人」


 全員が黙る。


「廊下に一人。動いてる。外、馬二頭。片方、首振ってる。窓の外、鳥。小さいのが二羽」


 アルドが驚いた表情でエディンを見る。エディンは笑っていた。


「大正解」


 ノルは目を開ける。


「分かる」


「いきなり完璧かよ」


 アルドが呟いた。レイスの顔が、少しだけ固まる。セレスも同じだった。


「ノーラ、すごいね」


 ルシアンが言う。


「便利」


 ノルは短く返した。


「射撃に使える?」


「かなぁり使えるわぁ、例えば、導弾と組み合わせれば敵の姿が遮蔽物で一切見えていなくても遮蔽物を避けて的確に当てられる」


「あまりに反則すぎない?」


 ルシアンが笑いながら戸惑った表情でノルを見る。エディンが頷く。


「ただし、感知に意識を割きすぎると撃つ方が乱れるから、そこは練習ねぇ」


「やる」


 次はルシアンだった。彼女は指輪をはめた手を胸元に置き、目を閉じた。しばらく何も言わない。やがて、ゆっくり口を開いた。


「近くなら、分かるかも」


「どこまで?」


 エディンが聞く。


「この部屋の中と、廊下の入口くらい。外は……ぼんやり」


「十分よぉ」


 ルシアンはほっと息を吐く。


「よかった」


「普通に使える入口には立ってるわぁ。治癒役にも便利よぉ。視界が塞がれていても、倒れた人の位置を先に拾えるもの」


「うん。頑張る」


 次はハインだった。


「私ですか」


「ハインちゃんの番よぉ」


「はい」


 ハインは真剣に目を閉じた。戦場に出る顔ではない。商談前に、相手の言葉を待つ顔だった。長い沈黙。全員が見守る。ハインの眉が少し寄る。


「……何か」


 声が小さかった。


「何か?」


 アルドが聞く。


「窓の外が、少しざわっとします」


 エディンの目が細くなる。


「続けて」


「それから……下です。宿の方が、動いているような。違うかもしれません。すみません、はっきりとは」


 アルドは目を閉じ、同じ範囲を軽く拾った。窓の外には風に揺れる葉。下には宿の主人が棚の前で動いている。当たっている。


「だいたい合ってる」


 アルドが言った。部屋が止まった。ハインは目を開ける。


「合っているんですか?」


「ああ」


「私が?」


「ああ」


 ハインは本当に驚いた顔をした。レイスもセレスも、同じくらい驚いていた。


「ハインちゃん、やるじゃない」


 エディンが笑う。


「戦闘能力は関係ないって言ったでしょう?」


「ですが、私は……」


「人の動きや空気をよく見てるものねぇ。入口だけ掴むには、向いていたのかもしれないわぁ」


 ハインは言葉に困ったように俯く。


「……なんとなく、ですが」


「なんとなくで十分」


 アルドが言った。


「空いた時間で鍛錬を続ければ、逃げる判断を人より早く出来るくらいにはなるだろうな」


 ハインは少しだけ嬉しそうに頷いた。


「私には十分過ぎるほどのスキルです」


 次はセレスだった。彼女は深く息を吸い、目を閉じる。肩から力を抜く。指先の感覚を殺す。自分の魔力を静かにする。空気へ触れようとする。沈黙。さらに沈黙。セレスの眉が少しずつ険しくなる。やがて、彼女は目を開けた。


「……分からない」


 声は低かった。エディンは何も笑わない。


「何も?」


「何も。自分の魔力と、さっき残っていた感覚の名残みたいなのはある。でも、空気中の魔力は掴めない」


「そう」


 セレスは唇を結ぶ。


「悔しい」


「でしょうねぇ」


「すごく悔しい」


「たまたま感知の才能が無かっただけよぉ、セラちゃんは他にたくさん出来ることがあるわぁ、他の才能を伸ばすのに時間を使いなさい」


 最後はレイスだった。全員の視線が集まる。レイスは何も言わず、目を閉じた。集中する。普段の戦闘で見せる冷静さとは少し違う。もっと深く、もっと細く、自分の中へ沈んでいくような集中だった。長い時間が過ぎる。ノルが何か言おうとしたが、セレスに止められた。レイスは目を閉じ続ける。だが。何も言わなかった。やがて、目を開ける。


「……分からない」


 短い言葉だった。部屋の空気が少し重くなる。レイスは表情を変えない。変えないようにしているだけだと、全員が分かった。


「エディンの魔力は分かった。繋がった瞬間も、理屈としては分かった。だが、その先が掴めない」


「うん」


 エディンは頷く。


「今は、そこまでねぇ」


 レイスは黙った。ノルがぽつりと言う。


「悔しそう」


「悔しい」


 即答だった。セレスが少し笑った。


「私も」


「笑うな」


「笑ってない。悔しすぎて笑いそうなだけ」


「それは笑っている」


「うるさい」


 ルシアンが慌てて二人を見る。


「二人とも、少しでも可能性はないの?」


 エディンは首を傾げる。


「完全にゼロとは言わないわぁ。でも、この方法を使っても入口を掴めなかった。無理に続けると、逆に変な癖がつくかもしれないし、時間が勿体無いわねぇ」


 レイスの眉がぴくりと動く。


「諦めろと?」


「少なくとも、固執するのはやめたほうがいいわぁ」


 エディンは少し申し訳なさそうに笑った。


「諦めが悪いのは良いことよ。でも、感知は根性だけじゃどうにもならない。悔しさを持って帰って、たまに試すくらいでいいのよぉ」


 セレスは深く息を吐いた。


「ノルができたの、本当に悔しい」


「私も嬉しい」


 ノルが言った。


「そこは素直なんだね」


「うん」


 ハインはまだ自分の手を見ていた。そこに何かが残っているわけではない。けれど、ほんの少しだけ、世界の見え方が変わった気がしていた。アルドは寝台から起き上がる。


「終わりか?」


「終わりよぉ」


「じゃあ出るぞ。峡谷が待ってる」


 その言葉で、部屋の空気が切り替わった。感知の授業は終わった。これから戻る道こそ、昨日の地獄だった。荷馬車は、昼前にフィランツ村を出た。ハインは工房組合の代表に深く礼をし、荷の封を確認し、馬の様子を見た。新しく積まれた工芸品の箱は、共和国産の織物とは違う重みを持っていた。


 木箱の中には、細工箱、装飾具、器、染め布、彫刻板などが収められている。どれも南で売るための商品だった。価値を運ぶ。ハインがそう言った意味を、アルドは少しだけ理解した気がした。


「行きましょう」


 ハインが手綱を握る。荷馬車が動き出す。フィランツ村の天祈像《てんきぞう》が、背後で静かに筆を構えていた。村を出てしばらくは、静かな道だった。山道は緩やかに下り、やがて森へ入る。前回より馬車の音は安定していた。車輪が修理されたおかげで、軋みはずいぶん少ない。アルドは先頭で、腕を組みながら歩く。エディンは後方で、枝毛を気にしている。


 レイスは右で、留帳を確認している。セレスは左で、突然肩に止まった小鳥に驚きながら振動を抑えて歩いている。ルシアンはハインの横で、馬の様子を眺めている。ノルは荷台の上で、空を見ながらあぐらをかいている。だが、誰も気を抜いていない。配置は行きと同じだったが、全員が何を警戒すべきか知っている。上。横。車輪。馬。岩。そして、入れ替わる盗賊団。


 森を抜け、乾いた岩場へ近づくと、空気が変わった。湿った葉の匂いが薄れ、石と砂の匂いが強くなる。峡谷の入口が見えた。左右の岩壁が、口を開けている。ハインの手綱を握る手に、少しだけ力が入った。


「戻ってきましたね」


「ああ」


 アルドは前を見た。


「心底嫌な場所だ」


「同感」


 ノルが荷台の上から言った。レイスは峡谷の入口を見ながら、短く指示を出す。


「止まらないことを優先する。落石はノーラ。馬はルシア。車輪はセラ。右の壁は俺が見る。後ろはエディ」


「正面は俺だ」


 アルドが言う。


「分かっている」


「ハイン」


「はい」


「前回と同じだ。見えたものはすぐ言え」


「分かりました」


 ハインは頷いた。


「今度は、前より早く言います」


「助かる」


 荷馬車は峡谷へ入った。乾いた岩壁が、すぐに空を狭める。車輪の音が反響する。馬の息も、いつもより大きく聞こえた。しばらくは何も来なかった。それが逆に嫌だった。アルドは足を止めず、周囲へ意識を広げる。空気中の微細な魔力を拾い、その通っていない場所の輪郭を探す。前方。岩の影。上。右の張り出し。


「上、左」


 ノルの声が先に飛んだ。次の瞬間、岩が落ちてきた。前より早い。ノルはすでに翠穿《すいせん》を構えていた。風をまとった弾丸が、落ちる岩をそれぞれ別角度から三発、斜めに撃ち抜く。岩は荷馬車の真上ではなく、少し手前で砕けた。破片が散る前に、ルシアンが手を上げる。


「水流弐式 水壁《すいへき》」


 水の壁が荷馬車の側面を覆い、破片を弾いた。


「ちっ、もう気づきやがった!」


 岩壁の上から声がした。


「前と同じだと思うなよ」


 アルドは低く言い、正面へ走った。道の先に、盗賊が五人。前回より少ない。だが、狭い道では十分邪魔になる。


「蒼炎壱式 乱火《らんか》」


 蒼い火が弾けた。不規則に散った火球が、盗賊たちの足元を焼く。男たちが慌てて下がる。その隙に、アルドは距離を詰めた。緋喰刃《ひくいじん》が一人目の剣を弾く。二人目の槍を踏み込みで外し、柄で胸を打つ。三人目が斧を振り上げるより早く、蒼炎蛇が足へ絡んだ。


「うわっ!」


「邪魔だ」


 アルドは剣の背で男を横へ払った。右側の岩壁では、壁を蹴って降りてくる影が二つ。レイスが視線だけで捉える。


「雷流弐式 絡縛《らくばく》」


 雷を帯びた水が岩肌を走る。降りてきた盗賊の足首へ絡み、二人まとめて壁に叩きつけた。


「前より早いね」


 セレスが左で言った。


「流石に学習した」


 レイスは淡々と返す。


「良いこと」


 セレスは地面へ短剣を向ける。


「水地弐式 滑床《かっしょう》」


 左側から走ってきた盗賊の足元が濡れた泥のように滑った。男が転ぶ。その後ろからもう一人が飛び込むが、セレスは流涙《るるい》で受け流し、地咬《ちがみ》で地面を突く。


「大流参式 泥鎖《でいさ》」


 泥の鎖が男の膝を捕まえた。後方では、エディンが大剣を一度だけ振っていた。それだけで、後ろから来た三人が止まる。


「あらぁ、来るなら順番にねぇ」


「ふざけるな!」


 男が突っ込む。エディンは笑ったまま、大剣の腹で受けた。重い音。男の腕が跳ねる。


「ふざけてないわよぉ」


 返す刃が、男の武器を叩き落とした。最初の襲撃は、すぐに終わった。盗賊たちは倒れた仲間を引きずる余裕もなく、岩の隙間へ逃げていく。


「引け! こいつら、昨日より面倒だ!」


「だから言っただろ、正面から行くなって!」


 声が遠ざかる。ノルは荷台の上で、まだ翠穿を構えていた。


「右上、次」


 短い声。今度は落石ではなかった。縄付きの鉤が、荷台を狙って飛んでくる。レイスが振り向くより早く、ノルの一発が鉤の金具を撃ち抜いた。鉤が空中で弾ける。続けて、ハインが叫ぶ。


「左下、車輪です!」


 セレスが動く。岩陰に身を伏せていた盗賊が、大地魔法を使おうとしていた。手が地面へ触れる。その瞬間、セレスが短剣を地面へ突き立てた。


「大流参式 泥鎖《でいさ》!」


 湿った土が盗賊の手首に絡む。形が崩れた。盗賊が顔を上げる。そこへアルドの蒼炎が横から走った。


「車輪狙いは飽きた」


 盗賊は悲鳴を上げて転がる。荷馬車は止まらない。止まらせない。それが前回との違いだった。何度か襲撃があった。落石。弓。壁走り。車輪狙い。馬狙い。だが、黒豹の反応は前より早い。ノルの感知が、上方の奇襲を何度も先に拾った。エディンが言ったような離れ技はまだ出来ないが、今はこれでいい。


「上、二人」


「落石じゃない。弓」


「右の裂け目、何かいる」


 短い言葉で十分だった。レイスが処理する。セレスが足場を崩す。ルシアンが馬を守る。アルドが正面を焼き払い、エディンが後ろを潰す。ハインも叫び続けた。


「レイさん、右奥!」


「ルシアさん、馬が怯えています!」


「セラさん、車輪の下に石!」


 戦えない。だが、見ている。見えているものを言葉にする。その声は、昨日より早かった。峡谷の中ほどに差しかかる頃、道が少し広くなった。前回、荷馬車を反転できそうだとハインが言っていた場所の一つだった。そこに、低級夜骸《ていきゅうやがい》がいた。日が落ちきっているわけではない。だが、岩壁の影が深い。影の中に潜んでいたのか、三体の低級が黒い輪郭を持ち上げる。


「まだ夜になってないぞ」


 アルドが顔をしかめる。


「峡谷の影が濃いからかもしれない」


 ルシアンが言った。


「森と同じだ」


 レイスが手を伸ばす。


「雷流弐式 絡縛《らくばく》」


 雷を帯びた水が地面を走る。一体の脚が止まる。ノルの銃声。頭部を撃ち抜く。左から来た低級へ、セレスが泥鎖を飛ばす。右から回り込もうとした一体へ、アルドが踏み込んだ。蒼炎が刃に走る。一撃。首が落ちる。後方から、別の低級が荷馬車へ跳ぼうとした。エディンの大剣がそれを横から叩き落とす。


「やんちゃな子ねぇ」


 大剣が返り、黒い体を断った。夜骸はすぐに片づいた。だが、その直後に、上から声が降ってきた。


「今だ、夜骸の後だ!」


「弱ってるぞ!」


「落とせ!」


 盗賊たちが再び来る。アルドは息を吐いた。


「本当にしつこいな」


「商売熱心ですね」


 ハインが言った。アルドが振り向く。


「今のは冗談か?」


「すみません。余裕がないので、言葉を選べませんでした」


「いや」


 アルドは少しだけ笑った。


「少しおもしろかった」


 盗賊が降りてくる。だが、今度も長くは続かなかった。ノルが上を抑え、レイスが右を崩し、セレスが車輪周りを守る。ルシアンの追風が馬の脚に沿い、荷馬車の速度を落とさせない。


「旋風壱式 追風《おいかぜ》」


 馬が一歩、強く前へ出る。荷馬車が広場を抜けた。盗賊たちの声が後ろへ流れていく。


「待て!」


「追え!」


「狭い道に入られるぞ!」


「じゃあ先回りしろ!」


 レイスが前を見る。


「先回りされるぞ」


「分かってる」


 アルドは緋喰刃を握り直す。


「来るなら前から来い」


 実際、次は前から来た。狭い道の先に、木材と岩を組んだ即席の障害物が置かれている。その後ろに盗賊が数人。


「止まれ!」


「荷を置いていけ!」


 アルドは足を止めなかった。


「蒼炎参式 蒼炎砲《そうえんほう》」


 砲弾のような蒼い大きな炎の塊が障害物に放たれる。爆発とともに木材と岩を粉々にする。


「ノル!」


「見えてる」


 三発の銃声。障害物の上に乗っていた小岩が砕け、道の脇へ落ちた。


「セレス!」


「任せて!」


 セレスが左側へ走り、地咬を地面へ入れる。


「水地弐式 滑床《かっしょう》!」


 車輪の通る場所だけ、土が滑るように整う。荷馬車は速度を落とさず、障害物のあった場所を抜けた。盗賊たちが慌てて退く。アルドはその間を通り抜けざま、剣の背で一人を弾き飛ばした。


「どけ」


 盗賊は岩壁にぶつかって倒れる。進む。進む。止まらない。昨日のような泥沼にはしない。全員が同じことを考えていた。やがて、峡谷の出口に近づいた。空が少しずつ広くなる。岩壁の高さが下がり、遠くに森の緑が見え始める。ハインの手綱を握る手に、力が入った。


「もう少しです」


「油断するな」


 レイスが言う。


「出口前が一番狙われる」


「言わないでください」


 ハインが苦笑する。


「分かっていても、聞きたくありません」


「右上」


 ノルの声が飛ぶ。落石。大きい。昨日ほどではないが、荷馬車を止めるには十分だった。ノルが撃つ。一発。岩が割れる。破片が散る。ルシアンの水壁が馬と荷台を守る。同時に、左側から低級夜骸が一体飛び出した。セレスが対応するより早く、ハインが叫ぶ。


「左前!」


 アルドが振り向く。距離が近い。緋喰刃を振るには半歩足りない。その瞬間、ルシアンが手を伸ばした。


「旋風弐式 風槍《ふうそう》」


 風の槍が低級の肩を貫く。動きが逸れた。そこへセレスの泥鎖が絡み、ノルの弾が頭を撃ち抜いた。


「助かった」


 アルドが言う。


「ハインさんが早かった」


 ルシアンが返した。ハインは前を見たまま、短く頷く。


「見えていました」


 出口が近い。あと少し。あと少しで、峡谷を抜ける。誰も言わなかった。言えば崩れる気がした。荷馬車が最後の細い道を抜ける。岩壁の影が薄くなる。空が広がる。風の匂いが変わる。そして。出口の先に、人影があった。アルドが足を止めた。レイスが右手を下げる。ノルが荷台の上で翠穿を構えたまま固まる。セレスの手が、流涙の柄に触れる。ルシアンの顔から血の気が引く。


 エディンが後方から、ゆっくり前を見る。盗賊ではない。赤鎖でもない。夜骸でもない。整った隊列。灰色を帯びた討祓軍の装備。そして、その先頭に立つ女。ロザリアが、薄く笑っていた。隣にはクライス。その背後には、第三部隊の隊員たち。王都討祓軍《おうととうばつぐん》第三部隊。峡谷の出口を塞ぐように、彼らは立っていた。


「ようやく会えたわね」


 ロザリアの声は、乾いた風の中でもよく通った。


「黒豹」


 誰も答えなかった。荷馬車は傷だらけだった。馬は疲れている。全員、完全ではない。全員、呼吸は重く、魔力にも体力にも余裕はなかった。それでも、ここまで抜けてきた。盗賊を越えた。夜骸を越えた。峡谷を越えた。その出口で。今度は、かつての味方が立っていた。ロザリアは一歩、前へ出る。


「ご苦労様、悪いけどここで止まってもらうわ」


 アルドは緋喰刃の柄に手を置いた。レイスが低く息を吐く。ノルが小さく呟いた。


「最悪」


 セレスは唇を結ぶ。ルシアンはハインの横に立ち、馬の手綱へ視線を向けた。エディンは、いつものように笑っていなかった。ロザリアの目が、六人を順に見た。そして、ハインへも向く。


「荷馬車の護衛にしては、随分豪華ね」


 ハインは手綱を握ったまま、背筋を伸ばした。答えない。答えられないのではない。ここで何を言っても、もう誤魔化しにはならない。ロザリアは笑みを深めた。


「ようやく見つけたわよ」


 その言葉が、峡谷の出口に落ちる。アルドは一歩、前へ出た。背後には、守るべき荷馬車。横には、疲れ切った仲間たち。前には、第三部隊。ようやく抜けたはずの道は、そこで塞がれていた。

お読みいただきありがとうございます。

引き続き毎日20時頃更新予定です。

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