商人の戦場
「休むぞ」
アルドの声は、ほとんど掠れていた。森の中に、少しだけ開けた場所がある。木々が風を遮り、地面には柔らかい草と落ち葉が積もっていた。馬を休ませるには十分で、荷馬車を止めても道を塞がない程度の広さもある。ハインはそこで馬を止めた。エディンが浮羽を保ったまま四人を屋根から一人ずつ降ろし、草の上へ横たえてから魔法を解く。車輪が、低く軋んだ。
レイス、ノル、ルシアン、セレスが横になっている。眠っているというより、意識を手放して落ちているに近かった。アルドは荷馬車の後ろに立ったまま、しばらく動かなかった。緋喰刃の柄に手を置き、森の奥を見る。
「アルちゃん」
エディンが言った。
「寝なさい」
「俺が見張る」
返事は即答だった。ハインがぎょっとしてアルドを見る。アルドの顔色は悪い。目の下に疲労が濃く、指先もわずかに震えている。それでも、立っている。立っていようとしている。
「何言ってるの。アルちゃんも寝なさい」
「見張りがいる」
「いるわよぉ。おねぇさんが起きてるもの」
「エディンも限界だろ」
「あなたほどじゃないわぁ」
「信用できない」
「あら、ひどい」
エディンは笑った。だが、笑っているだけだった。アルドは首を横に振る。
「俺がやる」
「寝なさい」
「俺が見張る」
「アルちゃん」
「見張る」
「……もう」
エディンは、小さく息を吐いた。その顔から、笑みが少しだけ薄くなる。
「せめて座りなさい。立ったまま倒れられる方が面倒よぉ」
「倒れ――」
言い返しかけたアルドの膝が落ちた。ハインが息を呑むより早く、エディンが体を受け止める。片腕で背を支え、もう片方の手で頭を押さえ、地面に敷いた布の上へゆっくり寝かせた。アルドは目を開けようとしたが、もう焦点が合わない。
「だから言ったでしょう?」
返事はなかった。エディンは呼吸を確認し、外套を肩へかける。
「ハインちゃんも寝なさい」
「私は、馬を見て――」
「おねぇさんが見るわぁ」
ハインは馬と荷馬車、それから倒れたアルドを見比べた。
「……分かりました」
「いい子ねぇ」
ハインは素直に布の端へ座り、荷袋を枕にして横になった。眠れるはずがない。そう思っていた顔だった。けれど、体は正直だった。目を閉じてから、ほんの少しで呼吸が深くなる。森の中に、静けさが戻った。エディンは一人、立ったまま周囲を見た。レイス。ノル。ルシアン。セレス。アルド。ハイン。馬。荷馬車。全部を順に確認する。
そして、ようやく大剣を近くへ置き、木の根元に腰を下ろした。
「……さすがに疲れたわねぇ」
その呟きは、森の葉擦れに紛れて消えた。数時間した頃。最初に目を覚ましたのは、レイスだった。どれほど眠ったのか分からない。空の色はまだ高く、日が傾ききる前だった。レイスは目を開けるなり、体を起こそうとした。
「まだ、動かない方がいいわぁ」
エディンの声が飛ぶ。レイスは動きを止めた。少し離れた木の根元に、エディンが座っている。片膝を立て、大剣を横に置いている。眠っていたようには見えない。
「状況は」
レイスが聞いた。
「襲撃なし。馬は休んでる。荷馬車は壊れかけ。でも動くわぁ」
「みんなは」
「生きてる」
「そうか」
「ええ」
レイスはゆっくり息を吐いた。そこでようやく、自分の体が限界近くまで重いことに気づいたらしい。起き上がるのを諦め、肩だけを木の根に預ける。
「俺はどのくらい寝た」
「長くないわぁ」
「十分ではないな」
「当然ね」
レイスは目を閉じかけ、また開けた。
「見張りを代わる」
「却下」
「エディン」
「却下」
返事は早かった。レイスは少しだけ不満そうに眉を寄せるが、反論するほどの力は残っていない。次に目を覚ましたのは、ノルだった。荷台から下ろされ、布の上に寝かされていた彼女は、目を開けるなり自分の胸元を探った。
「……ない」
セレスはまだ眠っている。ルシアンも眠っている。レイスが横から目だけを向けた。
「何がだ」
「お菓子」
「寝起きで探すものか」
「必要」
ノルは上体を起こそうとして、すぐに顔をしかめた。
「体、重い」
「寝ろ」
「お菓子」
「寝ろ」
レイスの声は低い。ノルはしばらく黙ったあと、また横になった。
「起きたら食べる」
「今起きてるだろ」
「完全には起きてない」
その理屈はよく分からなかったが、レイスは追及しなかった。しばらくして、ハインが目を覚ました。彼は跳ねるように起きた。
「馬は!?」
「無事よぉ」
エディンが答える。
「荷は!?」
「そこ」
「皆さんは!」
「全員いるわぁ」
ハインは息を吐き、すぐに周囲を確認した。馬の様子。車輪の状態。荷台の固定。休んでいる仲間たち。そして、地面に座っているエディン。
「エディンさん、眠っていないのでは」
「少しは休んだわよぉ」
「本当ですか」
「ハインちゃん、疑うの?」
「疑っています」
「あら、強くなったわねぇ」
ハインは少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみません」
「いいわぁ」
エディンは笑った。
「そのくらいでちょうどいいのよぉ」
次にルシアンが目を覚ました。彼女は目を開けると、すぐに周囲を見た。自分の体より先に、仲間の状態を確認する。
「みんなは……」
「大怪我はない」
レイスが答えた。
「魔力切れと疲労だ」
ルシアンはゆっくり体を起こし、指輪をはめた手を見る。魔力は戻りきっていない。それでも、最低限の確認はできる。彼女は近くのノル、レイス、セレス、アルドを順に見て、最後にハインと馬へ視線を向けた。
「馬も見せて」
「お願いします」
ハインはすぐに頷いた。ルシアンは立ち上がろうとして、ふらついた。エディンが手を伸ばしかけたが、ルシアンは自分で踏みとどまった。
「大丈夫」
「大丈夫な顔じゃないわぁ」
「少しだけ」
馬のそばへ行き、首筋に手を当てる。馬は疲れていた。擦り傷もある。だが、命に関わる状態ではない。
「休めば大丈夫。水とご飯が必要だけど」
「よかった……」
ハインの肩から、目に見えて力が抜けた。セレスが目を覚ましたのは、その少し後だった。彼女は一度瞬きをし、次に顔をしかめた。
「……全部痛い」
「同感」
ノルが言った。
「全部は痛くないでしょ」
「痛い」
「ノルは転がってただけじゃない」
「撃ってた」
「それはそう」
セレスは苦笑しながら上体を起こす。そして荷馬車を見た。左前輪のひび。車軸の歪み。応急処置の布。顔が真剣になる。
「これ、村まで持つかな」
「持たせる」
レイスが言った。
「持つかどうかではなく、持たせるしかない」
「だよね」
セレスは肩を回し、立ち上がった。最後に目を覚ましたのは、アルドだった。彼は目を開けて数秒、何が起きたのか分からない顔をした。次に、勢いよく起き上がろうとした。体がついてこない。
「っ……」
腕をつき、顔をしかめる。エディンが横から見ていた。
「おはよう、アルちゃん」
アルドは額に手を当てた。
「……俺、寝たのか」
「ええ。勝手にねぇ」
「俺は見張るって言ったはずだ」
「言ってたわねぇ」
「止めろよ」
「止める前に倒れたのよぉ」
アルドはしばらくエディンを睨んでいたが、すぐに息を吐いた。怒るだけの力がないらしい。
「今度やったら怒る」
「今怒ってないの?」
「怒る力がない」
「正直でよろしい」
レイスが体を起こした。
「全員起きたな」
声はいつも通りに戻っている。だが、顔には疲労が残っていた。
「現在地は峡谷を抜けた先の森。目的地までは、ハインの話ではあと一日ほど。荷馬車は損傷あり。馬も疲労あり。俺たちも全員、かなり削られている」
「要約すると最悪だな」
アルドが言った。
「最悪ではない」
レイスは返す。
「生きていて、大怪我は無い、荷も残っていて、馬車はまだ動く」
「それを最悪じゃないと言うなら、だいぶ基準が壊れてるな」
「今さらだ」
ハインが深く頭を下げた。
「皆さん、本当に申し訳ありません」
その場の空気が少しだけ止まる。
「私の商売に、ここまで……」
「ハイン」
アルドが遮った。声は掠れていたが、はっきりしていた。
「勘違いするな」
「ですが」
「俺たちは依頼を受けた。お前の荷を守ると決めた。だから守った」
ハインは言葉を失う。レイスも続けた。
「報酬と道具を受け取っている。契約上の危険は、こちらも承知している」
「でも、あれは」
「想定より悪かった」
レイスは淡々と言った。
「だが、それはお前の責任ではない」
ルシアンが柔らかく笑う。
「ハインさんがいたから、ここまで来られたよ。何度も声をかけてくれた」
「それは、見えたことを言っただけで」
「それが助かったの」
セレスが頷く。
「私も。左上の時、本当に危なかった」
「馬も」
ノルが言う。
「ハインが見てた」
ハインは全員を見た。何かを言おうとして、言葉が詰まる。エディンが軽く手を叩いた。
「はい、この話は終わりよぉ」
「エディンさん」
「商人が自分の商売に責任を持つのはいいことだけど、全部を背負うのは違うわぁ」
ハインはゆっくり頭を下げた。
「……はい」
「それより、村まで行く準備よぉ」
その言葉で、全員が動き出した。まともに動ける者はいなかった。それでも、動いた。荷馬車の布を結び直す。歪んだ車輪を確認する。馬へ水を飲ませる。食料を少しだけ口にする。弾を数える。短剣を拭く。地図を見る。アルドは緋喰刃を軽く確認し、鞘へ戻した。レイスはハインから地図を借り、現在地と村までの道を確かめる。
「ここから先は?」
「山道ではありますが、峡谷ほど狭くはありません。森を抜ければ、村までの道に出ます」
「襲撃の可能性は」
「あります。ただ、昨日ほどではないはずです」
「でないと困る」
アルドが言った。
「そうですね」
ハインが真顔で聞く。
「進むぞ」
荷馬車は、再び森の中を進み始めた。速度は遅い。車輪の損傷を考えれば、無理はできない。馬も疲れている。それでも、峡谷の中よりはましだった。空が広い。木々の間に鳥の声がある。左右に逃げ場もある。それだけで、ずいぶん違った。しばらく進んだところで、エディンがふと口を開いた。
「それにしても」
全員の視線が向く。
「アルちゃんとレイちゃん、いつの間に四属性を使えるようになっていたの?」
アルドが顔をしかめた。
「今その話か」
「今だからよぉ」
エディンは楽しそうに笑う。
「昨日の戦い、ちゃんと見ていたわよぉ。アルちゃんは蒼炎、雷荷、旋風、水流。レイちゃんは雷荷、旋風、水流、大地」
レイスは少しだけ目を伏せる。
「必要だったから使っただけだ」
「必要だからって、できるものじゃないわぁ」
エディンの声は柔らかいが、そこには珍しくまっすぐな感心があった。
「四属性を実戦で回せるなんて、事実上の最大数よぉ」
「五属性はいないのか?」
アルドが言う。
「聞いたことないわねぇ」
「優秀な人間でも最高到達点は四属性。三属性でも十分過ぎるほどすごいの。四属性を、昨日みたいな状況で使い分けられるなら、本当に大したものよぉ」
ノルが荷台の上から顔を出す。
「褒めてる」
「褒めてるわぁ」
「珍しい」
「あら、いつも褒めてるわよぉ」
「茶化してる」
「それも愛情よぉ」
レイスは少しだけ沈黙した。
「俺は、まだ感知もできていない」
「全部できる必要はないわぁ」
エディンは前を見ながら言う。
「できることを増やしている。それだけで十分よぉ」
ルシアンが微笑んだ。
「レイス、褒められてるよ」
「分かっている」
「嬉しい?」
「……悪くはない」
ノルが短く言った。
「嬉しいんだ」
「ノル」
「顔」
「見るな」
セレスが少し笑った。アルドは前を見たまま、口元だけで笑う。
「レイス、よかったな」
「お前も褒められていただろう」
「俺は慣れてる」
「嘘をつくな」
「慣れてない」
「早いな」
ハインが手綱を握りながら、小さく笑った。
「皆さん、あの戦いの後なのに、よくそうやって話せますね」
「話していないと、体の重さを思い出す」
セレスが言った。
「それは確かに」
ルシアンが頷く。荷馬車は進む。森を抜け、山道へ出る頃には、空が少しずつ明るさを変えていた。昼を過ぎ、日が傾き始める少し前。村が見えた。山間に広がる村だった。だが、村というには大きい。家々の間には工房があり、いくつもの煙突から薄い煙が上がっている。金属を打つ音、木を削る音、布を張る音、誰かが声を掛け合う音が混じり、村全体が一つの大きな作業場のようだった。
村の入口には、空の荷車が何台も並んでいる。よそから来た商人らしい姿もある。ただの山村ではない。物が作られ、売られ、運ばれる場所だった。ハインの目が少しだけ変わった。疲労はある。だが、商人の顔になっていた。
「フィランツ村です」
ハインが言った。
「ここが」
アルドは村を見る。
「目的地か」
「はい」
村の中央には、白い石の像が立っていた。天祈像だった。片手に細い筆を持ち、もう片方の手で板のようなものを支えている。視線はその板へ向けられ、今まさに線を引こうとしている姿だった。足元には、器、木彫り、布の模様板、細工された小箱のようなものが刻まれている。
「絵描きか?」
アルドが聞いた。
「フィランツ様です」
ハインが答える。
「この村の名になった人物です。元々この村は、小さな工芸品を作るだけの山村でした。ですが、フィランツが工芸品をただの土産ではなく、村の武器として外へ売り出す仕組みを作りました」
「武器?」
ノルが首を傾げる。
「剣ではありません」
ハインは少し笑う。
「価値です。絵柄、細工、模様、物語。物に意味を乗せて売る。それで、この村は大きくなったそうです」
レイスが像を見る。
「作ったものだけではなく、売り方で村を変えたのか」
「はい」
「商人向きの像だな」
「そうですね」
ハインの声は、少しだけ楽しそうだった。村に入ると、すぐにハインは動き出した。まず馬を預ける。次に荷馬車の修理を依頼する。その手配が早かった。村の荷受け場に着くと、彼は疲れを見せずに人を呼び、商会名を告げ、荷の種類を簡潔に伝えた。相手の表情が変わる。共和国産の織物。その言葉だけで、空気が動いた。
「会っていただきたい方がいます」
ハインはアルドたちへ言った。
「工房組合の代表です。この村で大きな取引をするなら、その方と話すのが一番早い」
「俺たちは?」
アルドが問う。
「同席していただけると助かります。ただ、交渉は私が行います」
「分かった」
レイスは短く頷いた。
「余計なことは言わない」
「助かります」
ハインは少しだけ笑った。
「特に値段の時は」
「分かってる」
ノルが言った。
「たぶん」
「ノルは黙っていろ」
レイスが即座に言う。
「分かった」
本当に分かっているかは怪しかった。工房組合の建物は、村の中央に近い場所にあった。広い木造の建物で、壁にはさまざまな工芸品が飾られている。繊細な木箱。金属の細工。色鮮やかな布飾り。器。装飾具。どれも一つ一つが丁寧に作られていた。応接室へ通される。長い机。向かいに座るのは、工房組合代表の男だった。年は五十前後。
指は太く、爪の間にはわずかに染料が残っている。職人の手だった。ただの商人ではない。作る側を束ねる者の顔をしていた。
「ハイン商会のハインです」
ハインは丁寧に頭を下げた。
「本日は、お時間をいただきありがとうございます」
「共和国産の織物を持っていると聞いた」
代表は前置きを短く切った。声が低い。興味は隠していない。
「はい」
ハインは静かに頷く。
「状態の良いものを、まとまった量でお持ちしました」
「まとまった量、か」
代表の目が細くなる。
「今、それをここに持ち込める商人はいない」
「存じています」
ハインは正面から答えた。アルドはその横顔を見た。声は丁寧。だが、引いていない。峡谷で手綱を握っていた時と同じ手で、今は商談の机に向かっている。代表は少しだけ口元を上げた。
「見せてもらおう」
ハインは合図を送る。運び込まれた箱が開けられた。布が広げられる。光を受けて、織り目が柔らかく浮かんだ。色は深く、手触りは滑らかで、厚みもある。山間の村で普段扱う布とは明らかに違う。代表の目が変わった。周囲にいた職人たちも、わずかに身を乗り出す。セレスが小さく息を呑んだ。
「綺麗……」
ルシアンも頷く。
「うん」
ノルは布ではなく、代表とハインの顔を見ていた。レイスも同じだった。代表は布に指を滑らせる。
「確かに良い」
「ありがとうございます」
「だが、量が多い」
「はい」
「全てを買い取るとなれば、こちらにも負担が大きい」
「承知しています」
ハインはすぐに返す。
「ですので、個別の工房へ分けて売るのではなく、工房組合として一括で買い取っていただきたい」
代表の眉が動く。
「こちらの負担が増える話ではないか」
「短期的には」
ハインは言った。
「ですが、この量を組合で押さえれば、村全体で同じ品質の布を使えます。個々の工房が奪い合う必要がない。価格もばらつかない。フィランツ村として、統一した新作を出せます」
代表は黙る。ハインは続けた。
「ご存知の通り、現在共和国産の織物は希少です。だからこそ、少量を高く売るだけでも利益は出ます」
「そうだろうな」
「ですが、それでは一部の工房しか使えない。村全体の利益にはなりにくい」
ハインは広げた布を見る。
「フィランツ村が、共和国産の織物を使った新作工芸を一斉に出す。山間の工芸村が、戦時下でも質を落とさず、むしろ新しい価値を作ったと示す」
代表の目が少しだけ鋭くなった。
「大きく出たな」
「フィランツ村の今後の発展にかかわる大きな取引だと思っています」
ハインは即答した。
「それに、私は次の荷も運ばなければなりません。フィランツ村の工芸品を、南へ持っていくつもりです」
代表の指が、机を軽く叩いた。
「南か」
「はい」
「この村の品を、南へ売ると?」
「売ります」
ハインの声に迷いはなかった。
「ですから、今回の取引は二つです。一つは、共和国産の織物を組合へ一括で卸すこと。もう一つは、フィランツ村の工芸品を、私が南へ運ぶこと」
部屋の空気が変わった。これは、ただ布を売る話ではない。村の外へ道を作る話だった。代表は椅子に背を預ける。
「値は」
ハインは用意していた紙を出した。そこには、数量、布の種類、箱数、希望価格、支払い条件が整然と書かれている。代表はそれを見た。眉間に皺が寄る。
「高いな」
「共和国産ですので」
「……それでも高い」
「公正な価格だと思っています」
「それは分かる。高いが状況を考えると法外な価格ではない。だが、これでは組合の資金をかなり動かすことになる」
「全額を貨幣で支払っていただく必要はありません」
代表の目が動いた。
「どういう意味だ」
「一部を工芸品でお支払いください」
ハインは静かに言った。
「私が南へ運ぶ品です。こちらで選ばせていただきます。もちろん、相場より低く買い叩くつもりはありません。貨幣と品の組み合わせで、双方に無理のない形にできます」
代表は紙を見る。ハインを見る。もう一度、布を見る。
「こちらの工芸品で支払わせ、その品を南で売る。二度利益を取るつもりか」
「はい」
ハインは正直に答えた。代表の口元がわずかに動いた。
「隠さないのか」
「隠す意味がありません。商人ですので」
エディンが少し楽しそうに目を細める。アルドも口元だけで笑った。代表は腕を組む。
「なら、こちらにも条件がある」
「伺います」
「工芸品を選ぶ時、村の名を落とすような品は持っていくな。売りやすいからと粗い品を混ぜられるのは困る」
「承知しています。むしろ、質の良いものを選ばせていただきます」
「高いぞ」
「高く売ります」
「若いのに、言うな」
「言います」
代表は少しだけ笑った。だが、すぐに表情を戻す。
「織物の値をもう少し下げろ」
「下げられません」
「即答か」
「品質と量を考えれば、妥当です。すでに限界まで下げさせていただいています」
「では、工芸品側の換算をこちらに有利に」
「それでは私が南へ運ぶ意味が薄くなります」
「荷馬車の修理をこちらで手配する」
「それは助かります。ですが、価格とは別です」
「馬の餌と休息場所も用意する」
「感謝します。それも価格とは別です」
代表は目を細めた。
「強いな」
「弱い商人は、昨日の峡谷で死んでいます」
その言葉に、部屋が少し静かになった。代表はハインを見た。ハインの服は整えられている。だが、疲労は消えていない。手の甲には手綱の跡があり、袖口にも細かな傷がある。代表は視線をアルドたちへ移した。護衛。疲れているが、目が死んでいない。ただの商人の一行ではない。それでも、代表は追及しなかった。
「……分かった」
代表は紙を置いた。
「織物は組合で一括購入する。支払いは貨幣七割、工芸品三割。工芸品の選定は、こちらの職人も立ち会う。質の低いものは出さない。お前も、無理な値切りはするな」
「承知しました」
「ただし、輸送中に破損した場合はこちらの責任ではない」
「梱包を確認したうえで受け取ります」
「荷馬車の修理は、こちらで職人を出す。今日中に応急ではなく、走れる状態にする」
「ありがとうございます」
「馬の世話も手配する」
「助かります」
「食料と薬もいるだろう」
ハインが少しだけ目を丸くした。代表は鼻を鳴らす。
「峡谷を抜けてきたんだろ。見れば分かる」
ハインは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼はいい。代わりに、南で高く売れ」
「必ず」
ハインは顔を上げた。その目は、峡谷を抜けた時よりも強かった。
「フィランツ村の名を、良い値で売ってきます」
「値だけではない」
代表は言った。
「良い名で売れ」
ハインは一瞬だけ黙った。それから、もう一度頭を下げる。
「はい」
商談は成立した。部屋を出たあと、アルドはハインを見た。
「うまいな」
短い言葉だった。ハインは少しだけ目を瞬かせる。
「ありがとうございます」
「昨日の俺たちより戦ってたぞ」
「戦場が違いますので」
ハインは少し照れたように笑った。
「商人ですから」
レイスが紙の写しを見ながら言う。
「貨幣七割、工芸品三割。修理と馬の世話、食料と薬の手配。これ以上無い結果だ」
「レイスさんにそう言っていただけるなら、安心しました」
「受け取る品の選定もしっかりな、俺はさっぱり分からん」
「はい」
ハインは少し笑いながら返した。ノルがぼそりと言った。
「ハイン、商人っぽかった」
「商人です」
「前より」
ハインは少しだけ笑った。
「それは、嬉しいです」
その後、フィランツ村は忙しく動いた。荷馬車は工房脇へ運ばれ、職人たちが車輪と車軸を確認した。
「よくこれで走ったな」
一人が呟いた。別の職人が、ひび割れた木を見て眉を寄せる。
「応急でここまで持たせたのか。誰だ、これを固めたのは」
「おねぇさんよぉ」
エディンが笑顔で手を振る。職人は何かを言いかけ、やめた。
「……助かったな」
「ええ。助かったわぁ」
馬は厩へ連れていかれた。水と餌が用意され、擦り傷も手当てされる。ルシアンはそれを見届けてから、ようやく自分の腕の擦り傷に気づいた。セレスに見つかり、座らされる。
「人の前に自分」
「分かってる」
「分かってない顔」
「分かってるよ」
「今、一瞬だけ目を逸らした」
ノルは横で干し菓子を食べていた。
「サクサク音がする」
セレスが言う。
「知らない」
「今度は隠す気もないね」
「疲れたから」
「理由になってないよ」
レイスは村の地図と戻りの道を確認していた。山脈を抜ける道は渓谷を抜けるか、大きく北に迂回するかの二択だ。つまり、峡谷を戻るしかない。それは変わらない。ただ、今度は襲撃を想定した上で準備ができる。職人による修理。追加の縄。車輪止め。予備の軸材。油。包帯。保存食。水袋。ノルの弾も補充された。荷の入れ替えも進む。
共和国産の織物の箱が降ろされ、代わりにフィランツ村の工芸品が積まれていく。木箱には緩衝材が詰められ、一つ一つ丁寧に封がされた。日が傾く頃、レイスが村の道具屋の前で足を止めた。店先には、板材や革袋、折り畳まれた金具のようなものが束ねられて置かれている。レイスはそれをしばらく見た。
「ハイン」
呼ばれたハインが振り返る。
「はい」
「これ、使えないか?」
「これですか?」
「ああ。万が一の時のためだ」
ハインは道具を見た。一瞬だけ考える。それから、すぐに頷いた。
「そうですね。念の為用意しておきましょう」
ハインは店主と短く話し、それは分解されたまま、荷馬車の端へ積まれる。アルドはその様子を見ていたが、何も聞かなかった。何に使うのか分からなかった。夕方には、荷馬車の修理が終わった。完全ではない。だが、昨日よりはずっとましだった。車輪は補強され、車軸も替えられる部分は替えられた。荷台の傷も板で塞がれ、布と縄で固定されている。ハインは職人たちへ何度も礼を言った。
そして、工房組合の代表から工芸品の受け取りを終える。取引の紙に署名し、封蝋を押す。その手は震えていなかった。夜。一行は村の宿を借りた。食事も出た。温かい汁物。柔らかいパン。焼いた根菜。山の燻製肉。体に染みるような食事だった。ハインは食事の前に、改めて頭を下げた。
「今日の取引は、皆さんが荷を守ってくださったから成立しました。本当にありがとうございます」
「まだ油断できない、あそこをもう一度通るんだからな」
アルドは椅子に背を預けた。体はまだ重い。だが、昨日よりは息ができる。ハインの取引は成功した。荷馬車は直った。馬も休めた。食料も薬も増えた。何もかも解決したわけではない。むしろ、帰り道はまだ残っている。追手もいる。夜骸もいる。盗賊もいる。それでも、その夜だけは、温かい食事を囲むことができた。フィランツ村の外では、工房の火が少しずつ落とされていく。
夜の広場では、天祈像のフィランツが筆を構えていた。ハインは窓の外の像を少しだけ見た。そして、手元の取引書へ目を落とす。
「南へ、持っていきます」
誰にともなく、そう言った。アルドはそれを聞いて、短く答えた。
「ああ」
その声は疲れていた。けれど、悪くなかった。
「運ぶぞ」
ハインは静かに頷いた。
「はい」
その夜、黒豹は久しぶりに、屋根の下で眠った。
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